3.スリの少年(後編)
首筋に添えられた冷たい感触。それが私の頭を酷く冷静にする。
――そうよ、こんな男に私の心は揺らがない。こんな男に辱められたりしない。
だって私は決めたのだから。この先どんな壁が立ちはだかろうと、決してそこから目を逸らさないって。――だから。
男の長い舌が、耳障りな水音を立てて私の首筋を這っていく。ねっとりと、絡みつくような舌使いで――何度も何度も、執拗に嘗め回す。
――ああ、気持ちが悪い。でも……それだけだ。
私は今この男に恐怖を感じていない。だから……耐えられる。
首筋に添えられたナイフを持つ男の右手が、少しずつ下へとおりていく。最初は胸へ、そして腹へ……そして、腰へ。
私が抵抗しないことにすっかり油断したのだろうか。それとも、声を出せない女にナイフなど必要ないと、そう判断したのだろうか。とうとう男はナイフをしまい、私の背中を外壁にぐいと押し付ける。
そこでやっと――私は男の顔を直視した。
年齢は三十から四十代ほど。大きな体に浅黒い肌。目つきは明らかにカタギのものではないが、髪や服は意外にも小ぎれいだ。裏稼業でそれなりの稼ぎがある――ということだろうか。
私が男を観察していると、それに気付いたのか、男の方も私の顔を興味深そうに眺め――ニヤリと嗤った。
「ニックを飼ってたってのは嘘じゃねェようだな。貴族の嬢ちゃんにしては良い目をしてる。――が、悪ィな。顔を見られたからには、ただで帰すわけにはいかねェんだ」
男はそう言って、私のドレスの裾を太ももまでたくし上げた。武骨な腕が――その太い指先が、私の肌に触れる。
「ハッ、本当に抵抗なしか! ちったァ反応してくれねェと、つまらねェんだがな」
私を見下ろし嘲る男。――けれどそれとは反対に、私の視線の先のニックの瞳が大きく揺らいだ。
私の下半身をまさぐる男の手を凝視したニックの頬が引きつり、こちらから目を逸らす。
私はそんな彼の表情に、確信した。
まだ彼はここにいる。あの頃のニックは、まだ消えていない、と。――ならば、私がやるべきことはただ一つ。
私は、男に気付かれないように、右手を自身の後頭部へと伸ばす。私の肌に吸い付く男を哀れに思いながら、先の尖った髪飾りを一本抜き取り、男の背中に勢いよく突き刺した。
「――ぐぁッ!」
突然の反撃に男が呻く。同時に拘束が解かれ、私は男の腕から抜け出した。
けれど今の一撃はただの子供騙しだ。致命傷にはなり得ない。だから、ここでニックをこの男から取り返すためには、手段は一つしかない。
男の腕から逃れた私はそのまま強く地面を蹴る。そして今度はニックに両手を伸ばし、彼を固い地面へと突き飛ばした。
「――う、わッ!」
押された勢いで倒れたニックは、地面に頭と背中を打ち付ける。彼の顔が痛みに歪んだ。
それでも彼は、私から視線を逸らさなかった。
それは彼の必死の抵抗のようで……私はとても切なくなった。
でも私はもう逃げない。これは自分の撒いた種、回収するのも自分自身。だから私は、あなたをあの男から必ず奪い返す。どんな手を使っても。
私は痛みで動けないニックの身体に跨がり、心の中で謝罪する。
――ごめんね、ちょっと痛いけど、我慢して。
私は再び後頭部に手を伸ばす。そこにあるのは、先ほど男の背に突き刺したのと同じ、銀の髪飾り。その先端は、まるでアイスピックのように鋭く、煌めく。
「――ま、待てッ!」
刹那、背後で男が叫ぶ。それはニックを庇うかのようだ。
けれどもう遅い。私の腕は既に振り上げられている。後はこのまま、突き刺すだけ。
「……ッ」
ニックの顔が恐怖に歪んだ。――殺される、と。絶望に染まる彼の瞳。
それでも私の決意は揺らがない。
