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2.オペラの誘い


 ウィリアムの部屋を出た私は、着替えのため自室へ向かった。


 私が侯爵夫妻に与えられた部屋は客室を改装した部屋で、ウィリアムの部屋とは階こそ同じ二階だが、反対側に位置している。その為、部屋に戻るには中央階段を横切る必要があるのだが、丁度その階段の前を通り過ぎようとしたとき、下階から上がってきたルイスと鉢合わせした。


「おはようございます、アメリア様。今日はいつもより少しお早いですね」


 彼は私に気が付くと、柔らかに微笑む。

 二ヵ月前の契約の際の彼とは別人であるかのような穏やかな表情だ。


 実際、ルイスは私がこの屋敷に来てから二月(ふたつき)が経った今日まで、一度たりともあの日の話をすることはなかった。〝ウィリアムを愛し、愛されよ〟と言われたあの日以降、ウィリアムの呪いについても、アーサー様や私たちの持つ不思議な力についてさえ、何一つ言及することはなかった。


 加えて、私を威圧したり監視したり、探るようなこともない。むしろ、どういうわけか、彼は私に紳士的に接してくれるのだ。それはまるで、古い友人同士のごとく親しげに……。

 もちろん、侯爵夫妻や使用人の前では必要以上に私に近づくことはないけれど、人目のないときの彼はいつだって穏やかで、優しくて……。


 それに、ウィリアムも私とルイスの距離が縮まるのを歓迎している様子である。それもあって、気付けば私は彼に気を許してしまっていた。と言ってもあくまで、敵意や警戒心を持たなくなった――程度ではあるのだが……。



「ちょうどお会いできて良かった。カーラ様からお手紙が届いておりますよ。今度は何のお誘いでしょうかね」


 そう言って、ルイスは右手の上の銀盆(サルヴァ)の封筒の束から一通の封筒を抜き取る。その可愛らしい桃色の封筒は、確かにカーラ様からの手紙に違いなかった。



 ――ときは二ヵ月前に遡る。


 川に落ちた私がアルデバランから王都へ戻り、右手の傷も癒えかけていたある日のこと。エドワードとブライアンに連れられ、カーラ様が私の元を訪れた。


 そのときの彼女の顔色といったら、見ているこちらが辛くなるほど酷いものだった。


 ろくに眠れていないのか目の下にはくっきりとしたクマが浮かび、瞳は痛々しいほどに充血している。肌は青白く、まるで川に落ちたのは私ではなく彼女であるかのような憔悴ぶりだった。


 そんな彼女は今にも泣きだしそうな顔で、私をまっすぐに見てこう言った。


「本当にごめんなさい。助けてくださって、ありがとう」――と。


 私は驚いた。

 まさか彼女に謝られるなどとは思っていなかった私は、彼女のその痛々しい姿に……まっすぐなその心根に、自分の浅はかさを思い知らされた。


 なぜなら私はその瞬間まで、彼女のことをすっかり忘れていたのだから。彼女が〝自分を庇って川に落ちた私のことを気にかけないはずがない〟という至極当然のことに、少しも思い至らなかったのだから。


 ――ああ、どうして気付かなかったのかしら。


 右手の傷も、声が出なくなったことも、彼女には何の非もない。それなのに、彼女はこんなにも罪悪感を抱いてしまっている。それは間違いなく、この私の責任だ。


 ――ごめんなさい、カーラ様。


 私は彼女を抱きしめた。

 声を出せない代わりに、彼女を精一杯に抱きしめた。

 それは自責の念から取った行動だったけれど、私に責められると思っていただろう彼女にとっては予想外だったのだろう。彼女は安堵したように、私の腕の中で声を上げて泣いた。


 そしてその翌日から、彼女は暇さえあれば私の元を訪れるようになった。最初は花を、次の日は果物を、また次の日は有名なパティシエのお菓子を持って。


 ――どうやら私は彼女に懐かれてしまったらしい。

 そう気付いたときには、私も彼女のことを妹のように可愛く思うようになっていた。


 今ではお互いに刺繍を施したハンカチを交換し合うほどの仲である。



「お茶会、ピアノ、ダンスにサロン……今回はいったい何でしょうね」


 ルイスは穏やかな顔で指折り数えると、「では後ほど」と言い残し、ウィリアムの部屋の方へと歩いていった。



 ルイスと別れた私が自室に戻ると、ハンナが朝のお茶を用意しているところだった。

 彼女は私に気付くと、いつもどおり屈託のない笑顔を見せる。


「おはようございます、お嬢様! 今日もいいお天気ですね!」


 それは彼女と出会った十年前からずっと変わらない笑顔。このウィンチェスター侯爵邸に来てからも、彼女だけは彼女のまま。そんな彼女の存在に、私は何度救われただろう。


 ここに来た頃の私はルイスに強い猜疑心を抱いていたし、彼が次にどんな行動を取るのか警戒し続けなければならなかった。だから、よく知りもしない人間を側に置くなど到底無理なことだった。


 ――本当に、ハンナを連れてこれてよかったわ。ウィリアムには感謝しなくちゃ……。それにこの部屋も……。


 私はソファに腰を下ろし、部屋の中を見渡す。


 この部屋の居心地はとてもいい。最初は明るすぎると思ったサーモンピンクの壁紙も、白で統一された家具やソファも、窓から広がる見渡す限りの庭園も、今はとても気に入っている。


 後から聞いた話だが、この部屋のものは全てウィリアムが手配したらしい。てっきり侯爵夫人が用意したと思っていたから、それを知ったときは本当に驚いた。



「お嬢様、お待たせしました。今日の茶葉は……って、その封筒、カーラ様からですか?」


 テーブルにお茶の用意をしていたハンナは、私の持つ封筒に気付いて手を止める。

 この桃色の封筒を見慣れているのはハンナも同じである。


 彼女はお茶の用意を中断し、棚から取り出したペーパーナイフを私の方へ差し出した。


「今度は何のお誘いでしょう! 早く開けてくださいませ!」


 ハンナに急かされ、中を開く。


 それはオペラの誘いだった。――横から中を覗いていたハンナの顔が、一瞬にして輝く。


「オペラですか⁉ しかも演目は『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』! 切ない恋の物語……もちろん参加のお返事をなさいますよね⁉」


 彼女のその眼差しは、まるで自分が観に行くとでもいうように熱を帯びている。

 その勢いに気おされ、頷きかけた私だったが――手紙の終盤に書かれた内容に、悩むことになった。

 何を悩むって、手紙には「ウィリアム様も是非ご一緒に」と書かれていたのだ。


 エドワードとブライアン、そして私とウィリアム含め――五人で観劇しましょう、と。


 ――彼が承諾するかしら……。


 オペラ以前に、ウィリアムはここのところずっと忙しそうなのだ。


 私がここに来て二ヵ月が経ったが、彼と二人きりで過ごした時間は数えるほど。朝食と夕食と就寝前には必ず顔を合わせるが、あとはもっぱら社交くらいなもので、プライベートで出掛けたことは一度だってないのである。それくらい、彼は執務や社会奉仕活動に追われている。


 ――エドワードとブライアンはいつも暇そうだけど、あの二人は跡取りじゃないから比べられないわよね。現にあちらの長男のクリス様もほとんどお見掛けしないし……ウィリアムが駄目だったら、私だけ参加することにしよう。


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