2.失くした心(後編)
そんなウィリアムに追い打ちをかけるように、ルイスは「湖に出掛かけたあの日」と続ける。
「アーサー様はアメリア様に何も手出しはしていないのです。アメリア様はあのとき、死ぬつもりなどなかったのです」
――それは二ヵ月前に、アメリアが川に落ちた事件のことを言っていた。
アーサーがアメリアを辱めた。そのせいでアメリアは自死を図ったのだと、そう報告を受けたウィリアムはアーサーを責めたのだ。
「まさか……そんな……。アーサーはあのとき何一つ反論しなかったんだぞ? それにアメリアをマクリーンの屋敷に迎えに行ったとき、彼女は俺を見て泣いていた! あれは、アーサーに傷つけられたからじゃなかったのか⁉」
そうだ。ウィリアムだって無条件でルイスの言葉を信じたわけではない。誤解ならそう言うはずだと、そう考えてあのような言葉を口にしたのだ。
けれどアーサーは何も言わなかった。だからウィリアムはルイスの言葉を信じたのである。
だが、それが全て間違いだったと? アーサーを責めた際、自分から目を逸らしたあのときの態度……あれも間違いだったというのか?
「……なぜだ。どうしてそんなことを……」
ウィリアムの脳裏によぎる、あの日のアーサーの酷く傷ついた顔。
「確かに、お前に自由を与えたのは俺だ。俺の存ぜぬところで、お前が誰と会い何をしようが構わなかった。お前が俺に嘘をつこうが、世間にどんな噂を流そうが咎めなかった。だがそれは……それはお前が、俺との約束を守ると誓ったからだ……!」
ルイスの嘘は日常茶飯事だった。隠し事だらけだった。だがそれでも、ウィリアムに不利益を与えることは一度だってなかった。
ルイスの嘘はいつだって、ウィリアムの望むとおりに事を進めるための嘘――あるいは、周りと確執を作らないための立ち回り――そういう類のもの。
だが今回は違う。ルイスは、他でもないウィリアムにアーサーを貶めさせたのだ。それも、アメリアにも片棒を担がせて。
――こんなやり方、ルイスらしくない。
ウィリアムは大きく息を吐き、視線を床に落とす。隣に座るルイスに向かって、「どうしてだ」と力なく問いかける。
するとルイスは一拍置いて、再び口を開いた。
「ウィリアム様。幼い頃、僕らが交わした契約を覚えていらっしゃいますよね。僕は僕の願いのために、あなたの側にいることを選んだ。あなたはあなた自身のために、僕を側に置くことを望んだ。つまり、アーサー様を僕から……いえ、あなたから遠ざけたのは、僕らの願いを叶えるために必要だったからなのです」
「……どういう、意味だ」
「僕の願いは以前お伝えしたとおり、あなたの手でアメリア様を幸せにすること。……そして、あなたの願いは……」
言いかけたルイスの言葉に、ウィリアムは大きく瞼を開く。まさか――と、その表情が動揺と困惑に歪んだ。
ウィリアムは眉をひそめ、右手でルイスの言葉を遮る。
「待て。ちょっと待ってくれ。……つまりお前は、アーサーやアメリアが、俺たちと同じ存在だと言っているのか?」
アメリアについては薄々感づいていた。ルイスがアメリアを特別視する理由は何なのかと考えたとき、それしか理由が思い当たらなかったからだ。
けれどまさかアーサーまでもが……いや、やはりそうだったのかと……言うべきなのか。
狼狽えるウィリアムを横目に、ルイスは重たい腰を上げ、窓際の丸テーブルへ歩み寄る。
ウィリアムに背を向けたまま空のグラスにワインを注いで、ぐい――と一気に飲み干した。まるでそうせざるを得ないとでも言うように、ルイスは空になったグラスに再びワインを注ぎ……けれどそこで、手を止める。
「……ウィリアム様」
囁くほどのその声は、窓から差し込む夕日に溶けて消えてしまいそうな憂いを感じさせた。それは二ヵ月前のあの日――残された時間はあとわずかだと、そう言ったときと同じように。
