2.スリの少年(前編)
つい走り出してしまった。まさかあの子がスリを働くなんて、何かの間違いじゃないかって。どうしても確かめたくて、確認せざるを得なくて。
気付けば私は、ウィリアムに何も言わずにその少年を追いかけてしまっていた。
走れば走るほど道幅が狭くなっていく。高いレンガと、石造りの壁が私の左右にそびえたち、太陽の光はほんのわずかしか届かない。
もうずいぶん長い時間走り続けているような気がする。――二十分か、三十分か。けれど少年は走り続ける。自分を追いかける私から、どうにか逃れようとして。
どうしよう、もうやめようか。引き返してしまおうか。きっとウィリアムは心配している。たとえそうでなくても、急にいなくなってしまった私を捜してくれているだろう。
あぁ、早く戻らなければ。彼に余計な手間を掛けさせるわけにはいかないのだから。
――けれどそれでも、どうしてもあの子のことが気になって。
やはり、このまま帰るなんてことはできない。
「なんで付いてくるんだよッ!」
私のすぐ前を走るその少年は、自分を追いかける者が誰かということに気が付いていないようだった。
でもそれは当然だろう。だって私は声が出せない。あの子の名前を呼ぶことができないのだから。
声さえ出せれば、それだけできっと確かめられるのに……。
声なんて無くても構わない。そんな風に思っていたのが嘘のように、今は、自分の声がとても恋しい。
――不思議ね。
この二ヵ月で、私は自分でも驚くほどに変わってしまった。声なんていらない、何もいらない、人と関わることを避け、世界から目を背け、そんな私に声なんて不要だと心の底から思っていたのに。
それが今はどうだろう。ウィリアムの名前を呼びたい。彼に愛の言葉を伝えたい。そして、私に背を向け走り続ける、あの子の名前を確かめたい。
以前の私だったら、きっとこんな風にあの子を追いかけたりはしなかった。ただ横目で流し見て、他人事のように、ただ当たり前のように過ぎ行く景色の一部として、見過ごしていただろう。
どうせ皆、忘れてしまうのだから、と。どうせ死んだら、誰も私のことなど覚えていられないのだからと――。それが、今では……。
――あぁ、人違いならいいのに。あの子でなければいいのに。それなら私はもう、これ以上あなたを追いかけたりしないのに。
ねぇ、お願いだからこっちを向いて。その足をほんの少しでいいから止めてちょうだい。お願いよ、ほんの一瞬でいいの。ただ一度だけでいいから振り向いて。
――お願い、少しでいいから、あなたの顔を私に見せて……!
「――ん、だよッ、お前!」
刹那――私の願いが通じたのか、その少年が不意にこちらを振り向いた。それはちらりと、ほんの一瞬。
でもそれで十分だった。それだけで事足りた。
だって、私がその顔を見間違えることなどあり得ないのだから。
それはまた、目の前のこの子も同じだろう。
「――ッ⁉」
こちらを一瞬振り向いた少年、ニックは、私の顔を見るなり大きく目を見開いた。
まるで幽霊でも見ているかのような顔をして、その場に立ち止まる。
「ミ……リア……?」
茫然とした様子で彼が呟いた名は、とても懐かしい響き。
――あぁ、やっぱり間違いない。ニックだ。やはりニックだったのだ。私のことをミリアと呼ぶ人間は、この子しかいないのだから……。
「……っ」
私の心に込み上げる懐かしさと切なさ――そして、悔しさ。
その感情に急かされて、私は無意識のうちに手を伸ばす。――けれど。
「触んなッ!」
パシッと音を立て、振り払われる私の手。同時にこちらを睨みつける、彼の瞳。
「――っ」
ああ、最後に会ってから二年か、それ以上か――。幼かった顔立ちははっきりとし、ガリガリに痩せこけていた身体はまるで別人のように引き締まっている。きっとあの頃と違い、食事をきちんと取れているのだろう。身長なんて、とっくに私を追い越して――。
けれど、あの頃の優しげな瞳は――表情の乏しい中にも見せていた彼の柔らかさは――今の彼からは少しも感じられなかった。
彼の瞳に揺れるのは、憎しみと怒り……ただ、それだけ。
「今さら、何の用だよ」
その声に込められた、私に対する明らかな憎悪。隠すつもりもないと言うように、彼ははっきりとした敵意を露わにする。
「俺に、いったい何の用だって聞いてんだ!」
「……ッ」
その鋭く細められた瞳に、私は悟らざるを得ない。
彼をこんな風にしてしまったのは、私だと。
思い返せば、彼との別れは決していいものではなかった。
あの頃の私は、ただウィリアムの目に留まらないようにと、それだけしか頭になくて。自分の悪評が社交界に広まると同時に、屋敷に引きこもることを選んだのだ。
だから――そう、最後にニックに会ったあの日、私は彼にこう言ってしまった。
「遊びは今日で終わりなの」――と。
私のことなど忘れてくれればいいと思った。貴族の戯れだったのだと、憎んでくれればいいと思った。せめてもの償いのつもりで渡した金品も、彼を一層みじめにさせるものだとわかっていた。――でも、あのときの私にはそうするしかなかったのだ。
