3.伝えたい想い(前編)
「お嬢様、お湯加減はいかがでしょうか」
扉の向こうからハンナの明るい声がする。その問いに、私は「ちょうどいいわ」の意を込めて二回手を叩いた。
声が出なくなったあの日から、私はお風呂のときはこうやって手を叩き、ハンナに指示を出している。「肯定」なら二回、「否定」なら三回。
そうは言ってもハンナは何でもよく気が付いてくれるから、私が三度手を叩くようなことはほとんどないのだが。それにハンナに言わせれば、こうやって湯舟に浸かるときは侍女の一人も付けるもの。そうすればわざわざ私から合図を送る必要もなくなるのに――とのことであったが、私は昔からお湯には一人で浸かると決めている。それを今さら声が出なくなったくらいで覆すつもりはない。
だって髪も身体も一人で十分洗える。それに怪我を負ったとき、決して他人に気が付かれたくないから――。
今日あの男に付けられた首の赤い痣……このような貴族の令嬢にあるまじき姿は、ハンナであろうと見せられない。……まぁでも、ルイスだけは例外と言えるか。
そんなことを考えながら、私は一日の出来事と、ニックのことを思い返した。
あの後、ニックはライオネルによって警備隊に引き渡されたことだろう。まだ子供とはいえ犯罪は犯罪だ。それにニックは、私の首を絞めたあの――多分、行き場のない孤児を引き入れ犯罪に使っている――男と繋がりがあるのだから。何の罰もなしに釈放されることはあり得ないはず……。
――どうにかして、ニックを助けないと。
ニックのあの様子だと、父親は借金でも残して死んだのか。
身元引受人がいるとも思えないので、兵士に金貨数枚握らせれば身柄は引き渡してもらえるだろうけれど、問題がないわけではない。
――正直、これ以上騒ぎも揉め事も起こしたくないのよね……。
今私がいるのはウィリアムの屋敷なわけで、外出一つするのも大変だ。加えて、私の行動一つ一つにルイスが目を光らせている。
以前と比べ仲は良好になったとはいえ、それだって私の警戒心を解くための演技である可能性は捨てきれない。
つまり、ニックを助けるためにはルイスの協力を仰がなければならないのだ。
「…………」
――でも、あのルイスが承知するかしら? ウィリアムに不審に思われるような行動はするなって言うわよね、きっと……。
そこまで考えて、私はふと思い当たる。
――そもそも、どうしてウィリアムはルイスと一緒にいたのだろう、と。
たまたま居合わせて合流したってこと? いいえ、そんな偶然あり得ない。
ということは、私とウィリアムはルイスに尾行されていたということになる。それも、ハンナを巻き込んで……。
「……っ」
――ハンナったら、そんなこと一言も言わなかったじゃない!
私はようやくその事実に気付き、思わず湯舟から立ち上がった。
まさか尾行されていたなんて、まったく気が付かなかった。ほんの少しの気配も感じることができなかった――そのことに、私は酷く動揺する。
――嘘でしょう……⁉
ああ、私はこの二ヵ月でどれだけ腑抜けてしまったのだろう。つけられていることに気付かないなんて、どれだけ油断していたのだろう。たとえ悪意のない尾行だったとしても、気付かないなど絶対にあってはならないのに……。
――ならばルイスは気付いたはずだ。私とニックの関係に。
彼の事だから、私とニックがどんな関係だったか既に調べ上げている可能性だってある。
それなら、話は早い……。
――ルイスに直談判しなくちゃ。
私はそう心に決める。――するとそのとき、浴室の外からハンナの声がした。
「お嬢様、申し訳ございません。ヘアドライ用のタオルが足りなくて……取って参りますのでしばらくお待ちくださいね」
――あぁ、今日は使用人が出払っているからいつもと勝手が違うのだろう。バスローブはここにあるが、髪を乾かすためのタオルが無かったとかそんなところか。
私は肯定の意を込め、再び二度手を叩く。同時に扉の向こうから、ハンナの気配が消えた。
私はハンナが戻る前に首の痣を隠してしまおうと、湯船から上がりバスローブを羽織る。
鏡の前に立ち、持ち運び用のコイン大の白粉ケースから、粉を指に取り肌の上に伸ばしていった。――すると、そのときだった。
「アメリア、そこにいるのか?」
「――ッ⁉」
それはウィリアムの声だった。
驚きのあまり、私の身体が硬直する。
――どうしてウィリアムが私の部屋に? いつもは入ってこないのに! ああ、そんなことより、鍵……! 鍵をかけなきゃ!
そう、今この浴室の鍵は開いている。
声を出せない今、何かあったときに知らせられないからと、ハンナから鍵をかけないように口酸っぱく言われているのだ。
「いないのか? 開けるぞ」
――駄目!
私は急いで扉に駆け寄った。けれど、間に合わなかった。
私が鍵を閉めるより早く、扉が開いてウィリアムと視線がぶつかる。――ウィリアムの顔が、赤く染まった。
「なっ……!」
まさか侍女も伴わず湯に浸かっているとは思わなかったのだろう、彼はバスローブ姿の私に、釘付けになる。
「す――すまない! まさか風呂に入っているとは思わず……」
しどろもどろに呟いて、取り繕ったように顔を逸らすウィリアム。
けれどそれも束の間、彼の瞳が、大きく見開く。――その視線を、こちらに戻して。
「……それは……いったい何だ……?」
――あぁ、気付いてしまったのね。
私の首の、手のひらの形の赤い痣。そこに、ウィリアムの視線が突き刺さる。
「その……痣は……まさか……」
私の返事がなくとも、意味を悟ったのだろう。彼の顔が驚きに満ちる。
「首を……絞められたのか……?」
「――っ」
あぁ――気付かれたくなかった。この人にだけは、こんな姿見られたくなかった。
そう思っても、もう遅い。
「なぜ言わなかった⁉ いったい誰がこんな……あの子供か? マクリーンもこのことを知っていたのか? あの男は知っていて黙っていたのか……⁉」
「……っ」
ウィリアムの顔が怒りに染まる。今まで見たことのないほど感情的に……彼は動揺を露わにする。
「どうしてだ……なぜ隠そうとする? 俺はそんなに頼りないのか……?」
悔しげに揺れる彼の瞳。今にも泣き出しそうに震える唇。――その腕が私の背中に回されて――けれど、そこで止まった。
ウィリアムが、自嘲気味に笑う。
「――自業自得……だな」
「……?」
「君と真剣に向き合ってこなかった……こんな俺を……頼れるわけ、ないよな」
「――っ」
「君は何一つ悪くない。悪いのは全部俺だ。偽りだらけなのは……俺の方なんだから」
――違う、違うの。これは全部私の我が儘、私が好きでしたことなの。だからあなたがそんな顔する必要ない……!
そう思ってウィリアムを見つめても、私の想いは伝わらず、こちらに背を向けるウィリアム。
「怒鳴って悪かった。服を着たら俺の部屋に来てくれるか? 君に大事な話がある」
そう言い残し、彼は部屋から出ていこうとする。
――あぁ、待って、行かないで! 私の話を聞いて……!
心が叫ぶ。けれどやっぱり私の声は声にならず、喉からは掠れた空気が漏れるのみ。
しかも間の悪いことに、急な頭痛が私を襲った。
締め付けられるような強い痛みに耐えきれず、私はその場にしゃがみ込む。
「――っ」
あぁ、なんでこんなときに……。




