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3.十歳の夏――初恋


「じゃあまた来週な! アーサー」


 日が傾き始めた頃、ヘンリーは僕に向かって大きく手を振りながら帰っていった。


 僕はその背中が王宮の門の方へと消えていくのを見届けて、自分の部屋へと向かう。


 東側の階段を三階まで上がり、長い廊下を進んだ先にあるのが僕の部屋。扉を開けると、夕方の(ぬる)い風が僕の横を駆け抜けた。


「あれ……?」


 おかしいな、窓が開いている。ちゃんと閉めて行ったはずなのに。


 不思議に思った僕は、扉を開けたまま中の様子をうかがった。

 けれど特に変わったことはない。テーブルやソファが動かされた形跡はないし、本棚の本の位置も変わっていない。テラスへと続くガラス扉もしっかりと鍵がかけられている。


「……おかしいなぁ」


 独り言のように呟いて、けれどそこで僕はようやく気付いた。

 寝室へと続く扉が、わずかに開いていることに。


「……?」


 ――変だな。寝室のドアを閉め忘れることなんてないのに。もしかして誰か入った? いや、侍女がこの部屋に入ることはあっても、それは午前中の掃除の時間だけ。それ以外で寝室に入ることはないはずだ。当然、窓を閉め忘れるなんてことも……。


 僕はその違和感の正体を探ろうと、そっと中を覗いてみる。

 すると、やはり窓が開いていた。夕暮れ色に染まる部屋で、カーテンがゆらゆらと風に揺らめいている。


「窓の鍵は閉めたと思ったんだけど……」


 僕は窓を閉めようと、中に足を踏み入れる――けれど。


「――え?」


 瞬間、僕は気付いてしまった。部屋の中央に鎮座する、僕にはまだ大きすぎる天蓋付きの巨大なベッド。そのカーテンの向こう側に、一人の女の子が横たわっていることに。


「う――わっ!?」


 刹那、驚きすぎて足をもつれさせた僕は、障害物一つないにもかかわらずその場ですっころんだ。床に肘を打ち付けて、痛みにうずくまる。


 けれどその痛み以上にベッドの上の少女のことが気になって、僕は涙目のまま必死にベッドへ這い上がった。

 すると、やはりそこにあるのは少女の姿。見間違いなどではない。


 美しい金色(ブロンド)の髪に、乳白色の肌。僕より少し大人びた顔つきのその子は、けれどまるで小さな子供のように、すやすやと寝息をたてて気持ちよさそうに眠っていた。


「……知らない子だ」


 見覚えのない少女の外見に、僕はただただ混乱した。


 この部屋にいるということは貴族か使用人なのだろう。けれど僕はこの王宮で働く使用人の顔を全員把握しているのだ。だからこの子が使用人というのはあり得ない。

 となると、やはり貴族の子供だろうが……。


「でも、このドレス……」


 正直、貴族と呼ぶにはあまりにも貧相な服装なのだ。色が地味だとかそういう問題ではない。かといって、少女の肌や髪は艶やかで美しく、使用人とは明らかに違っている。


 いや、彼女の正体など大した問題ではない。今問題なのは、彼女が僕のベッドで寝ているというその事実……。


「ねぇ、君、起きて」


 ひとまず起こさねば。そう考えた僕は、彼女に声をかけてみた。

 けれど、何度声をかけても起きる気配はない。


「ちょっと……起きてくれないと困るんだけど……」


 肩を揺らせば起きるだろうか? そう思ったが、紳士たるもの許可なくレディの身体に触れるわけにはいかない。それにこんなところを見られたら僕にとっても彼女にとっても良くないことになるだろう。そう思うと、むやみに人を呼ぶこともできなかった。


