5.十二の春――不吉な予感
季節が何度か巡った。
僕は先週、十二歳になった。
「アーサー様、おはようございます」
起きがけの一杯の紅茶を運んできたヴァイオレットが、いつものように僕に頬笑みかけてくれる。
あれから僕は、無理に彼女に接触するようなことはせず、ただ主従の関係を通すように努めてきた。
おかげで今は、あくまで王子と侍女という関係で言えば、割といい関係が築けていると思っている。
二年前は侍女見習いだった彼女も、今では仕事ぶりを評価され見習いではなくなった。
「おはよう、ヴァイオレット。今日もいい天気だね」
ヴァイオレットが開けてくれた窓の向こうから、ほろほろとした春の朝日が差し込んでくる。それが寝室全体に広がって、部屋は白っぽく輝いていた。
ヴァイオレットはいつものような落ち着いた動作で、ティーソーサーを僕に手渡してくれる。僕はそれをベッドの背に背中を預けたまま受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。
――うん、美味しい。いつものヴァイオレットが入れてくれるお茶の味だ。
僕がほっと息をつくのを見届けてから、ヴァイオレットは口を開いた。
「本日はいよいよ、アーサー様の十二歳の誕生日パーティーでございますね」
「そうだね。はぁ、パーティーか。あまり得意じゃないんだよなぁ」
今日の誕生日パーティーには、国中の貴族の子息、息女が招待されている。
年齢は八歳から成人前の十五歳まで。この国の貴族の家の男子は十三歳から寄宿学校に入るので、その前の僕のお披露目を兼ねているのだ。
あぁ、気が進まない。この王宮の中の居心地は非常に良くなったけれど、僕は外の世界のことはあまり知らないのだ。僕が七歳の頃までに出会った貴族の息子たちとは、今はもうプライベートでの繋がりはない。向こうも僕のことを気味悪がっていたから、尚更だ。
僕の憂鬱なため息に、ヴァイオレットはくすっと笑う。
「ふふ。大丈夫ですよ、アーサー様が何かなさらなければならないことは何もありませんし。ただ椅子に座っていらっしゃるだけでよろしいんでしょう?」
「宰相の言葉なんて信じられないよ。あの人、普段は適当なことしか言わないんだから」
「それは確かに……そうですね」
ヴァイオレットは僕の言葉に、困ったように微笑んだ。その表情に、僕は思い直す。
こんなことで暗くなっているようじゃ、ヴァイオレットには好きになってもらえないぞ、と。
「でも、うん、大丈夫。もう僕も十二だしね。パーティーの一つや二つ軽々こなしてみせるよ」
そう言って僕が笑えば、彼女は心から頬笑んでくれる。
「その意気ですよ、アーサー様」
その声はまるで陽だまりの中でさえずり歌う小鳥のようで、僕にとっては何よりも心地いい声。
――あぁ、僕は今、とても幸せだよ。
窓から春風が花の香りを運んでくる。
それはまるで僕らの未来を祝福するかのように。僕らの幸せな将来を、予感させるように。
だから僕は想像もしていなかったんだ。この日を境に、僕の幸せな日々はいとも簡単に崩れ去ってしまうのだということを……。
*
正午から開始した僕の誕生日パーティーはつつがなく進行していった。
いつもなら窮屈で退屈なパーティーも、今日はガーデンパーティーなので少し気が楽だ。
それに、最初こそ貴族たちが父上や母上、そして僕に自分の息子や娘たちを連れ挨拶周りに来ていたが、二時間ほど経ってようやく終わりを見せている。そろそろ僕も小腹が空いてきた。何か食べたいな。
庭園を見渡せば、中央を広く空けて左右にずらりと長机が並び、そこには所狭しと料理が並べられていた。肉や魚料理はもちろん、普段はあまり手に入らない南国の色とりどりの果物なんかも用意されている。もちろん今回は子供がメインのパーティーなので、お菓子やケーキやチョコレートは外せない。
――あぁ、お腹空いた。
そろそろ席を立ってもいいかな。僕は隣に座る父上の方に視線を向ける。
けれど父上はどこぞの貴族と話をしていて、僕の視線に気付かなかった。そのさらに向こうに座る母上なんて、尚更だ。
そもそも母上とはあれ以来――今では普通に話すようにはなったけれど――まだ何となく気まずくて、言いたいことを言い合える仲ではない。
加えて、ヴァイオレットは養父であるパークス男爵に遠慮して参加を辞退していた。だから僕は、ただひたすらに暇なのだ。
僕は再度父上の方を見る。けれどやはり父上はこちらに気付かない。
まぁ、すぐに戻ってくればいいか。僕は席を立とうとする。けれど――。
「――ッ!?」
椅子から立ち上がろうとした瞬間、どういうわけか、身体がぐらりと傾いた。
――なん、だ……?
