2.十歳の夏――尊敬と羨望
それから三年が経ち、僕は十歳になった。
それはとても暑い日だった。夏の日差しが容赦なく地面を照り付け、そこから照り返す熱が僕らの肌をじりじりと焼き付けていた。
「はあッ! やあああッ――!」
僕は王宮の訓練場で、ヘンリーと剣の稽古をしていた。
従兄のヘンリーは僕の二つ年上だ。ヘンリーとは、僕が八つのときから共に稽古をするようになった。けれど僕は、まだ一度も彼に勝てたことがない。
「はああッ!」
「――おっと」
僕の剣が――といっても木製だけど――ヘンリーの頬をかすめる。けれどいとも簡単にかわされてしまった。
それどころか、一瞬で弾かれる僕の剣。ヘンリーの力は僕なんかよりずっと強くて、僕はバランスを崩してしまった。
当然、彼がその隙を見逃すはずはない。僕が体勢を整えるまでの短い間に、彼の剣の切っ先が、僕の横っ腹に据えられた。
「そこまでッ!」
そしてまたしても、僕の敗北が宣告された。
――あぁ、また僕の負けか。
僕たちはゆっくりと剣を下ろす。
額の汗を袖で拭いながら隣のヘンリーを見やれば、彼は得意げに――けれど気持ちのいい顔で笑っていた。
「また俺の勝ちだな、アーサー!」
「……っ」
太陽のようにキラキラと輝く笑顔。一点の曇りもない透き通ったアッシュグレーの瞳。それと同じ色の髪は短髪で、爽やかを通り越していっそ清々しいほどだ。
そんな彼の姿は、健康的に焼けた小麦色の肌と相まって、一見するとまるで貴族とは思えない。
けれど僕は、彼のそんなところが大好きだった。公爵家の嫡男でありながら、底抜けに明るくて、誰にでも気さくで優しくて。決して人を羨んだり蔑んだりしない。家柄や能力だけで人を評価しない。心根のまっすぐな彼を、僕はとても尊敬している。
けれど同時に、そんな彼をとても眩しく、羨ましく感じるのも事実だった。
「おいおい、そんな顔するなって。俺の方が二つも年上なんだから、負けたら示しがつかないだろう?」
僕がヘンリーを見つめていると、彼は僕が負けて悔しがっていると思ったようだ。
でも違う。確かに負けたことは悔しいけれど……そうじゃない。
「違うよ、ヘンリー」
「じゃあなんだ?」
ヘンリーのまっすぐな眼差し。その透明な色に、僕は答えかねる。
するとそのとき、頭上から太く低い声が降ってきた。
「さあさあ坊ちゃま方、このような場所で話し込まれるのはやめにして、日陰で休憩されてはいかがかな。万一この日差しにやられて倒れられでもしたら、私の首が飛ばされてしまう」
「コンラッド……いつの間に」
どこもかしこも角ばった獅子のごとく巨大な身体。黒く焼けた肌に、引き締まった筋肉。彼はこの国の騎士団長、コンラッド・オルセンである。
彼はその焼けた顔に笑みを浮かべ、僕らを見下ろしていた。それはとても……気迫のある笑みであった。
けれどヘンリーは全くひるまない。それどころか彼は、コンラッドを白い目で見上げる。
「坊ちゃまはやめろって言ってるだろ。それに俺たちはこんなことで倒れるほど軟弱じゃない。そうだろ? アーサー」
ヘンリーは僕に同意を求める。けれど僕は思わず視線を逸らしてしまった。だって僕は、身体を動かすのはあまり得意ではないから。
そんな僕の様子を見て、コンラッドは「がっはっは!」と豪快な笑い声を上げる。
「坊ちゃまは坊ちゃまでしょう! それにお二人にあまり強くなられると、我ら騎士の役目が無くなり困るというものだ。さぁさぁ、今日はこれで本当に終いです。私も仕事が残っていますのでな」
言いながら、僕らの背中をバシバシと叩くコンラッドの分厚い手のひら。本人は軽く叩いているつもりだろうが、彼に叩かれると次の日まで赤い痕が消えないほどの痛みを伴う。
その痛みと彼の気迫に、さすがのヘンリーも従わざるを得ない。
僕たちは剣をコンラッドに手渡し、テラスへと向かった。
テラスでは侍女たちが飲み物を用意して待っていた。
僕らがテーブルに着くと同時に、冷えたグラスが渡される。
グラスにたっぷりと注がれたレモンスカッシュからは、細かい泡がしゅわしゅわと湧き出てきていた。
――あぁ、冷たい。ひんやりして気持ちいい。
僕たちは一瞬目を合わせると、それを味わいもせずに、一気に口へと流し込んだ。喉の渇きが一瞬にして潤っていく。
