偽物の公爵令嬢は破滅後に本当の自分を愛されて幸せをつかむ
「ガラテア、お前との婚約は破棄する!」
そう公の場で宣言なさったのはこの国の王太子であらせられるジェームズ様。
「何故ですか殿下!? わたくしほど王太子妃に相応しい者などいませんのに! 貴方様はこの小娘にたぶらかされているのですわ!」
そう反論するのは王太子殿下の婚約者であるわたくしこと公爵令嬢ガラテア。
「ガラテア様、どうかこれまでの罪を認めて下さい! 皆さんもきっとそう思っていますから!」
そう謝罪を求めつつ王太子殿下にしなだれるのは男爵令嬢のロクサーヌさん。
この三人の登場人物で行われた断罪劇は、既に結末の見えていた単なる茶番に過ぎませんでした。
既にロクサーヌさんと相思相愛になり生涯を共にすると誓い合った二人にとって、わたくしは邪魔者でしかありません。いかにわたくしが正論を並べ立てようと王太子殿下は聞く耳を持たず、わたくしを糾弾するばかりです。
事の発端は……そうですね、ロクサーヌさんが現れてからでしょうか。
公爵家の息女ガラテアといえば貴族令嬢の代表とも讃えるべきだ、とあえて申しましょう。わたくしが言うのも何ですが、文武共に優れ、殿方はおろか同性すら見惚れる美しさを持ち、品格や教養など非の打ち所がありませんでした。
……あくまで公爵令嬢として、王太子殿下の婚約者として、ですが。
そう、誇り高き貴族として身分と爵位を重んじておりました。
王太子殿下の恋心を奪っていった男爵令嬢風情がとても許せないほどに。
男爵令嬢ロクサーヌさんが現れたのは丁度一年前。愛人に産ませていた不義の娘を正式に養子として迎え入れたそうで、それまでロクサーヌさんは一般庶民として生活していました。貴族の娘となったことで王太子殿下と関わるようになったのです。
この国では貴族の子には一定の高水準の教育を、との理念から、王立学園で学ぶ決まりとなっています。途中から編入してきたロクサーヌさんは、貴族令嬢らしくない素朴さと純粋さで王太子殿下方の興味を引きました。
初めのうちは保護だったのでしょうね。ですが段々と王太子殿下方はロクサーヌさんを好きになっていきました。突然貴族社会に放り込まれて右も左も分からなかったロクサーヌさんも過保護な彼らへ依存していきました。
「薄汚い男爵令嬢風情がよりによって王太子殿下に色目を使うなんて……!」
との陰口だって何度叩かれたことか。
無論、黙って見過ごせもせず、身分を弁えるよう何度も注意したのですが、ロクサーヌさんを贔屓する王太子殿下の目にはいびりに見えたのでしょうね。段々と王太子殿下との仲に亀裂が走り、険悪になっていったのです。
面白くなかったのでロクサーヌさんが少しでも失態を犯すと蔑み、嘲笑い、罵倒しました。こんな至らない小娘が畏れ多くも王太子殿下に近づくなんて、と。皆の前で毎日のように馬鹿にし、見下しました。
それを見て周りは、特に未来の王太子妃を慕うご令嬢の方々はロクサーヌさんへのいじめを加速させていきました。いかに自分が身分をわきまえていないかを思い知らせるために。これ以上ガラテア様の手を煩わせるな、と。
そうした障害がより愛を燃え上がらせたのでしょう。王太子殿下は公衆の面前で首謀者だとして問い質しました。それはまるでガラテアが悪いと一方的に言わんばかりに責めたのです。
それを侮辱と受け止めてからは憎しみをロクサーヌさんへぶつけるようになりました。例を挙げればきりがありませんが、それはまるで嫉妬の駆られて醜悪となった心を鏡に映したかのように陰湿で不愉快な類のものでした。
もはや王太子殿下との間に愛はおろか信頼も義理すらありません。
王太子殿下にとっては公爵令嬢の婚姻という義務で縛り付けられた、不本意な関係でしかなかったのです。
「そして貴様は暴漢を雇ってロクサーヌを襲わせただろう! 調べは付いている!」
「それは耳にしておりますが、どうしてわたくしと結びつけるのですか! わたくしが依頼したと証言する者がいるとしたら口からのでまかせです!」
「そんな言い訳が通じると思ったか! もはや貴様が王太子妃に相応しくないのは誰の目にも明らかだ!」
「元を辿れば貴方様がそこの分際をわきまえない身勝手な小娘に心奪われたからでしょう! 貴方様まで立場を考えずに選択するなど愚の骨頂――」
「黙れ! もはや貴様の声を聞くだけでも苛立ちが募るばかりだ」
ですからこうして真の愛とやらを取ったのでしょうね。
この先の困難苦難の類は二人で手を取り合って乗り切っていく、とでも?
