2.追憶――ルイスとの出会い(前編)
窓を打つ雨音だけが、部屋の静寂を支配していた。
あいにくと連日の雨である。六月のことだ。
先月七歳になったばかりのウィリアムは、憂鬱な顔で、分厚い書物と睨み合っていた。
「あぁー、もう疲れた。歴史なんて嫌い、似たような名前ばっかりでこんなの覚えられるわけないよ。ねぇアル、ちょっと散歩でもしない?」
ウィリアムは数冊の本が広げられたテーブルに突っ伏し、大きな溜め息をつく。視線の先には、すぐ横に立つ家庭教師、アルバートの姿があった。
幼い主人の訴えるような眼差しに、アルバートは形の良い眉をひそめる。
「……散歩、ですか? このような雨の中を……? それよりも、ウィリアム様。授業中は私のことは先生と呼ぶようにと、何度も申し上げておりますよ」
家庭教師の名は、アルバート・ハドソン。歳は二十代半ばだろうか。
ひょろっとした柳のような細身の長身に、女性のように透き通った白い肌。藍色の髪は肩にかかるほどの長さがあり、首の後ろで一つに括られている。瞳は髪と同じ深い藍色で、縁の無い丸眼鏡が理知的な光を宿していた。
普段は何とも歯切れの悪い優男だが、ウィリアムに勉強を教えている間だけは、まるで別人のように厳格な教師の顔を見せる。
「さあ、ウィリアム様、もう一度。私のことは〝先生〟と――」
普段より幾分と低い声に、ウィリアムはびくりと肩を震わせた。
「温室があるじゃない……ですか、先生」
「…………」
上目遣いに様子を伺うウィリアムから、アルバートはふいと窓の外へ視線を逃がした。
ガラスを叩く雨脚は激しさを増している。
やれやれ、とアルバートの唇から呆れたような吐息が漏れた。
「仕方がありませんね。では次のページまで読んで、少し休憩に致しましょう」
「やった!」
ぱあっと、ウィリアムの顔に花が咲く。
結局のところ、この男はウィリアムに甘いのだ。
今は亡きウィリアムの祖父母、前ウィンチェスター侯爵夫妻には父の代から大変世話になっているという。その恩義ゆえにアルバートの父は医師として名を馳せ、彼自身もこうして自由に生きることを許されている。
そうした背景もあって、アルバートが前侯爵の孫であるウィリアムを可愛く思わないわけがなかった。
二人は切りのいいところで本を閉じ、部屋を出た。
アルバートは通りかかったメイドを呼び止め、アフタヌーンティーは温室に運ぶようにと指示を出す。
ウィリアムは彼が遠ざかる背中を眺めていたが、ふと、母親であるリリアンの部屋から漏れ出してくる話し声に足を止めた。
「……お父さま?」
聞こえてきたのは、父親であるロバートの声だ。
今日は夕方まで帰らない予定だったはず。それなのに、どうして母親の部屋にいるのだろう?
ウィリアムは好奇心に負け、音を立てぬようそっとドアノブを回した。僅かに開いた隙間から、ロバートの困惑げな声が滑り込んでくる。
「ベネットに続きオリビアまで……これが偶然だと思うか……⁉」
――ベネットに……オリビア……?
ベネットとオリビアはこの屋敷の使用人だ。いや、正しくは〝使用人だった〟というべきか。
彼らはここ最近、体調不良を理由に相次いで屋敷を辞めている。
二人に何かあったのだろうか。ウィリアムはドアノブを握ったまま、石像のように固まった。
ロバートとリリアンは、深刻な会話を聞かれていることになど気付く様子もない。
「あなたは何を仰りたいの……?」
リリアンの声もまた、小刻みに震えていた。
「シモンズやターシャの前例がある。皆、あの子のことを実の弟の様に可愛がっていた者ばかりだ」
「…………」
――何だって?
