6.ライオネルとの再会(前編)
「――アメリア! 返事をして、アメリ!!」
そこに男はいなかった。いや、逃げられたと言うのが正しいか。
先ほどまでアメリアの首を絞めていた男は、騎士団の青いサーコートを羽織ったライオネルが現れたことに気が付くと、一目散に逃げだした。
一方ライオネルも、気を失って倒れているアメリアに気を取られ男を追うことができなかった。
「アメリア、アメリア! ――くそッ、どうして彼女がこんな……」
ライオネルの腕の中には、青白い顔で浅い呼吸を繰り返すアメリアの姿がある。
呼びかけにも返答はなく、頬には一筋の白い涙の痕――そして首には、痛々しい赤い痣。
いったい彼女はどれほど恐ろしい思いをしたのだろう。想像に難くない。
そう思ったライオネルは、アメリアを腕に抱いたまま悔しげに顔を歪めた。
――それにしても、彼女の呼吸は浅すぎる。このままでは……。
「ごめんね、アメリア」
ライオネルはアメリアの耳元で囁いて、ドレスの背中の留め具に手を伸ばした。
呼吸を少しでも楽にしてやろうと、留め具を外すとスリーブを二の腕まではだけさせる。そしてきつく締められたコルセットの紐を解き、緩めた。
するとそれが功を奏したか、アメリアの頬に赤味が戻る。
「……もう大丈夫だよ、アメリア」
ライオネルは呟いて、アメリアの身体を地面にゆっくりと横たえた。
そうして初めて、その傍らに倒れている少年に目をやった。
「この子がスリを……? まだ子供じゃないか」
――それに……。
少年の太ももに突き刺さっている銀色の髪飾り。
それがアメリアのものだということに、ライオネルはすぐに気が付いた。なぜなら先ほど逃げていった男の背中に刺さっていたものも同じであったからだ。
ライオネルは考える。
これはアメリアの精一杯の抵抗だったのだろうか。あるいは、意図的に用意していたものなのか……。どちらにせよ、少し調べてみる必要がありそうだ。
ライオネルは髪飾りにそっと手を触れる。
そしてそれが太い血管にまで達していないことを確かめると、太ももからゆっくりと引き抜いた。
同時に、気絶したままの少年が一瞬呻く。血はほとんど出ないけれど、痛いものは痛いのだろう。
ライオネルは少年が目を覚ます様子がないことを確認し、髪飾りに付いた血をコートの裾で拭い去った。
するとすぐに、それが普通の髪飾りでないことに気が付く。
――どうしてこんなに鋭いんだろう。
そう、先端が普通のものより明らかに尖っているのだ。まるで、何かを突き刺すために意図的に磨き上げられたかのように。
「……君は、いったい……」
ライオネルは髪飾りを握りしめる。いまだ意識を取り戻さないアメリアをじっと見下ろし、瞼を細めた。
二ヵ月前に彼女と初めて会ったとき、確かに抱いた違和感。その正体が、彼の中で確かなものに変わっていた。
声が出なくなっても動じなかったにもかかわらず、ガラスで手を切ったときは酷く怯えた様子で泣いていた。そんなアンバランスなアメリアに違和感を覚えていたのだと、彼はようやく確信した。
加えて、この先の尖った髪飾り――。
こんなものを持ち歩かなければならない理由が、彼女にはあるのだろう。
「…………」
ライオネルは髪飾りをコートの内ポケットにしまい込むと、アメリアの横に跪く。
そして、眠ったままのアメリアの頬に、そっと指先を触れた。
「ねぇ、君はどうしてこんなものを持っているの? あの日、君はどうして川に落ちたの?」
返事がないことを知りながら、それでも尋ねずにはいられない。
その表情はあまりに切なげで――けれど、彼は自身がそんな顔をしていることに気付いていない。
「ごめんね。僕、約束を破っちゃったんだ」
ライオネルの脳裏に浮かぶ、ウィリアムの顔。
二ヵ月前の事件の後、ライオネルはいけないとわかっていながら、ウィリアムについてこっそり調べていた。