それはそれは、是非頑張ってくださいませ。わたくしは見守っていますわ。
しかし、そう楽観視もしていられません。何しろ殿方から婚約破棄されるなど貴族令嬢にとっては恥でしかありません。貴族の婚約とは恋愛なんて陳腐なものではなく家と家との契約なのですから。
それも、今回は王家の者が公衆の面前で糾弾しつつ破棄なさったのです。もはやわたくしはこの先嘲笑の的として生きていくほかありません。厚かましく無視したり開き直るなんて公爵家の娘としての誇りが許しませんし。
「これまで犯した罪を踏まえて、王太子の名において貴様の身分を剥奪する!」
「なっ……!」
まあ、そんな程度で王太子殿下の腹の虫が治まるとは思っていませんでしたけど。
最愛の女性を悲しませた悪女を破滅させるまで暴走するしかありません。
「王都に留まることは許す。国外追放も検討したのだが慈悲深いロクサーヌに感謝するんだな」
「身分を振りかざすなんて不毛です。貴族じゃなくなればきっとガラテア様も分かってくれます……!」
「こ、のぉ小娘が……!」
わたくしが顔を歪ませてロクサーヌさんに詰め寄ろうとすると、王太子殿下の傍らに控えていた取り巻き衆が素早く前に躍り出て阻んできます。ロクサーヌさんを掴もうとして手を取られ、その場に叩き伏せられました。
「これ以上ロクサーヌを傷つけることはこの俺が許さん!」
「やれやれ、貴女はもっと賢いかと思ったのだがな」
怒声を上げるのが騎士団長の嫡男。失望するのが若き侯爵。いずれもロクサーヌさんに好意を抱く殿方でした。王太子殿下に負けず劣らずわたくしを憎んでいたので、この無礼はこれまでの鬱憤を爆発させた結果でしょう。
「お前が王太子殿下方を狂わせたのよ! お前さえ現れなかったら――!」
「見るに耐えんな。おい、何をグズグズしている、早くこの女を連れて行け!」
ロクサーヌさんへ暴言を吐き続けるわたくしに嫌悪感を顕にした王太子殿下が命じると、騎士団長嫡男や若侯爵から引き取った近衛兵達がわたくしを乱暴に連れて行こうとします。いくらもがこうと屈強な殿方に力で敵うはずもありません。
きっと天罰が下るに違いない、雑種の小娘を娶るなど国の恥だ、などと連れ去られていく間も叫びますが、破滅した者の戯言に誰が耳を貸しましょう? 皆様からわたくしに向ける視線はどれも侮蔑、失望、嘲笑に彩られていました。
……いえ、ただ一人だけ違いましたね。
宰相閣下のご嫡男、トーマス様。
彼は何故か胸が張り裂けそうなぐらい悲痛な面持ちでわたくしを見つめていました。
■■■
さて、乱暴に馬車に乗せられたわたくしは王宮でも公爵家でもない方角へと向かわされました。王都に築かれた貴族方の別邸が連なる区域でもなく、王国市民達が過ごす市街地ですらありません。
「ね、ねえ、どちらに向かっているの?」
「すぐに分かる。我々は貴女を指定場所で降ろすよう命じられているだけだ」
「降ろすって、まさか今日からこのわたくしに庶民として過ごせって言うの!?」
「黙っていろ! もはや貴女は貴族でも何でもないのだからな」
野太い声で怒鳴られたわたくしは思わず悲鳴をあげて押し黙るしかありませんでした。わたくしを見張る近衛兵達はもはや汚物にでも向ける目をしています。王太子殿下から色々と吹き込まれているのでしょうが、訂正のしようもありませんでした。
窓からの眺めは段々と寂れていきました。夜の街を照らす灯りの数も減っていき、家も美しさが鳴りを潜めて、必要最低限の機能さえあれば程度のみすぼらしいものへと変わっていきます。道も狭く暗くなり、すれ違う庶民の服装も簡素化してきました。
「着いたぞ。降りろ」
そして、馬車は止まりました。
所謂貧民街と呼ばれる王都の影である区域に。
