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3.朝食――ダイニングにて


「――オペラ?」


 シミ一つない真っ白なクロスの敷かれたテーブルで――アメリアとの朝食を終えたウィリアムは、ハンナの言葉にわずかばかり眉をひそめた。


 ここはプライベート用のダイニングルームである。三十畳ほどの余裕のある空間の中央には六人用のテーブルと椅子、天井には少し小ぶりのシャンデリアが三つ。壁には夫人の趣味である風景画が何枚も飾られ、窓から降り注ぐ朝の陽気に部屋全体が輝いているようだ。


「……そうか。オペラか……」


 ダイニングにいるのは、ウィリアムとアメリア、そして給仕役のルイスとハンナの四人だけ。普段は侯爵夫妻も共に食事を取るが、今日は一足先に保養地へと出発して不在である。


 それに合わせて使用人のほぼ全員が交代で休暇を取ることになっていて、今日は普段の給仕がいない。そういうわけで、たった今この場にいるのは彼ら四人だけだった。


「ええ、オペラでございます」


 アメリアの口代わりになっているハンナが、顔一杯に笑みを浮かべる。


「今朝カーラ様からお誘いのお手紙が届きまして。エドワード様とブライアン様もご一緒とのこと」

「……そうか」


 ウィリアムは少しの間沈黙した。そして紅茶を一口飲んで、こう尋ねた。


「日時と演目は?」

「三日後の夜八時。演目は椿姫(ラ・トラヴィアータ)でございます」

「三日後? ずいぶん急だな……」


 その表情はお世辞にも嬉しそうと言えるものではない。おそらく、観劇はあまり好まないのだろう。

 そう悟ったアメリアの表情が、無意識のうちに陰る。


 この二ヵ月、ウィリアムはアメリアに対し十分すぎるほど優しく接していた。二人だけの外出はなくとも、屋敷内では二人きりの時間を取ることを大切にしていた。それは誰から見ても疑いようのない事実である。


 けれどそうであっても、ウィリアムは自分のことをほとんど話さなかった。学生時代のエピソードは話しても、好みや思想については決して口にしない。


 アメリアはそれが意図的であろうことに気付いていた。そしてそのことを、内心寂しく思っていた。


 ハンナはそんな――憂えた表情の主人を不憫に思う。と同時に、こんなときこそ侍女である自分の腕の見せ所だと考えた。


「あら、いいではありませんか。このところずっとお忙しくなさっていらっしゃいましたし、たまには息抜きされてはいかがでしょう? ルイスもそう思いますわよね?」


 ハンナはルイスに微笑みかける。


 ――この二ヵ月、ルイスはアメリアとウィリアムの仲を積極的に取り持つ姿勢を見せていた。だからハンナは、ルイスは賛同するだろうと考えたのだ。


 結果、ハンナの読みは当たっていた。


 ルイスは一瞬驚いたように瞼を震わせたが、次の瞬間にはニコリと笑みを張り付ける。


「そうですね、良いと思います。その時間帯は予定もありませんし、仕事のことは忘れて外出されたらよろしいかと」

「…………」


 ルイスの圧のある声音――そしてその笑顔に、ウィリアムはようやく気が付いた。

 対面に座るアメリアのどことなく寂しそうな表情は、自分のこの態度が原因なのだ、と。


「ああ、すまない。違うんだ、アメリア。君と出掛けたくないとか、決してそういうことではないんだ。ただ……以前オペラを観に行った際、開始直後に眠り込んでしまったことがあってだな……周りから白い目で見られたことを思い出したんだ」


 よほど苦い経験だったのか、ウィリアムは気まずそうに視線を泳がせる。


「あれ以来観劇は避けていたのだが……いい機会だ。カーラに参加の返事をしておいてもらえるか? ――恥ずかしい記憶を君との思い出で上書きするというのも、悪くないしな」

「……!」


 最後に付け足された言葉に、アメリアは目を丸くする。


 まさか彼がこんな恥ずかしい台詞を言うなんて……そう思った瞬間、ぶわっと顔が熱くなる。それが演技だとわかっていても、身体が火照るのを止められない。


 するとそんなアメリアの心情を知ってか知らずか、ウィリアムが問いかける。


「ところでなんだが、これから二人で街に出掛けないか? 君と過ごす時間がなかなか取れず、ずっと申し訳なく思っていたんだ。だから、今日は君と過ごすと決めていた。付き合ってくれるだろうか?」

「――ッ!」


 瞬間、アメリアの顔が少女のように華やぐ。


 以前のアメリアとは違う、年相応の可憐な笑み。――その表情に、ウィリアムの顔もわずかばかり緩む。


「では一時間後に出よう。支度を終えたらホールに降りてきてほしい。服装はハンナに伝えておくから」


 ウィリアムはそう言うと、今度はルイスを呼びつける。――そして……。


「昼食は外で食べるから不要だ」

「承知しました」

「――それで、なんだが」

「何でしょう?」

「お前もハンナと出掛けてみたらどうだ?」


 ――などと、とんでもないことを言い出した。


「……は? ――今、何と……」

「ハンナと出掛けたらどうだ、と言ったんだ。今日からほとんどの使用人は長期休暇に入るが、彼女はアメリアの侍女であるしそう易々と休んではいられないだろう? だが今日、俺とアメリアは外出する……となると、彼女は一日フリーになるというわけだ。せっかくだからお前がエスコートしてやればいい。費用は気にするな」

「…………」


 ウィリアムの突然の提案に、さすがのルイスも沈黙する。


 最近めっきりおかしな冗談を言わなくなったと思っていたところにこれだ――そう思った。


「ウィリアム様……そういう冗談はおやめください。そもそもその提案には本人の意思が全く反映されておりません。彼女だって、せっかくの休みをよく知りもしない男と過ごしたいなどとは思わないでしょう」


 ルイスは言いながら、ハンナの方をチラリと見やる。――すると、ハンナはルイスの予想とは違う反応を見せた。


「――あっ……その……私、は……嫌では……ありません」


 そう――なんとハンナは顔を赤らめたのである。


「…………」

 ――そんな馬鹿な。


 ルイスは困惑した。

 この二ヵ月ルイスはハンナに紳士的に接してきたが、それはあくまでアメリアの侍女だからであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。そのことはハンナだってよく理解しているはずだ。

 それに、ルイスは一度だってハンナからそういう好意を感じたことはない。つまり、ハンナが自分を好いているなんてことはあり得ない――そう確信していたのだ。それなのに……。


 思わぬ状況にどう反応したらいいかわからなくなったルイスは、無意識のうちにアメリアへと視線を向けた。するとこちらはこちらで、好奇と期待を混じり合わせたような眼差しを向けてくる。


 それはルイスには決して理解しがたい感情であり――。


「――……」

 ――不本意極まりないが、こんなところで下手を打つわけにはいかない。これも仕事のうちである。


 ルイスは仕方なく腹を括り、顔に笑みを張り付ける。


「ハンナ。今日一日、あなたをエスコートする栄誉を賜りたいのですが」


 その言葉に、ハンナははにかんだような笑顔を見せ――。


「はいっ! よろしくお願い致します!」

 ――と、いつも以上に明るい声で答えたのだった。


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