1.朝の目覚め
夏の日差しも衰えてきた頃――部屋に差し込んだ朝日の眩しさに、私はいつもより早く目を覚ました。
すると瞼を開けた私の目の前にあったのは、二ヵ月経っても見慣れることのないウィリアムの寝顔で――。
「……っ」
私は思わず息をのむ。
すやすやと寝息を立てている無防備なその姿に、愛しい愛しい彼の寝顔に、今にも心臓が張り裂けてしまいそうで……。
――心臓に悪いのよ。
私は「はぁっ」と大きく息を吐いて、乱れた呼吸を整えた。
ここはウィリアムの寝室だ。
あの日――ウィリアムから一緒に住もうと言われた私は、ほどなくして侯爵邸に迎え入れられることになった。その行動の迅速さは凄まじく、身支度の暇さえ無かったほどである。
――それから早二ヵ月。
ウィリアムは私をとても大切にしてくれる。声の出せない私が不自由しないようにと、屋敷内のありとあらゆる場所に人を呼ぶためのベルを設置したり、慣れない環境でストレスが溜まってはいけないと、専用の温室まで用意してくれた。
ハンナのことだってそうだ。サウスウェル家に雇われている彼女は、本来ここには連れてこられないはずだった。けれど、ウィリアムが両家に掛け合ってくれたのだ。
そんな彼の行動は、はたから見れば私を甘やかしているようにしか見えないことだろう。
現に、そんな息子に影響されてか、侯爵夫妻はまるで私を聖女か何かのように丁重に扱うのだ。私の悪評を知らないはずはないだろうに――夫人に至っては、今までどんな女性にも興味を持たなかった息子がようやく相手を見つけてくれたと、安堵に涙を零していた。
――けれど私は知っている。
ウィリアムは私を愛してなどいない。彼の行動はあくまで形だけのもの。
他の女性なら騙されるだろうが、私にはわかる。私に向ける微笑みも優しさも愛の言葉も、決して彼の本心からくるものではないのだと。
それに彼自身もきっと気が付いている。私がウィリアムの本心を悟っていることを、きっと彼は知っている。
だからこそ彼は、ルイスの提案で私と同じベッドで眠るようになった今も、指一本触れて来ないのだ。
――もし私があなたの演技に騙されていたら、あなたは私に触れてくれたのかしら……。
私はひとしきりウィリアムの寝顔を眺めてから、部屋の中を見回した。
どういうわけか、この部屋――ウィリアムの寝室には何もない。越してきたばかりの頃の私の部屋以上にシンプルで、あるのは最低限の家具と本棚くらい。趣味のものと思われるものなど、本当に何一つないのだ。
私はずっと、そんなこの部屋に大きな違和感を覚えていた。
いつだったか遠い昔、どこかの誰かが言っていた。〝部屋を見れば、その主の人となりがわかる〟と。部屋は家主の心の様を反映しているから、と。
だとするなら、この必要最低限のものしかないウィリアムの部屋はいったい何だというのだろう。彼の心はこの部屋のように、何もないとでもいうのだろうか。
そしてそれが、彼が今まで一人も恋人を作らなかったことと関係があるのだろうか。
私は、まだ眠ったままのウィリアムの髪に手を伸ばす。
千年前の彼と全く同じ、栗色の柔らかい髪や均整の取れた顔立ち。それに、私の名前を呼ぶ懐かしい声――そのどれもが、私の心を縛り付けて離さない。
愛しくて、愛しくて、もう二度と彼から離れたくないと……本心ではそう思ってしまう。
でも、私はちゃんと理解しているのだ。この幸せは束の間のものだって。遠からず手放さなければならないものだって。
だからせめてそれまでは、こうやって彼の寝顔を眺めていたい。
彼が私を心から愛してくれるまで、どれだけの時間がかかろうと、私はこの人の側にいる。
今まで叶わなかった分まで、私は彼に愛を注ぐ……。
――ああ、それってとても幸福なことだわ。こうして何にも引け目を感じず、誰の目も気にせず、彼を愛し彼の側にいられるなんて本当に嬉しい――。