あの子――というのが自分のことだという事実に、ウィリアムは即座に思い至った。
だからこそ、混乱する。
従僕のシモンズやメイドのターシャもまた、去年までこの屋敷で働いていた者たちだ。彼らはここを辞めるその時まで、使用人の垣根を越え、ウィリアムに良くしてくれていた。誰もが優しく、笑顔で接してくれていたのだ。
「私が気づかないとでも思ったのか。私の居ぬ間にハドソンが出入りしているだろう」
「――ッ」
「執事を余り困らせるな」
「……っ」
ハドソンとは、家庭教師アルバートの父親、ピーター・ハドソンのことである。この家のかかりつけ医だ。
そのピーターが、ロバートの不在を狙って頻繁に屋敷へ出入りしているという。
そして、彼を呼び寄せているのは、母親のリリアン。それが意味するものは、即ち――。
「いつからだ、なぜ隠していた」
「…………」
「リリアン、言うんだ、どこが悪い。田舎で療養したって構わない。私もついていくから」
「……っ」
普段は温厚なロバートの声に、怒りとも恐れともつかない感情が滲む。そんな夫の胸に、泣きながら飛び込む母親の姿が見えた。
二人のただならぬ様子に、まだ七つの幼いウィリアムも悟らざるを得ない。今の会話が、聞いてはいけない、知ってはならない内容だったことを。
「ウィリアム様? いかがされましたか?」
「――っ」
立ち尽くすウィリアムの頭上から、アルバートの声が降ってきた。
はっと我に返り、急いでドアを閉めようとする。けれど、もう遅かった。
「ウィリアム……!」
息子の存在に気付いたロバートは顔をしかめ、リリアンは先ほどよりも一層、顔色を蒼白に変える。
「――あ……」
両親の強張った視線に射抜かれ、ウィリアムは……一歩、二歩、と後ずさった。
とんっと、背中が何かにぶつかる。見上げれば、そこには悲痛な面持ちで自身を見下ろす、アルバートが立っていた。
「……ぼ……く……」
ウィリアムは咄嗟に身を翻す。
何もかもから逃げ出すように、気が付けば廊下を駆け出していた。
*
冷たい雨が、容赦なく全身に打ち付ける。
ウィリアムはあてもなく街を駆け抜けていた。視界は涙と雨で滲み、もう何も映っていない。ただ、灰色に塗りつぶされた世界の中を、無我夢中で駆けていた。
「……なん……だよ……」
革靴が水たまりを跳ね、泥水を散らす。濡れた前髪から滴る水が、頬を伝う。全身から熱を奪うように、氷のような雨が彼を濡らしていく。
すれ違う人々は、傘もささずにずぶ濡れで走る子供に怪訝そうな顔を向け、ときおり声をかけるのだが、ウィリアムには何も届かない。両親の会話は、七歳の彼にとって、それほどまでに耐え難い内容だった。
「ウィリアム様……!」
だが、後ろから追いついてくる足音があった。――アルバートだ。
子供の足が大人のそれに敵うはずもない。ウィリアムは直ぐに追いつかれてしまう。不意に雨が止んだかと思うと、アルバートの黒い傘が背後から頭上を覆っていた。
「ウィリアム様、帰りましょう。お風邪を召されてしまいます。それに……奥様も、大変心配なさっておいででしたよ」
背中の高い位置から、アルバートのあやすような、諭すような声が落ちてくる。
だが、ウィリアムは頑として振り向かない。
「……ねぇ、アルは知ってるんだよね。シモンズやターシャは……どうしたの。今も……元気――なわけないか」
「申し訳ございません。お二人については、何も聞き及んでおりませんので」
嘘だ――と、ウィリアムは直感した。
「じゃあ、ベネットやオリビアは……? 知らないわけ、ないよね……」
「…………」
二人が体調を崩したとき、診察したのはアルバートの父、ピーター・ハドソンだ。
二人はしばらくして屋敷を辞めてしまったが、それでも母・リリアンはピーターに「彼らを引き続き診てやってほしい」と頼み込んでいた。
そうでなくてもピーターは、知り合いの医者に頼むと、リリアンに確かに約束していたのだ。
だから二人のその後を、ピーターの息子であるアルバートが知らないはずがない。にもかかわらず、アルバートは沈黙を守る。
――いや、言えないのだろう。ウィリアムは幼いながらも残酷な真実を理解した。
「……死んじゃったの?」
「いいえ。決して、そのようなことは」
「じゃあ何?」
ウィリアムはアルバートの傘の下で、俯いたまま呟いた。
アルバートは幼い主人の震える背中を見つめ、躊躇うように口を開く。
「生きて……いらっしゃいますよ。生憎と……万全とは参りませんが……」
「……そう」
やはり、そうなのだ。
ウィリアムは唇を噛み、言葉を継ぐ。
「でも、母さまは……?」
ようやく振り向いたウィリアムの瞳に、雫が溢れそうに溜まっていた。
それはきっと、雨粒ではなく――。
「母さまは……病気なの? 僕の、せいなの……?」
「そんな、まさか! ウィリアム様のせいであるはずがありません! 私が断言致します!」
瞬間――ウィリアムの顔が、自嘲気味に歪んだ。
「ははっ。そっか。病気だってことは……否定しないんだね」
「――!」
呻くように呟いて、再びアルバートから顔を背ける。
悔しさが込み上げ、身体の震えが止まらない。
「暫く一人にして」と。「追いかけて来ないで」と、拒絶の言葉を投げつけ、ウィリアムは再び走り出した。
愛する人たちが不幸になる。僕を愛してくれる人たちが、傷ついていく。そんな絶望から逃げるように。
――けれど。
「ウィリアム様、いけません……ッ‼」
刹那――背中に、アルバートの怒号が突き刺さった。
「馬車が――!」
その声にハッと顔を上げる。
猛スピードでこちらに向かってくる馬車が、目前に迫っていた。
馬の様子がおかしい。暴走している。周囲から悲鳴が上がり、制御を失った馬車が人々を跳ね飛ばしていく。
「――っ」
ウィリアムは目を見開いた。足がすくみ、一歩も動けない。死が、巨大な質量を持って迫ってくる。
「ウィリアム様ッ……!」
アルバートは走った。必死に腕を伸ばし、ウィリアムを守ろうとする。だが、二人の間にはあまりにも距離がありすぎた。
「母……さま……」
――助けて――。
その瞬間、ウィリアムは確かにそう願った。
すると同時に、どこからともなく黒い影が飛び出したかと思うと、直後に強烈な衝撃が走り、ウィリアムの体は、濡れた石畳の上に突き飛ばされた。