突然現れた豪華な馬車に興味を惹かれた貧民達が集まってきました。武装した近衛兵が御者を務めているので距離は離していますが、こんなところで豪華な衣装と宝飾品を身につけたうら若き乙女が投げ出されたら、結果は火を見るより明らかです。
「ま……待ってくださいませ。こんな場所でこのわたくしに降りろと……?」
「嫌だと言うなら力ずくで叩き出すまでだが?」
「お、お父様がこんな真似を許しませんわ! 今すぐ公爵に取り次ぎなさい!」
「公爵閣下なら既に貴女様を勘当する旨の声明を出している。縋っても無駄だ」
「う、嘘よ……お父様がそんな、わたくしを見捨てる筈が……」
「いい加減にしろ! 自分で降りるか蹴落とされるか早く選べ!」
怒声を上げた近衛兵は乱暴に扉を開いてわたくしの肩を強く掴みました。苦痛に軽くうめき声をあげてしまいましたが近衛兵は謝るどころか更に怒りを増したようでした。このままでは殺されかねない、と恐怖したわたくしは転がるように下車したのです。
「ただのガラテアとなれば多少はマシになるだろう、と殿下は仰っていたが、さてどうなるかな?」
「この女がそんなに簡単に変わるわけがないだろ。賭けにもならねえよ」
「ったく、深夜につまらねえ仕事押し付けやがって。手当ばっちり貰うからな」
もはや近衛兵はわたくしに見向きもせず、好き勝手いいながら馬車を走らせていきました。視界から消え、馬車が走る音すら聞こえなくなり、静寂に包まれた夜へと戻りました。彼らは帰っていったのです。自分達の、そしてわたくしの追放された世界へ。
一人取り残されたわたくしに段々と貧民達が近寄ってきます。突然の出来事にしばしの間様子を見ていましたが、囮捜査でもなく本当に我儘娘が捨てられただけだと確信したのでしょう。
「い、いや……来ないで……」
風呂どころか水浴びすらしていない汚れた手が無数にわたくしへと伸ばされます。振り払うにも限度がありますし、囲まれているので逃げようもありません。わたくしは成すすべなく髪や腕を掴まれてしまいました。
宝飾品を剥ぎ取られました。髪を乱雑に切られました。正装を引き裂かれました。宝石はおろか髪や布も高く売れるからでしょうね。
そして残されたわたくしそのものにも欲望にまみれた沢山の手が伸ばされて……、
「い、いやあぁぁぁああっ!!」
こうして傲慢で傍若無人な『悪役令嬢』は破滅したのです。
その後、男爵令嬢は素敵な王子様との恋を成就させ、幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
――と、物語であればここで終幕なのでしょうが、ここは現実の世界。
各々の人生は続くのです。否応無く、ね。
■■■
一年後、わたくしは貧民街に立てられている教会のお世話になっていました。
ここでは神の教えを伝えたり祈りを捧げる他に、恵まれない者達の奉仕が行われます。例えば少しでも良い仕事につけるように文字の読み書きを教えたり、炊き出しをしたり、孤児の面倒を見たり。
物好きな貴族や商人からの寄付で何とか運営出来ていますが、贅沢とは無縁の綱渡りの毎日を送っています。それでも衣食住が曲がりなりにも整っている環境には感謝しなければならないでしょう。
「ガラテアさん! やっと見つけました……!」
「貴方様は……」
そんな貧しい教会にしばらく見なかった顔がやって来ました。
彼、トーマス様は教会の前で子供達と遊んでいたわたくしに心底安堵したようでした。そのまま感極まって抱きついてくるのではと思ってしまうほどの早足で近づいてきましたが、自分を律したようで途中で立ち止まりました。
「お久しぶりです、トーマス様。昨年以来でしょうか?」
「さあ、こんな所からはすぐ離れて僕と一緒に行きましょう」
「……っ!?」
