5.ヴァイオレットとの邂逅
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アルバートの姿が見えなくなると、ウィリアムは小さく息を吐いた。
先ほどの違和感が、胸の中で小さく燻っている。彼が王都に戻ってきた理由は、本当に研究のためだけなのだろうか。
そもそも、なぜ彼はここに――貴族専用の閲覧スペースにいたのか。アルバートは貴族ではない。つまり、待ち合わせの相手が貴族だということか。
「……いや」
ウィリアムはかぶりを振って思考を打ち切った。今はそれどころではない。
目的はアーサーだ。彼に会わなければならない。
だが、あの頑なな近衛兵たちがいる限り、正面突破は難しいだろう。やはり、アーサーが出てくるのを待つしかないのか。
「……無力だな」
ぽつりと零れた言葉は、自分自身への嘲笑だった。
今までは、いつだってルイスが傍にいた。彼がいれば、こんな風に立ち往生することなどなかった。ルイスは常にウィリアムの一歩先を読み、最善の道を用意してくれていたのだ。
だが、それはもう望めない。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような痛みに襲われる。
(俺は、どこで間違えたのだろうか)
気付けば、ルイスが傍にいることが当たり前になっていた。まるで自分の半身のように。いや、実際、彼はウィリアムの心を預けた、唯一無二の存在だったのだ。
そう、ルイスは間違いなくウィリアムにとっての特別だった。けれど、忠実な付き人だったルイスはもういない。ルイスは、自身が居た場所にアメリアを据え置いたのだ。もう自分は必要ないと、そう告げて。
だが、あれはルイスにとって、ただの契約にすぎなかった。ルイスは自身の目的のためにウィリアムに協力し、その結果としてウィリアムも救われた――自分たちは、それだけの関係。
ウィリアムは顔を歪めた。思考が闇の中へと沈んでいく。
(……俺は知っていたはずだ。ルイスは、いずれいなくなる存在だと。――だが、十五年だぞ。それだけの時間を共に過ごしたのに。それでもお前は行くというのか。この俺を置いて……?)
「……ルイス」
(お前は確かに約束を違えたかもしれない。だが、実際にアーサーを傷つけたのはこの俺だ。お前じゃない。だから、俺を見捨てないでくれ。置いていかないでくれ……)
ウィリアムの瞳が、悲痛に揺れる。
その時だった。
「もし。そこの方。どこかご気分でも? 人をお呼びいたしましょうか?」
不意にかけられた声に顔を上げる。
少し離れた場所から、一人の女性がこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「――あら」
紫色のドレスを翻し、金色の髪を揺らして近づいてきた女性は、ウィリアムの顔を見て小さく目を見張った。彼女もまた、ウィリアムに気付いたようだ。彼がアーサーの親友であることを知っている人物。
「――貴方は……」
あぁ、これは好機だ――!
ウィリアムは瞬時に思考を切り替え、ソファから立ち上がった。憂いを帯びた表情を消し去り、社交的な笑みを浮かべる。
「……お久しぶりですね。ミズ・フラメル」
――ミズ・ヴァイオレット・フラメル。
彼女は、今は亡きフラメル男爵の一人娘だったが、両親を事故で亡くした後、高齢の伯爵に嫁ぎ、未亡人となった身だ。今は旧姓のフラメルを名乗っているが、社交界では夫の死後、既婚か未婚かを問わない敬称「Ms.」で呼ばれている。これは、過去の結婚生活や複雑な立場に触れないよう、誰もが暗黙のうちに行う配慮だった。
そんな彼女は現在、アーサーの最も近くに侍る女性――。
ウィリアムは微かに目を細めた。その視線に含まれた意味を察したのか、ヴァイオレットは一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐに優雅な笑みで覆い隠した。
「ご無沙汰しておりますわね、伯爵様」
皮肉めいた響きを含んだ声。敵意すら滲ませる鋭い視線。
だが、今のウィリアムに引くという選択肢はない。彼は笑顔を消し、真剣な眼差しでヴァイオレットを見つめ返した。
「どうか、私のことはウィリアムと……。ミズ・フラメル。失礼を承知の上で……貴方にお願いがございます」
「……あなたが? わたくしに?」
侯爵家の嫡男が、娼婦である自分に願い出る。その異常さに、彼女は目を丸くした。
だがウィリアムは、なりふり構っていられなかった。恥も外聞も捨て、ただアーサーに会うことだけを求めていた。
「ふふ。面白いことを仰いますのね。わたくしの様な賤しい身分の女が、あなたのような高貴な方にして差し上げられることなど、あるはずございませんのに」
ヴァイオレットは扇子で口元を隠し、嘲るように笑う。
それでも、ウィリアムは彼女から視線を逸らさなかった。
「いいえ。決してその様なことはございません。もう私は貴方に頼るほかないのです。貴方は既にご存じでしょう。私が彼を傷つけたことを――。私は彼に謝罪しなければならないのです。どうか彼に合わせてください。お願いだ、ミズ・フラメル。貴方の心に、わずかでも彼を想う気持ちがあるのなら」
「――!」
ウィリアムの懇願に、ヴァイオレットの目尻がぴくりと動いた。
扇子の向こうで、彼女は再びクスクスと笑う。
「殿下を想う気持ちなどと……本当に失礼な物言いですこと。まぁ……でも、よろしいですわ。わたくしも、最近のあの方には少々手を焼いておりますの。……それに」
「……」
一瞬、ヴァイオレットの声が低く沈んだ。
「……あの方は……わたくしよりも……」
呟かれた言葉。その瞳に浮かんだ切なげな色に、ウィリアムは息を呑んだ。
彼女もまた、傷ついているのだ。自分の軽率な行動が招いた波紋によって。
それなのに、彼女は今、自分をアーサーに会わせると言った。その胸中はいかばかりか。
ヴァイオレットの空色の瞳が、哀しげに揺らめく。だが、彼女はウィリアムの視線に気づくと、ふわりとドレスを翻して背を向けた。
「少しお待ちを。衛兵を追い払って参りますわ」
「――あ」
水面を撫でる風のように軽やかな声。
彼女は呆然と立ち尽くすウィリアムを残し、扉の前へ。直立する近衛兵に顔を寄せ、何かを囁く。
するとどうしたことか、二人の衛兵は血相を変え、脱兎のごとくその場から走り去ってしまった。
一体何を言ったのだろう。ウィリアムは今日何度目かの違和感を覚えたが、今はそれを追及している場合ではない。
近衛兵がいなくなったのを確認し、ウィリアムは扉の前へと歩み寄る。
ヴァイオレットは兵たちが消えた先を冷ややかに見据えていたが、すぐにウィリアムを振り返り、完璧な笑みを浮かべた。
「――どうぞ、中へ。ウィリアム様」
彼女の白い手がドアノブにかかり、重厚な扉が音もなく開かれる。
それを合図に、ウィリアムは一歩を踏み出した。
「ミズ・フラメル。心から感謝いたします」
真剣な面持ちで礼を述べ、部屋の奥へと進む。
喉が渇き、心臓が早鐘を打つ。
――二ヶ月ぶりだ。
あの日、アメリアが川に落ちた翌日、彼女の前から消えろと告げたきり、一度も会っていない親友。
緊張で顔が強張る。だが、もう迷いはない。ウィリアムの背中が、部屋の奥へと消えていく。
ヴァイオレットはそんな彼の背中をただ黙って見送り――薄い笑みを浮かべて、静かに扉を閉ざした。