ルイスはグラスを見つめたまま、静かな声で告げる。
「あなたの仰るとおり、あのお二人は僕らと同じく、その身に不思議な力を秘めている。その中でも彼女は特に僕と近い存在です。つまりあの方こそが、あなたの運命の相手。アメリア様なら……アメリア様だからこそ、あなたの全てを受け入れることができる。――ですから」
ルイスがゆっくりと振り返る。
夕暮れの色に染まる黒い瞳が、ウィリアムの視線を捕らえた。
「預かっていた〝あなたの心〟を、お返しさせていただいても……よろしいでしょうか」
「――ッ」
そう言ったルイスの表情は怖いほどに穏やかで――ウィリアムはもうそれ以上何も言えずに、ただ黙って俯くことしかできない。
そんなウィリアムに、ルイスはただ微笑みかける。
「大丈夫。怖がらなくていいんです。僕は最後まで見届けるつもりでいます。だから、アメリア様を愛してしまわれていいんですよ。……そうでなくても、僕にはあなたの力をこれ以上抑え続けるのは難しい。悔しいですが、僕はもうあなたの騎士ではいられない」
「何を……。俺はお前をそんな風に思ったことは一度だって……」
「ええ、承知しております。ですがこれはもう決まったこと。さすがの僕も時の流れに逆らうことはできませんから」
「…………」
「さぁ、これで話はお終いです。ですが――いいですか。あなたの持つ力のことは、決してアメリア様に話してはなりません。それにあなたも、あの方の持つ力について一切詮索してはいけません」
「それは、どうしてだ」
「隠したがっておられるからです。自身の持つ力を誰にも知られたくないと、そう考えておられるからです」
「…………」
「ですからあなたには今までどおり……いえ、今まで以上にアメリア様と向き合っていただきたく。それだけが、僕の唯一の願いです」
ルイスの瞳に揺れる悲哀。それがウィリアムの冷え切った心を溶かしていく。――否、欠けた心を補完していくと言った方が正しいのかもしれない。
「ウィリアム様」
呟いて、ルイスは慈しむようにウィリアムの右手を取った。
すると同時に、ウィリアムの中に流れ込む――熱い何か。
「――ッ」
十数年ぶりのその感覚に、ウィリアムの顔が歪んだ。
けれどルイスは決して手を離さない。ウィリアムも、ルイスの手を撥ねのけようとはしなかった。
それはルイスから流れ込むソレの懐かしさへのせいなのか。もしくはルイスへの誠意だったのか……彼自身にもわからない気持ちであった。
ルイスはしばらくの間ウィリアムの右手を掴んで放さなかったが、自分の中からソレが全て消え去ったタイミングで、そっと手を下ろす。
「さぁ、これで全ては元どおり。僕があなたの心を読むことはできなくなった。もうその心はあなただけのもの。――ウィリアム様、十五年前に僕らが交わした契約は、今この時を持って終了しました。自由に、生きてくださいね」
「……っ」
ルイスの切なげな瞳。――その表情に、ウィリアムは今にもルイスが消えてしまうのではないかという思いに駆られた。
あり得ない話ではない。なぜならルイスは、契約は終了したと、そう言ったのだから。
だが、急に言われても納得できるわけがない。
ウィリアムはルイスの右手を掴み、握りしめる。
「ルイス! 俺はお前を手放すつもりはない。俺がいいと言うまでここにいろ。彼女の――アメリアの幸せを、その目で最後まで見届けろ。これは命令だ」
するとルイスは驚いたように瞼を震わせ――けれどすぐに、微笑んだ。
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきます。あなた方の魂が結ばれるそのときまで、ご厄介になることに致しましょう」
夕暮れ時、窓から差し込む夕日のみが二人の姿を眩しく照らす。
そんな中、二人はしばらくの間、お互いを見つめ合っていた。