そして判明したこと。それは、ファルマス伯爵ウィリアム・セシルには、悪い噂がただの一つも無いということだった。
家柄も人柄も完璧で、頭脳明晰、非の打ち所がない。皆、口を揃えて彼を褒め称えるのだ。
だが普通ならそんなことはあり得ない。いくら相手が侯爵家の人間であろうと、人間誰しも欠点の一つや二つあるものだ。むしろ爵位が上がれば上がるほど、妬みや嫉妬は受けやすくなる。それなのに貴族からも使用人からも、そして領民からも、ウィリアムを褒める言葉以外出なかったのである。
ライオネルはその事実に困惑した。ウィリアムの人柄がいいとは、どうしても思えなかったからだ。
ライオネルがウィリアムと対面したとき抱いたのは、好印象とは程遠いものだった。プライドが高く感情的な人物である、と――。
だから余計に、ウィリアムに対する皆の評価を気持ち悪く思った。
それはアメリアに対しても同じであった。
アメリアの噂は、思わず耳を塞ぎたくなるほど酷いものだった。誰もがアメリアを悪女だと罵った。人の心を持たない魔女のような女だと悪し様に言った。。
その上で、最後には付け足したようにこう言うのだ。〝ですが彼女も最近はお変わりになられたようだ。ファルマス伯爵が彼女の心を変えたのでしょう〟――と。
「どうして皆……君を悪女だなんて言うんだろう」
〝これは口止め料だ〟――ウィリアムのあの言葉が、何度も脳裏に繰り返される。
彼はその意味をよく理解していた。けれどどうしても気になって、二人の噂を聞いて回ってしまった。そして、またこうしてアメリアと出会ってしまった。
「……僕は、どうしたらいいんだろう」
じき仲間がやってくる。
だがそのとき自分は、アメリアと他人の振りをしなければならないのだ。彼女とは初対面であるように振る舞わなければならないのだ。
そのことが、彼の心を酷く憂鬱にする。
「アメリア。ねぇ、起きてよ」
ライオネルは再びアメリアの頬に手を触れた。
すると、アメリアの瞼がピクリと動く。
「――っ、アメリア……、アメリア!」
「……っ」
その声に応えるように、アメリアの瞼がゆっくりと開いた。
その瞳は虚ろだったが、深刻な状態ではなさそうだ。ライオネルはひとまず安堵する。
「良かったよ、気が付いて」
「……?」
すると、かすかに動揺を見せるアメリア。
どうしてあなたがここにいるの――と、彼女の瞳が驚きに揺れた。
「僕、任務で君を捜していて。まさか君のことだとは思わなかったんだけど……。あぁ、でも、本当に無事で良かったよ……!」
肺から大きく息を吐き出して、泣き出しそうに微笑むライオネル。
その真摯な眼差しに、アメリアは何を思ったか――ライオネルから顔を逸らし、地面から身体を起こそうとする。
「駄目だよ! まだ動かない方がいい。君、さっきまで首を絞められていたんだよ」
「…………」
けれどアメリアは、ライオネルの制止も構わず上半身を持ち上げた。そうして、怪我の具合を確かめるかのように、自身の首に手を当てる。
アメリア本人は見えていないだろうが、そこにはくっきりとした指の痕があった。
それがあまりに痛々しくて、ライオネルは思わず目を逸らしかけた。――けれど、それ以上に気にかけなければならないことがあると、アメリアを見据える。
「僕……君にどうしても聞きたいことがあるんだ」
――先の尖った髪飾り。それを所持していた理由について、彼は問わねばならなかった。
いったい君はどうしてこんなものを持っているのかと。普段から、こんな危険なものを持ち歩いているのかと。その理由はいったい何なのかと。
けれど、それより先にアメリアのし始めたことを目の当たりにし、絶句する。
「何を……しているの……?」
なんとアメリアは、どこからともなく取り出した手鏡で自分の首の痣を映し、痣の上に白粉を塗り始めたのだ。
「痕を……隠して……?」
こんなの――普通じゃない。