「あぁ――美味いな」
「うん、おいしいね」
どうやら僕らは相当喉が渇いていたらしい。
侍女たちは、あっという間に空になった僕らのグラスを見て、二杯目を用意してくれる。
ヘンリーはそれを受け取ると、すぐに口をつけた。彼の喉が、ごくりごくりと気持ちのいい音を鳴らす。
僕はその音を耳の奥で聴きながら、訓練場の向こう側の広い庭園を見渡した。
ここは変わった。三年前のあの日から。彼の声が聞こえるようになった、あの時から。
普段は決して表に出てこないもう一人の自分。彼は僕の心が限界に達するときにだけ表に出てくる。僕の代わりに皆の望む言葉を囁き、そして同時に、切り捨てるのだ。
そうして気が付けば、いつの間にかこの城の中から負の感情は消えていた。僕を悪く言う者は、ここからいなくなっていた。
僕の右目は相変わらず赤いまま。けれど周りの心の声は、僕が聞こうと思わない限り聞こえることは無くなった。だから最近は比較的平穏に……心穏やかに過ごすことができている。
「――あ、そうだ、アーサー」
唐突に、ヘンリーが声を上げる。
「父上が君に会いたがっていたよ。君の意見が聞きたいんだって」
「伯父上が?」
その名に、僕はつい顔をしかめてしまう。
ヘンリーの父親、アルデバラン公爵。僕の――伯父。
公爵には三年前、この王宮から何人も追い出す際にずいぶんと世話になった。その恩があるから、決して無碍にはできない。けれど……。
「そんな顔するなって。君の言うことはよく当たるから、頼りにしてるんだよ」
「……うん」
わかっている。これも全て自分の蒔いた種だ。そうしたのは彼だけど、それでも僕がしたことには変わりはない。
それに公爵は決して悪い人ではない。誰かを貶めようという類の心は全く持っていないのだ。ただ、ひたすらに強欲なだけ。
それが僕に牙を剥くことはないだろう。周りを傷つけることも、しばらくの間はないであろう。
公爵は強かな男だ。けれどいつだって、正当性のある決を下す。
だから彼は公爵をここに残したのだろうし、三年前、公爵に協力を頼んだのだろう。
僕は顔を上げて、無理やり笑顔を作り出した。
「わかった、来週にでも」
「そうか、良かった! 父上に伝えておくよ」
ヘンリーは太陽のように笑う。本当に眩しい笑顔。――でも。
「来月から、だよね。学校……」
そう。彼は来月、寄宿学校に入学する。しばらくの間、会えなくなってしまうのだ。
「僕……寂しいよ」
ここは確かに変わった。あの頃と違い、皆僕の目を見て話してくれるようになった。笑顔を向けてくれるようになった。ここにはもう誰一人として、僕のこの力を知る者はいない。この僕の右目の本当の色を、知る者は誰もいない。
それでも、僕は周りを信用することができないでいた。
心を読もうとすれば、聞こうと思えばすぐにでも頭に響く他人の声。けれどもしそれが、またあの頃のように僕を恐れ、蔑む声だったら――そう思うと、途端に足が竦んで動けなくなってしまう。誰の声も、もう二度と聞きたくないと、耳を塞いでしまうのだ。
そんな僕が信用できるのはヘンリーただ一人。それなのに、彼と会えなくなるなんて……。
「アーサー、なんて顔してるんだ」
「……ごめん」
「ははっ、謝るのかよ! いいって、むしろ嬉しいし」
「――!」
ヘンリーは屈託のない顔で笑う。
「心配するな。十二月にはクリスマス休暇があるし、三ヵ月なんてすぐだ。そうだろう?」
そう言ったヘンリーの顔に迷いはなくて、彼にとっての三ヵ月と、僕にとってのそれがいかに違うのか、まざまざと思い知らされる。
ああ、きっとヘンリーは僕のことなんてすぐに忘れてしまうだろう。こんなに人が良くて明るい彼だ。新しい友人ができて、こんな僕のことなど、思い出しもしなくなる。
そう考えたら、思わず泣き出しそうになった。叫び出しそうになった。
でも僕は、それを必死に押しとどめる。ヘンリーを困らせたくはない。だから僕は、精一杯……笑った。
「そう、だね。三ヵ月なんてすぐだよね。学校、頑張ってね」
「ありがとう、アーサー」
僕の笑顔を見て、安心したように微笑むヘンリー。無邪気な……子供のような笑顔。
それは眩しくて……あまりにも眩しすぎて、僕の淀んだ心に、暗い影を落としていった。