トーマス様がいきなりこちらへ手を伸ばしてきたので、わたくしは思わず手を引っ込めてしまいました。怯えるわたくしにやっと気づいたらしく、トーマス様は慌てて頭を下げて謝罪を口にしました。
「ごめんなさい。その、怖がらせるつもりは無かったんだ」
「あ、いえ。こちらこそ不躾で申し訳ありません」
貧民街ではまず見ない豪華な作りの馬車で現れたしっかりとした身なりのトーマス様に自然と注目が集まってきました。わたくしが追放された時のような歴戦の兵士が守っているわけでもないため、総出で襲いかかられたらひとたまりもありません。
「トーマス様。馬車にはこの場からひとまず立ち去るようお命じ下さいませ。注目を集めていますわ」
「あ、うん。分かった」
「それから、話が長くなるようでしたら中で致しましょう」
「……ガラテアさんがそう言うなら」
決して宰相閣下のご嫡男をお招きするような場所ではありませんが、外よりはマシです。トーマス様はわたくしのお願いを聞き入れてくださり、わたくしの案内で応接間へとやって来ました。
トーマス様は物珍しそうに部屋の中を見渡しました。一応客人をもてなす為にお茶は用意しましたが、彼は一口付けると複雑な表情を浮かべました。市場最安値の茶葉を使ってる上に味も香りも薄く、水も井戸から汲んで沸かしただけですからね。
「王太子殿下がガラテアさんを貧民街に追放した、って聞いた時は心臓が止まるかと思ったよ。てっきり市街地の外れに連れて行くかと思っていたのに」
「それがロクサーヌさんをいじめたわたくしへの罰なんでしょうね」
「その……ずっと探してたんだ。行方が掴めなくてもう駄目かも、と思った事もあったけれど、元気そうで何よりだった」
「ええ、おかげさまで」
今は元気だ、で片付けられたらどれだけ良かったか。
怒鳴りたくなる気持ちを抑えて愛想笑いを浮かべて差し上げました。
この教会にたどり着いたのも身ぐるみ剥がされて身も心も散々に汚されて、やっとの思いで逃げてきましたから。人として扱ってもらえることがどれほど有り難いかを身を以て味わった次第です。
まあ、トーマス様に暴露する気は毛頭ありません。案の定今までどうしたかを問われましたが、どんな目に遭ったかは極力省略して今はここで世話になっている、とだけ簡潔に説明しました。
「それで、本日はどのようなご用件でこちらへ? 没落したこのわたくしを嘲笑いに来たのでしたらどうぞご自由に」
「そんなわけない! むしろ僕は、ガラテアさんが心配で……!」
「へえ、王太子殿下と一緒になってわたくしを追い落としたのに?」
「それ、は、僕は殿下がこんな過度な仕打ちをするなんて思ってなかったから……」
いけない、普通に応対しているつもりなのに語尾が鋭くなってしまいます。そのつもりがなくても心のどこかでは恨みが消えていないのかも知れませんね。
それを感じ取ったトーマス様は責められてるかのように語尾を小さくしていきました。小柄な彼の身体が縮こまるせいで更に小さく見えてしまいます。
「まあいいです。今更謝罪は求めませんわ。それより先程トーマス様はわたくしをいきなり連れ去ろうとなさいましたが、一体どういうわけですか?」
「ガラテアさん。僕はもう貴女が充分に罰を受けたと思うんです。だからもうこんな環境からは抜け出していいんじゃないですか?」
「抜け出してどうしろと? もうわたくしには帰る場所なんて無いのに」
「僕が用意します。僕の家の領地に屋敷を用意しましたから、そこに移りませんか?」
身分剥奪と追放は言い渡されましたが、その後わたくしがのたれ死のうがしぶとく生き延びようが好きにして良いのでしょう。ですからトーマス様の提案に乗ったって誰も咎めやしません。劣悪な環境から解放されるにはそうするしかないでしょうね。
