4.悪夢
気が付けば、辺りはただ暗闇に包まれていた。黒よりももっと暗い――それは無限に広がる漆黒の闇。
服の隙間から入り込んでくる冷たい空気が、じわじわと背中に這い上がってくる。
――これは、夢なのか……?
俺は目を凝らすが、いつまで経ってもその闇に目が慣れることはない。
「……どこだ、ここは」
一筋の光さえ差し込まない、まるで長い長いトンネルの中のような……。
「おい! ヴァイオレット!」
俺は叫ぶ。だがその声は闇にのみ込まれ、わずかな残響すらも残さなかった。
――おかしい、さっきまで俺はヴァイオレットといたはずだ。それがいつの間にこんなところに……。
「――チッ」
ひたすらに広がる漆黒の闇。けれど、このままここに突っ立っているわけにもいかない。
結局俺は、右も左もわからないままに歩き出した。自分の足音すら聞こえない、闇の中を。
けれどどういうわけか。不思議と恐怖は感じない。――なぜだ?
俺は足を動かし続けながら、その理由を考える。
そして思い出した。そうだ……俺は何度もここに来ているではないか。
それに気付いた途端、全てを覆い尽くしていた闇が、波が引くように一気に薄くなっていく。そうしてようやく開けた視界――そこは、陰鬱とした空気の漂う長い長い回廊だった。
「もう二度と……ここに来ることはないと思っていたが……」
今にも崩れ落ちそうなくすんだ鼠色の天井に、ひび割れてすぐにでも折れてしまいそうな何十本もの太い柱――窓の向こうには何十年も人の手が入っていないであろう荒れ果てた庭が広がり、空は今にも泣き出しそうな色をしている。
「…………」
――ああ、ここはあの頃と何も変わっていない。何一つ変わっていない。
回廊に沿ってずっと先まで延びる冷たい壁も――そこに隙間なく飾られた、何十枚――いや、何百枚もの絵画も。その全てに描かれた、俺自身の姿も。
「……変わらんな」
本当に忌まわしい場所だ。吐き気をもよおすほどに。
けれど俺はここから逃げ出すことも――どうすることもできない。だってここは、紛れもない自身の夢の中なのだから。覚めたくても叶わない、それは深い深い、夢……。
俺は諦めて、悲しげに広がる荒れた庭へと視線を移した。
そして考える。再び自分がここを訪れた理由を。
そう、俺は無意識のうちに自分で望んだのだ。再びここを訪れることを。――だが、なぜ。
俺はしばらくの間考えていた。けれど、回廊の先に何かの気配を感じ、そちらへと意識を向ける。するとそこにいたのは――。
「……子供?」
それは少年だった。まだ年端もいかない……だが、その姿は紛れもなく。
そいつは俺のすぐ側まで来ると、友人であるかのように軽々しい口調で話し出す。
「酷い庭でしょ」
自嘲気味なそいつの笑顔が、妙に鼻につく。荒れ果てた庭を流し見る――その瞳も。
「ここは僕の夢。だからこの庭は僕の荒んだ心を映し出しているんだよ。笑っちゃうでしょ」
言葉とは裏腹に、少しも笑っていないそいつの瞳。それは淀んだような暗い色……。
「ねぇ、君は誰? どうしてここにいるの?」
少年の不思議そうな声。それはまだ声変わり前の、幼い少女のような声。
肩口まである銀色の髪に、妖しく光る赤い右目。それは確かに、紛れもない――。
「俺は……お前だ」
俺は酷く冷静な頭で、目の前の自分を見つめ返した。
するとそいつは……過去の俺は――訝しげに眉を寄せる。
「君は……僕なの?」
聞かれて、頷く。
「でも、君の右目は赤くないよね。なぜ? 目に色を入れてるの?」
――なぜ?
俺はその問いに、思わず言葉を詰まらせた。
なぜだろうか。いつから俺は自分の力を制御できるようになったのだろうか。
俺は記憶を探ろうとした。けれど、思い出せない。
「……そうだな、ただ、いつの間にかそうなっていた、としか」
「ふーん。そうなんだ」
俺の回答に、昔の自分は不満げに首を傾げた。そして再び自嘲気味に笑う。
「僕も早くそうなりたいなぁ」
それは自らを軽蔑し、嫌悪するような顔で――そのことに、俺はただ驚いた。
――昔の俺はこんなに酷い顔をしていたのか? 俺は、これほどに自分を憎んでいたか?
目の前の自身の卑屈な笑みに、確かに感じる嫌悪感。
少年はそんな俺の心情に気付いたのか、ニヤリと笑みを深くした。
「変な顔。どうしてそんな顔をするの? 君は僕なんだろう? 僕の気持ちを、誰よりもよく知っているはずだよね」
少年の唇が酷く歪む。その瞳が、憎しみを込めて俺を見据えた。
「僕は皆に嫌われてるんだ。この赤い右目のせいで。――でも君は違うみたいだね。ねぇ、どうして? 君は忘れてしまったの? 僕らが周りにどう思われているか、本当に忘れてしまったの?」
少年の穏やかだった口調――それがだんだんと、俺を責め立てるような声に変わっていく。
「本当に君は酷いよね。この僕をこんなところに閉じ込めて、自分だけ救われようとした。君は僕を捨てたんだ。――ほら、僕をご覧よ。君のせいで僕はあの頃の姿のまま、ずっと一人きり。いい気味だとでも思っているんでしょう?」
「……何の……話だ」
――背中に嫌な汗が伝う。
ああ、これは本当に夢か? 目の前にいるこいつは、本当に俺なのか?
こいつはいったい――何の話をしているんだ。
目の前の自分の話す内容に全く心当たりがなく、俺はその場に立ち尽くす。
そんな俺を嘲笑うかのように、そいつはその忌まわしい赤い瞳を……怪しく光らせた。
「ねぇ、アーサー。この僕の姿を見てどう思った? 僕は君の闇だよ。誰よりも卑劣で、醜い、臆病な君自身――」
「……っ」
心臓が早鐘を打つ。足が地面に縫い付けられたように、俺はただの一歩も動けない。
「アーサー。僕は、君。そして、君は僕だ。僕は今日まで一時として君を忘れたことはない。僕はずっと、君を見ている。これからも、永遠に。それを忘れるなよ、アーサー」
「……黙……れ」
そいつから放たれるオーラの禍々しさに、酷い吐き気が込み上げる。
それと同時に俺を襲う、頭が割れるような痛みと、目眩。視界が狭まり、俺は今にも倒れてしまいそうになる。
「忘れるな、アーサー。……僕は君を――」
――赤く光る右目。
沈んでいく意識の中でそれだけが、名残惜しそうに俺の脳裏にいつまでも焼き付いていた。




