1.思い出――ある夏の日(前編)
風が……薫る。
ここは、どこ……?
「――! ――……ア!」
誰かしら。わたしの名前を呼んでいるのは……。
「……リア!」
あぁ、頬を撫でる風が心地いい。……木漏れ日が、眩しい。
聞こえるのは……懐かしい声。
そう――そうだわ。ここは……。
「ユリア――ユリアってば! またそんなところに登って!」
「――っ」
聞き慣れたその声に、わたしはハッと飛び起きた。
目を開ければ、そこに広がるのは青々とした草原と、よく見慣れた町。
「……あ」
それを確認すると同時に、ぐらっと傾くわたしの体。
「っとと」
危ない危ない。いつの間に眠ってしまったのだろう。
わたしはバランスを取り直し、声のする方に視線を下ろす。
「ねぇ、ユリアってば!」
そこには十歳ほどのまだあどけない少年がいた。
困ったような、怒ったような顔をして、木の下からわたしの名前を叫んでいる。
ああ、そうだわ。わたし、待ち合わせをしていたんだった!
そのことを思い出し、わたしは頬を膨らませた。
「ちょっと! あなたが大声を出すから落ちそうになったじゃない!」
そう言い放ち、さっと木の下へ飛び降りる。
すると彼は急いで駆け寄ってきた――が、その顔は不満げだ。
「もう……何だよ、木の上なんかで寝てるのが悪いんだろ。女の子があんな高い所に登って、本当に落ちて怪我でもしたらどうするんだよ」
「何よ、あなたが待たせるのが悪いんじゃない」
「それは……そうだけど。仕方ないだろ、店の手伝い終わらなかったんだから」
「またそんなこと言って! じゃ、いいわよ。せっかく木苺のジャム持ってきたのに、あげないから」
わたしはつんと顔を背ける。
本当はあげないつもりなんてないけれど、ちょっとだけ意地悪を言ってみたくなって。
――木苺のジャム。家の裏に生えている木苺で、おばあさまが毎年この時期に作る、彼のお気に入りのジャム。少し酸味があって、それでもとっても甘くて、わたしも大好きだ。
わたしが横目でちらりと彼の様子をうかがえば、彼はショックを受けた顔をしていた。
――もう、本当に素直なんだから!
わたしは吹き出しそうになるのをこらえ、木の根の陰に隠しておいたカゴに手を伸ばす。
「もう、嘘よ。ウ・ソ! ちゃんとあげるわよ。ほら」
わたしはカゴから真っ赤なジャムの詰められたビンを取り出して、彼の前に差し出した。すると彼はホッとした顔でビンを手に取り、屈託のない笑顔を見せる。
「ありがとう、ユリア! 君のおばあさまのジャム、本当に好きなんだ! 何かお礼しないとな。ユリアは何がいいと思う?」
「――っ」
太陽みたいな彼の笑顔。
栗色の髪も、ヒスイ色の瞳も、額に浮かぶ玉のような汗すらも――夏の強い日差しにも負けないくらいキラキラと輝いて、眩しくて……胸がきゅうっと締め付けられる。
わたしはこの人のことが、たまらなく……好き。
「ユリア、どうかした? 顔が赤いよ?」
「――っ!」
気付くと、彼の顔が目の前に迫っていた。
その見つめるような視線に、わたしは無駄にドキドキしてしまう。
「な、ななな、何でもないわよっ! そ……それ、より……」
わかっている。きっとこの恋は一方通行。というより、多分まだこの人は、恋や愛には興味がない。だからわたしはこの想いを、まだ伝えていない。
けれど、せめて――。
「それ。その、ジャム……」
「……?」
「わ――わたしが、作ったのっ!」
そう。そのジャムは、わたしが初めて作ったジャム。
あなたのために作った……初めての、ジャム。
「え……ユリアが?」
刹那、彼の両目がゆっくりと見開かれた。それはとても驚いた様子で。
そんな彼の表情に、わたしの心臓が不安で飛び跳ねる。
――どうしよう、やっぱり嫌だっただろうか。やっぱりおばあさまのジャムの方が良かっただろうか。美味しいかどうかもわからない、わたしのジャムよりも……。
どうしよう、どうしよう。カゴの中にはおばあさまのジャムも入っている。今からでも取り替えて……。
けれど、そんなわたしの不安な心など一瞬で消し去ってしまうように――。
「ありがとう、ユリア! 僕、すごく嬉しいよ!」
弾けるような笑顔を、わたしに向けた。




