1.失くした心(前編)
日も入りかけた頃、ウィリアムはルイスの部屋を訪れた。
「ルイス、入るぞ」――そう声をかけドアを開けると、ベッドに腰を下ろしたルイスが気だるげな瞳でこちらを見ていた。
「悪い、遅くなった」
ウィリアムはドアを閉める。そして、ゆっくりと部屋の中を見回した。
この部屋はずっと変わらない。ルイスがやってきた十五年前から、まるで時が止まっているかのようだ。必要最低限しかない家具も、地味な色のカーテンも、本棚に整然と並べられた本一冊に至るまで、全てが――。
ウィリアムは代わり映えしない殺風景な部屋を眺め、せめてソファくらい置いたらどうなんだと呑気なことを考える。――すると同時に、ルイスが小さく息をついた。
「ソファなど不要です。ここには人を入れませんから。ご存じでしょう?」
それはまさしくウィリアムの感情を読み取ったかのような反応だった。
けれどウィリアムは驚かない。彼にとって、そのルイスの反応は当然のことだからだ。
「だが不便だろう? 本を読むにもソファの一つくらいあった方がいいと思うが」
「いいんです。テーブルと椅子で事足りますから」
「そうか? まぁお前がいいならいいんだが……それで、俺はどこに座ればいい?」
「何を今さら。僕の隣に決まってるでしょう」
「…………」
――ああ、そういえばそうだった。あまりに久しぶりで忘れていたが、俺はいつもベッドに座っていたんだった。
ウィリアムはそんな顔をして、ルイスの隣に腰を下ろす。
すると、ルイスは再びため息をついた。
「――にしても、ずいぶん長かったですね、ハンナのお説教は」
「ああ……まぁな」
――そう。ウィリアムはつい先ほどまで、ハンナから一時間もの間絞られていたのだ。一度ならず二度までもお嬢様を危険に晒すとは何事か――と。
ウィリアムはハンナの怒りの形相を思い出し、はあ――と深いため息をつく。
「気付いていたなら止めに入ってくれれば……」
「なぜです? あなたがちゃんとアメリア様を掴まえておけば、あのようなことにはならなかったのですよ。叱られて当然でしょう」
「お前もハンナと同じことを言うんだな」
自分を責めるようにこちらを流し見るルイスの瞳。その視線の居心地の悪さに、ウィリアムは視線を泳がせる。
「……悪かった。ここ最近の彼女は大人しくて、すっかり油断していたのは事実だ。声を出せない彼女のことを、もっとよく見ておかなければならなかった。……反省してる」
「そうですか。まぁでも、一番に悪いのはあなたではありませんから。それに油断していたのは僕も同じ。あなたを責める権利はありませんよ」
「そうか? ――にしても、今日はいったいどうした。お前、やっぱり顔色が悪いぞ」
ウィリアムはルイスの顔を覗き込む。
昼間も感じたことだが、今日のルイスは体調が悪そうなのだ。
もともと色白のルイスだが、今の顔色は蒼白に近い。
それに、いつもなら必ずクローゼットにしまっているはずのジャケットやベストが、ベッドに脱ぎ散らかされたままになっている。シーツに皺ができているのは、おそらくウィリアムが部屋に来るまで横になっていたからだろう。
極めつけは首元のボタン。普段は決して人に肌をさらすことのないルイスが、シャツのボタンを上から二つも外しているのだ。
それは付き合いの長いウィリアムですら覚えのない、隙だらけなルイスの姿だった。
「街では怪我はしていないと言ったな。ならどこか悪いのか? 力を使いすぎたと言ったが……本当にそれだけか?」
ウィリアムは尋ねる。が、ルイスは首を横に振った。
「ご心配には及びません。本当に疲れただけですから。あなたのせいでずいぶん走らされましたしね」
「それは悪かったと思ってる。だが走っただけでそんな風にはならないだろう。もしそれが本当なら、やはりどこか悪いということだ。一度診てもらったほうがいい」
「いえ、本当に大丈夫ですから……」
ルイスは断るが、青白い顔で言われても全く説得力がない。――ウィリアムは眉をひそめる。
「お前、まさかまだ医者が怖いのか?」
「え……なぜです?」
「昔から、診察のとき意地でも脱がなかっただろう。最初は白い肌を見られたくないのかと思っていたが、俺がお前に紅茶をかけて火傷させてしまったときも、お前は頑なに脱ぐのを嫌がった。だからお前は医者嫌いなのだと思っていたんだが……違うのか?」
「なるほど。あなたにしてはいい推理です」
「俺にしては、は余計だ。俺はお前を心配してるんだぞ」
「わかっていますよ。――にしても、そんなに昔のことをよく覚えていますね」
「そりゃあ覚えてるさ。俺にはお前しかいなかった。俺のことを理解してくれるのは……他でもない、ルイス、お前だけだったんだ。それはお前自身が一番よくわかっているだろう?」
「……ええ、そうですね」
二人はしばし見つめ合う。
その沈黙を破ったのはウィリアムの方だった。
「――ルイス、教えてくれ。お前とアーサーの間にいったい何があった? 俺の知らないところで、いったい何が起こっている? それは俺やアメリアに関係のあることなのか? それとも、お前たち二人だけの問題なのか?」
ウィリアムは語気を強める。
「俺はお前の言うとおりに生きてきた。幼かったあの日、俺に手を差し伸べてくれたのは……俺を救ってくれたのは、お前だったからだ。お前のことを信じていたからだ。だからお前がどんな嘘をつこうが、どんな秘密を隠そうが、取るに足らないことだと思っていた。お前の嘘も秘密も、全ては俺のためだと……。――だが……」
ウィリアムはルイスを見据える。こうなってしまっては、全てを知る他ない――と。
「今回ばかりは無理だ。――話せ、ルイス。お前は何を隠している? お前が俺をそそのかしたとは、いったいどういう意味だ。なぜお前がアーサーの名誉を貶める? それは俺に言えないようなことなのか?」
――太陽が落ちかける夕暮れ時の部屋で、二人はじっと見つめ合う。
呼吸一つ聞こえない静けさの中、窓から差し込む夕日が二人の影を床に長く伸ばしていった。
――しばらく沈黙が続く。
その間、ルイスはただじっとウィリアムの視線を受け止めていた。
瞬き一つせず、漆黒の瞳をまっすぐウィリアムに向けていた。
「……僕は」
ルイスは何か言いかけて、けれどすぐに口を噤む。
自身の足先を数秒見つめ、決心したように息を吐き――そして再び唇を開いた。
「僕は、あなたを裏切った」
それは淡々とした声だった。それまでの躊躇いは何だったのかと思えるほど、普段のルイスらしい淀みない声だった。
「あなたを裏切ったんですよ、ウィリアム様」
「――っ」
落ち着いた声で繰り返すルイスとは対照的に、ウィリアムは喉を詰まらせる。裏切り――その言葉に、ウィリアムの瞳が恐怖に揺らめいた。