 結局、僕はしばらく様子を見ることに決めた。夕食まではまだ十分時間があるし、目が覚めるまで待てばいい。

 それにこれだけ声をかけても起きないのだ。余程疲れているのだろう。起こすのは可哀そうというもの。


 僕は彼女がいつ起きても気付けるようにと、ベッド脇に椅子を持ってきてそこに腰かける。

 そうしてしばらく彼女の寝顔を眺めていると――あることに気が付いた。


 初対面の人に会ったときはいつも感じる、不信感と猜疑心(さいぎしん)。それが彼女に対してだと芽生えてこない。そういえば初めてヘンリーに会ったときもそうだった。

 どうしてだろう。この子が今、寝ているからなのかな。


 それに……すごく、可愛い。


「まつ毛……長い。キラキラしてる」


 彼女の寝顔の可愛さに、僕はつい見入っていた。僕に近づいてくる貴族の子女はたくさんいるし、みんなとても可愛いけれど、見ていてこんなにドキドキするのは初めてだった。


「起きたら……名前……聞かなきゃ……な」


 自身に言い聞かせるように呟いて、僕は大きく伸びをする。


 あぁ、今日は疲れたな。ヘンリーがいなくなったら……僕は……どうしよう、かな……。


 僕の頬を撫でる夕暮れ時の優しい風。その心地よさに、自然とまぶたが落ちてくる。

 そうして僕は、いつの間にか夢の中へと落ちていった。


 *


 その一時間後、僕が侍女に起こされたときには女の子はいなくなっていた。


 そのことに僕はとてもショックを受けた。昼間、ヘンリーの言葉に傷ついた時以上に。

 そして同時に、自分がそれほどショックを受けていることに驚いた。


 どうしてこんな気持ちになるのだろう……そう考えて、僕はすぐに思い至る。


 そう。きっと僕はあの子に恋をしてしまったのだ。一目見て、好きになってしまったのだ。彼女の愛らしい寝顔に、心を奪われてしまったのだ。


 けれど僕は、王宮の者に彼女が誰か尋ねることはしなかった。だって、もしも彼女が僕の部屋に入ったことを皆に知られてしまったら、彼女が罰を受けるかもしれないと思ったから。七年前のブローチの事件で死んでしまった侍女の顔が、僕の脳裏によぎったから――。


 だから僕は、彼女のことは諦めようと思った。たった一度会っただけの名前も知らない女の子。すぐに忘れられる、そう思い込もうとした。


 けれど僕は再び出会ってしまった。王宮の侍女見習いとして、新しく入ってきたという、彼女に。


 彼女を見つけたときの僕の心の動揺といったら、きっと誰も想像できないだろう。


 僕の侍女の後ろについて、部屋の花瓶の花を取り換えている彼女の、その横顔を見つけたときの僕の気持ちは……。


「――君!」


 椅子を倒してしまいそうな勢いで立ち上がった僕の顔を、君はとても驚いた様子で見ていたよね。


「君の……名前は?」


 恐る恐るそう尋ねると、彼女は少しだけ困ったような顔をして、侍女の方をちらりと見上げた。そうして侍女が頷くのを確認すると、ようやく君は微笑んでくれる。そして――。


「ヴァイオレットと申します、アーサー王太子殿下」

「……っ」


 僕に向けられた可憐な微笑み。その愛らしさに、僕は思わず息をのんだ。


 その声の鈴の音のような軽やかさに、その瞳の涼やかさに。

 僕の心は、彼女のその声と笑顔に、一瞬で囚われたのだ。


 ――あぁ……ヴァイオレット。――ヴァイオレット。


 こんな気持ちは初めてだ。こんな気持ち、今まで一度だって感じた事がない。胸が高鳴る。心臓が破裂しそうなほどに。今にも叫び出してしまいそうなほどに。


 君以外の他の全てのことが、取るに足らないことだと思えてしまう。今までの僕の苦しみさえも、ちっぽけなことだと思わされるほどに――。


「……ヴァイオ、レット」

「はい、殿下」


 僕に応え、はにかんだ笑顔を見せる君。


 ――あぁ……君はなんて可愛いんだろう。


 僕はずっと諦めていた。誰かに愛されることを、そして誰かを愛することを。

 僕が誰かを愛するなんて、絶対にないだろうと。そんな日は来ないであろうと――。


 だけどそんな風に考えるのは、もうお終いだ。


 僕は君を愛したい。僕は、君に愛されたい。僕は君が――欲しい。


 僕はただヴァイオレットを見つめ続けた。


 君が侍女だろうと関係ない。僕は必ず君を手に入れてみせる。自身の心に、そう誓った。



 それが僕らの出会いだった。

 僕が十歳、そしてヴァイオレットが十二歳のときの、ありふれた秋の日の出来事だった。


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