「はっ、何だよその顔。俺を憐れんでるの? 何でこんなことしてるんだって、説教でもしに来たわけ?」
「……っ」
かつては穏やかで暖かい色を灯していた彼の赤褐色の瞳――それが今では沼に沈んだように、どんよりと暗く濁っている。その瞳が、彼の過ごしてきた過酷な日々を、私に嫌というほど知らしめる。
「忘れたとは言わせねェよ。最初に声をかけてきたのはあんたの方だ。なのにあんたはあっさり俺を捨てた。そりゃそうだよな。ただのお遊びだったんだから。それを今さら――何しに来たんだよ」
「…………」
「ま、なんでもいいけどな。もしあんたがこんな俺を不憫に思ってくれるってんなら、昔のよしみで俺に金を恵んでくれないかな。一生分とは言わねェよ。一ヵ月でも、なんなら一週間分でもいい。あんたになら、安いもんだろ?」
「…………」
そう言ったニックの口元は、どこか自嘲気味に歪んでいた。
――ああ、今の言葉はきっと彼の本音ではない。彼は私に、本当に金銭を要求しているわけではない。彼はただ私を責めているのだ。いかに自分が落ちるところまで落ちたのか、私に知らしめたいのだ。
――ごめんなさい、ニック……。
言い訳するつもりはない。弁明の余地などない。
今の私にできるのは、ニックの気持ちを受け止めることだけ。目を逸らさずに、彼の言葉を受け止めるだけ。
「――ん、だよ。何か言えよ! あんた、何のために俺を追いかけてきたんだよ! こんな場所まで……ッ!」
「…………」
「あの頃みたいに俺を飼い慣らそうとでも思った? 今さら自分の思いどおりに動く駒が恋しくなったのか? なら、残念だったな。あの頃の俺はどこにもいない。あんたの知ってるニックは死んだ。――だから、悪く思うなよ」
そう言ったニックの視線が、私の背後へと向けられる。それが意味するものは――即ち。
「――ッ!」
私は背後から忍び寄る気配を感じ取り、とっさに身をかがめた。すると次の瞬間、頭上を掠める何か。
私はその正体を確かめようと後ろを振り返る。けれどそれより早く、私の首に太い腕が絡みつく。――同時に首筋に添えられる冷たい感触。
それは短刀だった。
「――ッ」
無理に動けば怪我では済まない――そう悟った私に、男の声が降りかかる。
「――おい、ニック。つけられてんじゃねェよ。この女、知り合いか?」
その声は低く、重く――目の前のニックの肩が、ビクリと震えた。
「……知り合いっていうか……昔ちょっと世話になってたことがあるってだけで……」
「お前を世話? 物好きな女だな。――どこの店のモンだ」
「あ……、その人は娼婦じゃありません。貴族ですよ」
「はぁ? 貴族だぁ?」
ニックのその言葉を、男はにわかに信じられないようだった。
男の動揺が、背中越しに伝わってくる。今ならばこの腕を抜け出せるかもしれない。
一度はそう思ったが、けれど、下手に神経を逆なでするわけにはいかない。――私は仕方なく、もう少しだけ様子を見ようと心に決める。
ニックは抵抗を見せることない私を一瞥し、再び男を見上げた。
「貴族です。間違いなく」
「…………へェ」
男はニックの言葉が嘘でないと判断したのか、今度は私に問いかける。
「お前、どうしてニックを追ってきた? 今さらこいつが恋しくなった……ってわけじゃあねェだろ?」
それは至極まともな質問だった。
けれど声の出せない私に、答えることなどできるはずもなく――。
――しばらく続く沈黙。
その間も、私の首筋に添えられたナイフは決して微動だにしない。
沈黙を貫き通す私に、男が問う。
「だんまり……か。まさか口がきけねェのか? それとも俺を舐めてるのか?」
「…………」
「おいニック、この女うんともすんとも言わねェが、話せねェのか」
「……いえ、そんなはずは」
ニックの顔が訝しげに歪む。
彼は少し考えて、続けた。
「でも、さっきから一言もしゃべらないので、あるいは……」
「……へェ」
ニックの返事に、男が嗤った。それはどこか嘲るような、気味の悪い声だった。
「本当にそうなら好都合だが……どれ、確かめてやるか」
男は私の耳元で呟いて――ナイフを持っていない左腕で、私の身体をまさぐり始める。
「ほら、叫んでみろよ」
「――っ」
それは試すような声だった。――私が本当に声を出せないのか、確かめるように。
「叫ばねェなら、続けるぜ?」
男の左手がゆっくりと、私の腰から腹へ、そして胸元へと這うように移動してくる。それはコルセットの上からでも感じる――吐き気をもよおしそうなほど――気持ちの悪い感触。わざとらしい、癇に障る触り方。――けれど。
それでも私は決してニックから視線を離さなかった。ニックがどんな顔をしているか、彼の表情に変わりはないか……それを、見逃さないように。
そうだ。こんなもの彼の苦しみに比べたらなんてことはない。私は――平気よ。




