表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

66/94

2.十歳の夏――尊敬と羨望


 それから三年が経ち、僕は十歳になった。


 それはとても暑い日だった。夏の日差しが容赦なく地面を照り付け、そこから照り返す熱が僕らの肌をじりじりと焼き付けていた。



「はあッ! やあああッ――!」


 僕は王宮の訓練場で、ヘンリーと剣の稽古をしていた。


 従兄(いとこ)のヘンリーは僕の二つ年上だ。ヘンリーとは、僕が八つのときから共に稽古をするようになった。けれど僕は、まだ一度も彼に勝てたことがない。


「はああッ!」

「――おっと」


 僕の剣が――といっても木製だけど――ヘンリーの頬をかすめる。けれどいとも簡単にかわされてしまった。

 それどころか、一瞬で弾かれる僕の剣。ヘンリーの力は僕なんかよりずっと強くて、僕はバランスを崩してしまった。


 当然、彼がその隙を見逃すはずはない。僕が体勢を整えるまでの短い間に、彼の剣の切っ先が、僕の横っ腹に据えられた。


「そこまでッ!」


 そしてまたしても、僕の敗北が宣告された。


 ――あぁ、また僕の負けか。


 僕たちはゆっくりと剣を下ろす。

 額の汗を袖で拭いながら隣のヘンリーを見やれば、彼は得意げに――けれど気持ちのいい顔で笑っていた。



「また俺の勝ちだな、アーサー!」

「……っ」


 太陽のようにキラキラと輝く笑顔。一点の曇りもない透き通ったアッシュグレーの瞳。それと同じ色の髪は短髪で、爽やかを通り越していっそ清々(すがすが)しいほどだ。

 そんな彼の姿は、健康的に焼けた小麦色の肌と相まって、一見するとまるで貴族とは思えない。


 けれど僕は、彼のそんなところが大好きだった。公爵家の嫡男でありながら、底抜けに明るくて、誰にでも気さくで優しくて。決して人を(うらや)んだり(さげす)んだりしない。家柄や能力だけで人を評価しない。心根のまっすぐな彼を、僕はとても尊敬している。

 けれど同時に、そんな彼をとても眩しく、羨ましく感じるのも事実だった。



「おいおい、そんな顔するなって。俺の方が二つも年上なんだから、負けたら示しがつかないだろう?」


 僕がヘンリーを見つめていると、彼は僕が負けて悔しがっていると思ったようだ。

 でも違う。確かに負けたことは悔しいけれど……そうじゃない。


「違うよ、ヘンリー」

「じゃあなんだ?」


 ヘンリーのまっすぐな眼差し。その透明な色に、僕は答えかねる。

 するとそのとき、頭上から太く低い声が降ってきた。


「さあさあ坊ちゃま方、このような場所で話し込まれるのはやめにして、日陰で休憩されてはいかがかな。万一この日差しにやられて倒れられでもしたら、私の首が飛ばされてしまう」

「コンラッド……いつの間に」


 どこもかしこも角ばった獅子のごとく巨大な身体。黒く焼けた肌に、引き締まった筋肉。彼はこの国の騎士団長、コンラッド・オルセンである。 


 彼はその焼けた顔に笑みを浮かべ、僕らを見下ろしていた。それはとても……気迫のある笑みであった。

 けれどヘンリーは全くひるまない。それどころか彼は、コンラッドを白い目で見上げる。


「坊ちゃまはやめろって言ってるだろ。それに俺たちはこんなことで倒れるほど軟弱じゃない。そうだろ? アーサー」


 ヘンリーは僕に同意を求める。けれど僕は思わず視線を逸らしてしまった。だって僕は、身体を動かすのはあまり得意ではないから。


 そんな僕の様子を見て、コンラッドは「がっはっは!」と豪快な笑い声を上げる。


「坊ちゃまは坊ちゃまでしょう! それにお二人にあまり強くなられると、我ら騎士の役目が無くなり困るというものだ。さぁさぁ、今日はこれで本当に(しま)いです。私も仕事が残っていますのでな」