僕は咄嗟に椅子の肘置きにしがみ付く。
地面が揺れたような、気持ちの悪い感覚……。なんだろう、眩暈……? いや、違う……これは……これは、何かもっと嫌な……。
背中にひやりとした汗が伝う。今日は暖かいはずなのに……なぜか、寒い。冷たい。いったいどうして……。
そう思うと同時に、頭に響いてきたのは彼の声。もう一人の、自分の声――。
『アーサー、僕と代われ……!』
「――え?」
『早く!』
「な……何だよ、急に……」
僕は驚いた。
だって、今まで一度だってそんなことを言われたことはないのだから。
いつだって彼は、僕ではどうしようもない状況になったときにだけ表に出てくる。それなのに、今彼は何と言った?
代われ、とそう言ったのだ。この、何の問題も起きていない状況で。
『さっさと代われ、こののろま!』
「な……ッ」
狼狽える僕の心の内側で、容赦なく僕をなじるもう一人の僕。
わけがわからず混乱する僕に、大きく舌打ちする彼。
『君はほんっとうに鈍いよね。――ほら見て、あそこ。一番右奥のテーブルだよ。あの真っ黒な姿をした男』
「……?」
その言葉に、僕はゆっくりと視線を動かす。
すると、確かにいた。僕より少し年上、多分、ヴァイオレットと同じくらいの歳の、中性的な顔立ちの少年。真っ黒な髪と瞳をした――この国では、珍しい。
僕は彼に言われたとおり、その少年に視線を注ぐ。すると、その刹那――。
「――っ」
不意に、少年と視線がぶつかった。
それはまるで僕に見られるのを待っていたかのような、絶妙すぎるタイミングで……。
『アーサー! 駄目だ、目を逸らせ!』
瞬間、僕に向かって叫ぶ彼。
それと同時に、僕の意思とは関係なしに右目に宿る確かな熱。熱く疼く僕の右目。
それは紫のレンズ越しでなかったら、血のように赤い呪われた色――。
「――っ!?」
気付いたときには、僕は身体の主導権を無くしていた。何が起きたのか理解できないでいる僕の意識を置き去りにして、もう一人の僕が、僕の身体を支配していた。
『君はしばらく引っ込んでろ!』
彼は短く吐き捨てて、その少年と睨み合う。
目を逸らせ、と僕に言ったはずの彼は、考えを変えたのか、少年の心を覗こうと、右目の力を最大限にして少年へとぶつける。――だが、それは叶わなかった。
その少年は彼の視線を物ともせずに、ニヤリと薄く笑うだけ……。
『――な』
同時に、僕の全身に駆け巡る衝撃。それは僕のものではなく、彼の心の動揺だった。――その強い感情に引っ張られ、全身からぶわっと冷や汗が噴き出す。
それは恐怖か、畏怖か――あるいは……。
『あの男……やっぱり……!』
僕の意識そのものを侵食しかねないほどの強い感情。
それは完全なる憎悪だった。言うなれば同族嫌悪……それに近い感情だと、僕は理解した。
同時に僕は悟らざるを得ない。今、いったい何が起きたのかを……。
そう、あの少年は弾き返したのだ。彼の――つまり、僕の力を。
普通の人間ならばあり得ない。心を読まれていることにだって気付くはずがない。
それなのに、あの少年はこの力に気付いたどころか、それを無効にしたのだ。
つまりそれは、彼が僕らと同族であることを意味していて……。
『……アーサー……あいつは……』
今まで一度だって、少なくとも僕の知る限り心を乱したことのない彼が、ここまで心を乱されている……その理由は、明白で……。
『あの男は……いったい……何者だ?』
僕が答えられないことを知りながら、それでも僕に尋ねる彼。
あの少年を憎み、恐れ……立ち竦む僕の分身。
けれど僕は何もできなかった。そんな彼の姿を、ただ黙って見ていることしかできなかった。こんな彼の表情は一度だって見たことがないと、酷く冷静な頭で考えながら。
気が付けば、その少年はいなくなっていた。まるで最初からどこにも存在していなかったかのように、何の痕跡もなく消えていた。
「……追いかける?」
他に何も思い浮かばず、苦し紛れに問いかける。
しかし、返ってきたのは彼らしくない消極的な答え。
『……いや、いい』
彼は苦々しげに、先ほどまで少年がいたはずの場所を見つめている。
『気付いたろう? あいつ、僕らと同じだよ。僕らの力が効かなかった。それに、あの殺気』
「…………」
『……多分、僕らを憎んでる』
「そんな。どうして……」
『僕が知るわけないだろ。――でも、確かだ』
いつの間にか僕の心の奥に引っ込んでいた彼の声は、心なしか震えているように思える。
『いいか、アーサー。金輪際、あの男には近づくな。きっと良くないことになる』
「――え、それって……」
いったいどういう意味? そう聞き返そうとして、僕は口を噤んだ。僕の中から、彼の気配が消えていたのだ。
もう眠ってしまったのだろうか。それとも、さっき力を弾き返されたときの反動か何かだろうか?
そんなことを考えるが、僕にわかるはずもなく――。
――春風が僕の頬を撫でていく。それは本来、心地よいはずのそよ風……。
けれど今はその風が何か不吉なことを運んでくるものに思えて、僕の心を酷く不安な気持ちにさせた。