私は振り上げたその手を、ニックの太ももに向けて一気に振り下ろした。
「――ッ!」
ニックは、声にならない悲鳴を上げる。痛みに顔を引きつらせて、目に涙を一杯に溜めて。
――ごめんね、ニック、痛いよね。でも大丈夫。ちゃんと責任は取るから。
私は心の中でそう告げる。
するとニックはとても驚いたように目を見開いて――すぐに気を失った。
――ああ、あとは男だけ……。
「――んの、女……ッ!」
私が振り向くと同時に、再び男が襲い来る。私の首を締め上げて、本気で私を殺しにかかる。
けれどそれでも私は焦らなかった。――どうしてかって? そんなの、決まっているじゃない。
「……くっそ……、てめェ……毒、仕込んでやがったのか……」
――苦しげに歪む男の表情。私はその顔を見上げ、肯定の意を込め微笑んだ。
髪飾りに塗ってある毒は決して死に至るほど強い効果はなく、成人男性の体を一時間動けなくする程度の代物。
けれど、男にはそんなことはわかるまい。
「――なんて……女だ……」
男は気を失ったニックが死んだと思ったのか、私を睨みつけた。その瞳に、ありったけの殺意を込めて。
けれど男の腕の力は、殺意とは裏腹に確実に弱まっている。毒が効いているのだろう。そろそろ全身が痺れてくる頃合いだ。
――だがどういうわけだろう。男は私の首から腕を放さない。毒は回っているはずなのに、腕の力の弱まりが、そこで止まったのだ。
それどころか、一度弱まってきたはずの力が再び強くなっているようにも思える。
――どうして……?
毒が全身に回っているのは確実だ。この毒は過去世で何度も使用してきた。量を間違えるはずがない。なのにどうしてこの男は手を放さないのか。なぜこんなにも力が強いのか。
ニックのことは捨て置いて、さっさと医者にでも駆け込めばいいものを……なぜいまだここに留まり続けるのか。それほどまでにニックに執着しているとでもいうのか。仲間であるニックを置いていけないと……そんな慈悲の心が、この男にあるとでもいうのか。
「……っ」
――ぎりぎりと首を絞めつけられる息苦しさに、私の思考が停滞する。酸欠状態の私の脳は、まるで靄がかかったようにぼんやりとして……。
――早く、放しなさいよ……!
私が男を睨みつけると、男は途端に嘲笑う。
「……はッ。――いい顔してんぜ、嬢ちゃん。そろそろ限界だろ?」
「――ッ」
にやりと嗤う男の唇。それは確実に、私が意識を保てなくなる時を悟っていた。
「――っ」
――ああ、まさかそんなことがあり得るのか。私の毒が、効いていない……?
「信じられねェって顔だな。いいか、俺たちみたいな奴は毒に慣れてんだ。これぐらいで手引いたりしねェんだよ」
「……っ」
――違う。私が言いたいのは、その毒はこの国には存在しないものだということ。つまり、この毒に耐性があるなんて、あり得ないということで……。
この男が、たまたま毒に強い体質だったということなのか。……ああ、なんて悪運の強い。
「~~っ」
――私の呼吸が、ついに限界を迎える。
男の腕の力はこれ以上弱まらない。私の首から――離れない。
視界が霞む。思考が闇に沈んでいく。
それはとても懐かしい感覚。頭がぼんやりとして、身体がどこか宙に浮いて、どこへでも飛んでいってしまえそうな――。
あぁ……私、死ぬのかしら。また……一から繰り返すのかしら……。エリオットの影を……追いかけ……て……。
「はッ。良い顔だ。さっさと眠っちまいな」
「…………」
ああ……なんて、愚かな……。死ぬのなんて……こっちは、とっくに……慣れてるの……。ただ……やっと……あの人……と……。なの、に……馬鹿、ね……私……。
暗転、する。――視界も、意識も……。
そうして……私の意識は、そこで途切れた。




