7.喪失(後編)
瞬間、僕は言葉を失った。想像もしていなかった、その内容に。
彼女が婚約? ――馬鹿な。ヴァイオレットが? そんな、嘘だよ、あり得ない。だって僕は彼女から、一言だってそんなこと聞かされていない。後任の話だって出ていないのに。
そもそも彼女に恋人がいただなんて――だって彼女は僕の侍女だぞ? ずっと僕と一緒にいたじゃないか。別の男と会う時間なんて……そんな時間……少しだってなかったじゃないか。
「その様子だと、本当に知らなかったんだな……」
「……っ」
ヘンリーの横顔に嘘はなくて、僕はいてもたってもいられなくなる。
「僕、ヴァイオレットに聞いてくる」
僕はソファから立ち上がり、今にも走り出そうとした。
けれどヘンリーに止められる。彼は僕の腕を掴み、決して放そうとしない。
「――ッ、はな、せよ……!」
僕はヘンリーを睨みつけた。
けれど彼は放すどころか、更に力を強めてくる。痛みに僕が呻いても、力は決して緩まらなかった。
「――彼女には、何も聞くな」
低く重い、僕の知らないヘンリーの声。いつもの陽気な彼からは想像もできない、暗い表情――。
けれど、今の僕にはそんなことを気にしている余裕が少しもなかった。僕は、彼の手を振りほどこうとする。
でもそれは叶わなかった。ヘンリーの力は強くて、とても――強くて。何年経ったって、僕はヘンリーには敵わない。
「はな……せよッ、この手を放せ!」
だってあり得ないじゃないか。ヴァイオレットが婚約だなんて、絶対に許せるわけないじゃないか。
「どうして……放してくれないんだよっ」
溢れ出す涙を止められず、でもそんな情けない顔を彼に見られたくなくて、僕は俯いた。
するとそんな僕を諭すように語りかける、ヘンリーの怖いほど冷静な声。
「俺……前に君に話しただろう? 彼女は養女だって。厄介払いでここに入れられたって」
もちろん、その話なら覚えている。僕はそれを聞いて、彼女の境遇を調べたのだ。
すると彼女の養家が思った以上にあくどい商売に手を出していることが判明した。僕が手を出さずとも、遅かれ早かれ潰されるだろうということも。
だから僕は、そのときが来たら彼女を然るべき家の養子として引き取ってもらう手筈を整えるつもりでいたのだ。――それなのに。
「ヘンリー。つまり君は、この婚約もそれと同じだって言いたいの……?」
僕が震える声で尋ねると、彼は無言で肯定する。
「彼女……売られたも同然なんだよ。パークス家は彼女に持参金を持たせるどころか、相手側から莫大な金を受け取っているんだ。でもそれ自体を咎めることはできないし、周りが口を出せることじゃない。わかるだろう?」
「なら、僕が彼女を金で買えばいいってことか? その男より金を積めばいいって、そういうこと!?」
「なっ――それは違うだろ! 確かに彼女のことは可哀そうだと思うが、それは彼女の家の問題で、君に口出しはできないと言ってるんだ」
「口出しできない!? 彼女は僕の侍女だ! そんなこと言わせない! 彼女が望まない婚約ならなおさらだ!」
「ああ、そうだな、確かにそうだ。俺だって同じ気持ちだよ。でも彼女はただの侍女なんだ。家柄だって君とは釣り合わない。彼女は君と違ってそのことをよく理解してるよ。君は彼女を助けたい一心でそんなことを言うんだろうが、俺にはわかる。彼女に今の言葉を伝えたら、彼女はきっと今すぐにでもここを出ていくだろうな……!」
「……っ」
諫めるようなヘンリーの強い口調。その真剣な眼差しに、再び涙が溢れ出す。
――本当はわかってるんだ。僕には何もできないことくらい、ちゃんとわかってるんだ。
でも、やっぱりどうしても許せないのも本心で……。ヴァイオレットが結婚するなんて、彼女が僕の前からいなくなるなんて……認めたくなくて。
「……どうして皆、僕から離れていくんだよ……どうして、そんな男と結婚なんて……」
父上も、母上も――誰一人僕を愛してくれない。誰も僕の傍にはいてくれない。
皆みんな、いなくなってしまう。ヴァイオレットも……それにきっと、ヘンリーだって。
僕の周りにいる人は皆、例外なく不幸になる……。それはきっと、僕のせいで……。
「僕……本当に好きなんだ。ヴァイオレットが……好きなんだ。彼女には……幸せになってもらいたいんだ」
「……ああ」
僕の声に応えるように、ヘンリーの瞼が瞬いた。
その瞳は切なげで、悲しげで、僕は酷く苦しくなった。僕のせいでヘンリーがこんな顔をしているのかと思うと、胸が痛くて痛くてたまらなくなった。
「でも僕……彼女には言わないよ。彼女を困らせたくないし……今の僕には何もできないって……本当は、ちゃんとわかってるから」
「……っ」
ヘンリーの顔が歪む。まるで今にも泣きだしそうに。
「僕、彼女のことは諦めるよ。でも、その代わり一つ約束してくれないかな? 君だけは僕の傍にいてくれるって。何があっても、僕から離れていかないって……。お願いだ、ヘンリー。嘘でもいいから、そうだと言って……」
「――ッ」
ああ、僕はなんて卑怯なんだろう。こんな風にお願いしたら、断れないのはわかっているのに。ただ空しくなるだけだって……わかっているのに……。
ヴァイオレットにもヘンリーにも、いつだって笑っていてほしいと願っているのは本心なのに……どうにかして、この寂しさを埋めたくて。
誰のことも苦しめたくないと思っていながら、誰のことも縛り付けたくないと祈っていながら、愛されたいと願わずにはいられない――。
「お願いだ……君がそう言ってくれたら、僕はちゃんと彼女を諦めるから」
ヴァイオレットのことは本当に大好きだ。離れたくない、放したくない。
でも……それが避けようのない運命だというのなら、僕はそれを受け入れるから……。
――そう思ったのも束の間、僕の身体を引き寄せるヘンリーの腕。僕の身体を包み込む、彼の力強い両腕……。
「言われなくたって、俺は君の傍にいる。お願いなんてされなくたって、君には俺がついてるよ。だからそんな顔するな。彼女のことだって、今すぐ忘れる必要はないんだ」
「……っ」
「辛いな、本当に辛いよな。我慢しなくていいんだ。思いっきり泣いていいんだ」
僕を強く抱擁するヘンリーの腕。それはとても温かくて……とても、優しくて。
「……ヘンリー……僕…………」
あぁ、ヴァイオレット、ヴァイオレット。行かないで、側にいてよ、ずっとここにいてよ。
大好きだ、大好きだ、愛しているんだ。本当に君を、君だけを……。
僕はヘンリーの腕の中で泣き続けた。
そんな僕を、彼は長い時間慰めてくれた。
*
ヴァイオレットが僕の元を去ったのは、それから二ヵ月後のことだった。
僕はしばらく落ち込んでいたけど、寄宿学校への入学と共にその痛みは薄れていった。
それと同時に、僕は自分でも気付かないうちに、彼のことも忘れてしまったんだ。
僕の誕生日パーティーでルイスの姿を見て以来、ぱったりと表に出てこなくなった、もう一人の自分のことを――。