 言いながら、僕らの背中をバシバシと叩くコンラッドの分厚い手のひら。本人は軽く叩いているつもりだろうが、彼に叩かれると次の日まで赤い痕が消えないほどの痛みを伴う。

 その痛みと彼の気迫に、さすがのヘンリーも従わざるを得ない。


 僕たちは剣をコンラッドに手渡し、テラスへと向かった。



 テラスでは侍女たちが飲み物を用意して待っていた。

 僕らがテーブルに着くと同時に、冷えたグラスが渡される。

 グラスにたっぷりと注がれたレモンスカッシュからは、細かい泡がしゅわしゅわと湧き出てきていた。


 ――あぁ、冷たい。ひんやりして気持ちいい。


 僕たちは一瞬目を合わせると、それを味わいもせずに、一気に口へと流し込んだ。喉の渇きが一瞬にして潤っていく。


「あぁ――美味(うま)いな」

「うん、おいしいね」


 どうやら僕らは相当喉が渇いていたらしい。

 侍女たちは、あっという間に空になった僕らのグラスを見て、二杯目を用意してくれる。


 ヘンリーはそれを受け取ると、すぐに口をつけた。彼の喉が、ごくりごくりと気持ちのいい音を鳴らす。

 僕はその音を耳の奥で聴きながら、訓練場の向こう側の広い庭園を見渡した。



 ここは変わった。三年前のあの日から。彼の声が聞こえるようになった、あの時から。


 普段は決して表に出てこないもう一人の自分。彼は僕の心が限界に達するときにだけ表に出てくる。僕の代わりに皆の望む言葉を囁き、そして同時に、切り捨てるのだ。

 そうして気が付けば、いつの間にかこの城の中から負の感情は消えていた。僕を悪く言う者は、ここからいなくなっていた。


 僕の右目は相変わらず赤いまま。けれど周りの心の声は、僕が聞こうと思わない限り聞こえることは無くなった。だから最近は比較的平穏に……心穏やかに過ごすことができている。



「――あ、そうだ、アーサー」


 唐突に、ヘンリーが声を上げる。


「父上が君に会いたがっていたよ。君の意見が聞きたいんだって」

「伯父上が?」


 その名に、僕はつい顔をしかめてしまう。


 ヘンリーの父親、アルデバラン公爵。僕の――伯父。

 公爵には三年前、この王宮から何人も追い出す際にずいぶんと世話になった。その恩があるから、決して無碍(むげ)にはできない。けれど……。


「そんな顔するなって。君の言うことはよく当たるから、頼りにしてるんだよ」

「……うん」


 わかっている。これも全て自分の蒔いた種だ。そうしたのは彼だけど、それでも僕がしたことには変わりはない。

 それに公爵は決して悪い人ではない。誰かを(おとし)めようという(たぐい)の心は全く持っていないのだ。ただ、ひたすらに強欲なだけ。


 それが僕に牙を剥くことはないだろう。周りを傷つけることも、しばらくの間はないであろう。

 公爵は(したた)かな男だ。けれどいつだって、正当性のある(けつ)を下す。

 だから彼は公爵をここに残したのだろうし、三年前、公爵に協力を頼んだのだろう。


 僕は顔を上げて、無理やり笑顔を作り出した。


「わかった、来週にでも」

「そうか、良かった! 父上に伝えておくよ」


 ヘンリーは太陽のように笑う。本当に眩しい笑顔。――でも。


「来月から、だよね。学校……」


 そう。彼は来月、寄宿学校(パブリックスクール)に入学する。しばらくの間、会えなくなってしまうのだ。


「僕……寂しいよ」


 ここは確かに変わった。あの頃と違い、皆僕の目を見て話してくれるようになった。笑顔を向けてくれるようになった。ここにはもう誰一人として、僕のこの力を知る者はいない。この僕の右目の本当の色を、知る者は誰もいない。

 それでも、僕は周りを信用することができないでいた。


 心を読もうとすれば、聞こうと思えばすぐにでも頭に響く他人の声。けれどもしそれが、またあの頃のように僕を恐れ、蔑む声だったら――そう思うと、途端に足が竦んで動けなくなってしまう。誰の声も、もう二度と聞きたくないと、耳を塞いでしまうのだ。


 そんな僕が信用できるのはヘンリーただ一人。それなのに、彼と会えなくなるなんて……。



「アーサー、なんて顔してるんだ」

「……ごめん」

「ははっ、謝るのかよ! いいって、むしろ嬉しいし」

「――!」


 ヘンリーは屈託のない顔で笑う。


「心配するな。十二月にはクリスマス休暇があるし、三ヵ月なんてすぐだ。そうだろう?」


 そう言ったヘンリーの顔に迷いはなくて、彼にとっての三ヵ月と、僕にとってのそれがいかに違うのか、まざまざと思い知らされる。


 ああ、きっとヘンリーは僕のことなんてすぐに忘れてしまうだろう。こんなに人が良くて明るい彼だ。新しい友人ができて、こんな僕のことなど、思い出しもしなくなる。

 そう考えたら、思わず泣き出しそうになった。叫び出しそうになった。


 でも僕は、それを必死に押しとどめる。ヘンリーを困らせたくはない。だから僕は、精一杯……笑った。


「そう、だね。三ヵ月なんてすぐだよね。学校、頑張ってね」

「ありがとう、アーサー」


 僕の笑顔を見て、安心したように微笑むヘンリー。無邪気な……子供のような笑顔。


 それは眩しくて……あまりにも眩しすぎて、僕の(よど)んだ心に、暗い影を落としていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