1.変貌
「……そして、母上は死んだ」
ルイスは俯いたまま、ぼそりと呟いた。
伏せられたその瞳は、黒よりもさらに深く、底知れぬ闇の色に揺らめいている。それはあまりにも悲しく、そして残酷な記憶の澱だった。
部屋に満ちていた金木犀の甘い香りが、ふいに腐臭を帯びたかのように錯覚した。
「母上は懸念していました。父上の居ない今、自分の存在は戦争の道具にしかならないだろうと。だから母上は、自分の力を僕や、そして他の何かに移し替えていたんです」
ルイスの目が、鋭く細められる。
「僕を逃がしたときの母上には、もう殆ど力は残されていなかった。それに母上は、誰かを傷つけることなど決してできない優しい人だった。……あれは、死にに行くようなものだったのです。それでも、普通の人間に母上を殺すことなんてできるはずがなかった。それがまさか……あいつ、ローレンス――」
私は息を呑んだ。
(あぁ、ルイス。あなた、なんて顔をしているの……?)
彼の全身から立ち上る、肌を刺すような殺気に、私は思わず一歩後ずさる。
明確な殺意に染まる表情。地を這うような低い声。どす黒く、全てを飲み込んで闇の中に引きずり込んでしまいそうな……その、禍々しいオーラ。
「あの男は、母上の最期の力を奪ったのです。――人の心を読む力? 馬鹿にするな。あれはそのような生半可な力ではない。あれは――」
ルイスの端正な顔が、憎悪に引き攣る。
ローレンスを決して許すことが出来ないのだと、その日から千年以上が経った今でも、ルイスの心の時は止まったまま、復讐の業火にその身を焦がし続けているのだと、私は痛いほどに理解した。
「……ローレンスとは、アーサー様のことなのね?」
恐る恐る尋ねると、ルイスは黙ったまま小さく頷いた。
でもきっと、彼にはわかっているはずだ。今のアーサー様は、ローレンスとは別人なのだと。それでも……彼がアーサー様を恨み続けるのには、理由がある。
「アーサー様の中に、ローレンスがまだ生きていると言うことなの? それはあなたがエリオットが生きていると言ったのと……同じ理由なの?」
私の問いに、ルイスの黒い瞳が私をじっと見つめ返した。その視線に、私の推測が確信へと変わる。
あぁ――やはりそうなのだ。
ソフィアから奪われたアーサー様の瞳の力は、彼が生まれ変わっても引き継がれている。そして恐らく、アーサー様の中には未だ、ローレンスの意識が消えずに残っているのだろう。
それと同じように、いつまでも引き継がれる私の記憶。死んだはずのエリオット……。記憶と一致しない私の夢――。
そうだったのだ。きっとこの私の消えない記憶も……ソフィアの力の……一部なのだ。
「あなたは、アーサー様をどうしたいの。私達を……どうするつもりなの」
震える声で呟くと、ルイスは「察しがいいな」と言わんばかりに顔を歪め、私の方に一歩、また一歩と近づいてくる。
――怖い。
本能が警鐘を鳴らす。けれど、私はまだ肝心なことを思い出せていない。いつ、どうしてソフィアの力を手にしたのか、その記憶の欠片が空白のままなのだ。
だから逃げるわけにはいかない。正面から向き合わなければならない。こんなに辛そうな、血を吐くような想いを抱えたルイスを、放っておくことなど私には出来なかったのだ。
ルイスは私の眼前で立ち止まると、首を傾けて私の顔をじっと覗き込んだ。
「アーサーに恨みはありません。だがどうしても、ローレンスに聞かなければならないことがあるのです。僕を逃がした母上が死んだと聞き、居ても立っても居られなかった僕は母上の躯を捜しました。けれどどこにも見つからなかった。これでは死んでも死にきれないでしょう?」
「――っ」
ルイスの闇色の瞳が、妖しく光る。
「ローレンスには目覚めてもらう。その右目を抉り取り、僕の前に跪かせる――それが僕の望みです」
「……そんな、彼は王子よ。そんなことしたら、ただじゃ済まないわ!」
私は悲鳴に近い声を上げた。
そうだ、そんなことをしたら、極刑は免れない。現代の法が、彼を許すはずがない。
「ははははっ! この期に及んで怖じ気づいたというわけですか! 結局あなたも、ただの人だったと言うことだ!」
「――!」
そう言って大声を上げて嗤うルイスは、まるで別人だった。いつもの冷静沈着な従者の面影など微塵もない。
足元から冷気が這い上がってくる。酷い寒気が私の全身を襲い、指先が震えた。
「何のために千年も待ったと思ってる。僕がこれまでの長い時を、ただ漫然と過ごしていたとでも思ってるのか?」
ルイスは、その片方の頬だけを吊り上げる。それはとても、歪な笑みだった。
「まぁ――あなたは好きにしたらいいでしょう。あなたかウィリアムか――それともエリオットか、母上の作り出した鍵を持っているのは間違いない。それこそが、あなたの言う呪いの根源なのだから。ローレンスのことが片付けば、その呪いも解くと約束しますよ」
「…………本気、なの」
アーサー様を本気で手に掛けるつもりなのだろうか。
ルイスの恨みは深い。想像を絶するほどに。けれど、それは駄目だ。そんなことは許されない。絶対に――。
そもそも何故彼は、私にこんなことを話したのか。
「……私が、アーサー様に伝えると言ったら?」
私は声を絞り出し、精一杯の虚勢を張って微笑んでみせた。
目の前のルイスは私の知っているルイスでは無い。いや、私は最初からずっと、ルイスという人間について何一つわかっていなかったのだ。それはきっと今も変わらない。
――けれど。
私のせいでアーサー様が命を落とすなんてことになったら……ウィリアムは……どうなるの?
親友を失った彼の悲しみを思うと、胸が張り裂けそうになる。
私の視線に、ルイスはククッとくぐもった嗤い声を上げた。
「アーサーは既に気付いていますよ。あとはローレンスが目覚めるだけ。それに……あなたは僕から逃げられない。あなたの中にあるその呪いを解くには、アーサーの力を手に入れなければならないのだから。僕の邪魔をすれば、ウィリアムは死ぬでしょう」
「――!」
私の心臓が凍り付いた。
あぁ、そうか。そうだったのだ。この男は最初から、ソフィアの残した力を手に入れる、ただそれだけの為に、私とウィリアムを利用し、アーサー様を追い詰めようとしているのだ。
ルイスの唇が、三日月のようにニヤリと歪む。
その狂気に満ちた表情に――私は何も応えることができなかった。ただ恐怖に突き動かされるまま、私は背を向け、部屋を飛び出した。