ウィリアムが眠っているのをいいことに、私は何度も繰り返し彼の頭を撫でた。
千年前に死に別れたエリオット――そのときの彼は十六歳だったから、今のウィリアムよりずいぶん年下だ。
けれど、記憶の中のエリオットの寝顔と今のウィリアムの寝顔は驚くほど変わらなくて。少しも変わらなくて。
こんなこと言ったら怒られてしまうかもしれないけど、無防備で可愛い、なんて思ってしまう。頬が緩むのを止められない。
私がそんなことを思っていると、彼がようやく目を覚ました。
ゆっくりと開いた瞼の奥の美しいエメラルド色の瞳に、私の顔が映し出される。
「――あぁ……君か。おはよう」
彼はそう言うと、眠気まなこのまま、柔らかに頬笑んだ。
「……っ」
その笑顔に、私の鼓動が速くなる。彼の美しい笑みに釘付けになって、少しも視線を逸らせなくなる。
すると彼はそんな私の気持ちを悟ったのだろうか。ベッドに寝転んだまま頬杖をつき、ニヤッと意地悪な笑みを浮かべた。
「君はいつも俺の顔を見つめているな。顔に穴が開きそうだ」
「――っ」
あぁ、もう……!
そう――そうなのだ。彼は私のことを愛してなどいない。
けれど私の愛は……私の彼へのこの強い想いは、とっくに彼に知られてしまっているのだ。そりゃあ全く隠していないし、隠すつもりもないのだから仕方ないのだけれど。
それでも私ばかり好きなのが、なんだか少しだけ悔しくて……。
――どうしたら、この人の心が手に入るのかしら。
ここのところ、毎日のようにそればかりを考えてしまう。
彼を愛し、愛される。そうすれば、ルイスはウィリアムを助けると言った。その魂を救ってくれると、確かにそう言った。
つまり、彼に心から愛される――それが達せられたときが、私と彼の関係の終わるとき。
けれどそれでも私はこの人を愛し、そしてほんの一時でかまわないから、この人から愛されようと心に決めたのだ。だから私はもう、迷わない。
私はウィリアムに微笑みかける。恥ずかしがっている暇など無いから。そんな時間があるならば、少しでも彼に愛を伝えたいから。
けれど彼は私の笑顔に応えることなく、何かを誤魔化すように目を細めた。
――あぁ、まただ。
最近の彼は時々こんな顔をする。何かを隠すように、騙すように。
その真意はわからない。でも多分、それが理由なのだろうなと思う。
彼が今まで誰一人愛したことがないという理由。あの日の夜会で、彼が私を愛することはないと誓った、その理由なのだろうなと。
ルイスはその理由を知っているのだろう。
けれど彼は私に教えなかった。それはつまり、私が知る必要のない事だということで。
だから私は詮索しない。本音を言えば知りたいけれど、ウィリアムを傷つけることになってしまってはいけないから。世の中には、知らないままでいた方が良いこともあるのだ。
「……ああ、そろそろ朝食の時間だな」
ウィリアムは壁の掛け時計に目をやると、ベッドから降りて私の方を振り向いた。
そこにあるのは、いつもの美しい笑みで……きっと本人も気付いていないであろうその作り笑顔に、私の心を切なさが襲った。
けれどそれでも……それでもいい。私のウィリアムへの愛は、決して変わることはない。
私は彼の手に引かれベッドから降りる。
彼の手のひらから伝わる、私より少し高い彼の体温。それはあの頃と少しも変わらず心地よくて、私の心をときめかせる。
――愛しているわ、ウィリアム。
私は、ウィリアムに微笑みかける。
声の出せない私には、それだけが唯一できることだから。今の私にたった一つだけ許された、彼への愛の言葉なのだから。
私はただ夢に見る。ウィリアムの愛をこの手に掴むその時を。
彼の愛に包まれる、その瞬間だけを――。