ですが……。わたくしはトーマス様に深く頭を下げました。
「折角の申し出ですがお気持ちだけ頂戴いたしますわ」
「……っ!? ど、どうして!?」
「わたくしにはここを離れられぬ理由があるのです」
「もしかして、ここに愛着が湧いたとか……?」
「それもありますが……失礼ながらトーマス様は貧民街の事情を全く分かっていないご様子で。でなければこんな場違いな来訪の仕方はしませんし、そのような提案もしなかったでしょう」
「事情とか言われても、単に経済的に恵まれない人達が集まった区画じゃないの?」
わたくしが深くため息を漏らした時でした。部屋にわたくしよりも若い修道女がやってきました。
断りを入れてこなかったどころか息を切らしてとても焦った様子で、顔色を窺うだけでも良からぬ事態が起こったのだと察せました。
「どうしましたの? お客様がいらっしゃっていますのよ」
「あの、ごめんなさい。ですが……」
その時、数名の屈強な男性が修道女を押しのけて部屋に無遠慮に入ってきました。
礼儀や上品さのかけらもなく、ガラの悪い彼らは我が物顔でわたくしに近寄り、断りもなくわたくしの肩に触れてきました。そして下品な顔をしながら強引に自分の方へと引き寄せたのです。
「お前、ガラテアさんからその手を離せ!」
いきなり怒鳴り声をあげて立ち上がったトーマス様にやっと気づいた男共は眉を吊り上げて彼を睨みました。威圧された彼は情けない声をもらして怯んだものの、すぐに鋭く睨み返しました。凄みが全くありませんけれどね。
男に「コイツは誰だ」と男に聞かれたので「やんごとなき家のお坊ちゃま」と答え、「逃げる気か?」と聞かれたので「逃げられないのは貴方が一番ご存知でしょう」と返事します。
男に強く掴まれたとある部位を痛みが走ります。苦痛と嫌悪感で顔を歪めてしまいましたが、口を押さえて悲鳴や叫び声は漏らさずに済みました。向かい側でこの光景を目の当たりにしたトーマス様が怒りを必死に堪えているのを見て、恥辱で顔が熱くなります。
「貧民街には貧民街なりの秩序があるんですの。無法地帯は誰も望みませんし。けれど国の治安はここまで届きません。ではどうやって我が身を守るか? 自衛しかありませんわ」
「じゃあコイツ等は自警団だって言うの……!?」
「調和を司る組織、という点ではそうですわね。ここでは『ギャング』と呼ばれる者達の庇護下に入ることで理不尽な暴力や略奪を受けずに済みます。安心、安全を得るための必要な経費ですわね」
「経費って、それでガラテアさんは……!」
トーマス様はその先の言葉を紡げませんでした。わたくしが彼らにどのような奉仕をしているかを想像したようですが、それを口にするのを貴族としての誇りが許さないのでしょう。もはや今のわたくしとは無縁の概念ですね。
「で、貴方様は先程わたくしをここから連れ出すとおっしゃいましたが、残されたこの教会はどうなるか分かりますか?」
「まさか……」
わたくしが瞳だけ動かすとトーマス様は胴を捻ってわたくしの視線の先を見つめました。そちらにいた若き修道女が怯えたように身体を震わせます。その拍子に扉と当たって予想以上に大きな物音が出ました。
「そう、食指を他に動かすだけのこと。貴方様は面と向かって言えますか? これからはわたくしの代わりにお前に犠牲になれ、と」
「それ、は……」
「お帰りくださいませ。ささやかな善意などわたくしには迷惑でしかありませんわ」
愕然とするトーマス様を余所にわたくしは立ち上がり、愉快だと嗤うならず者達へと歩み寄ります。連中はわたくしの腰に手を回し、思いっきり抱き寄せました。まるでコイツは俺達のモノだ、とトーマス様に見せつけるかのように。
「でも、ガラテアさんはそれでいいんですか……!? 好きでもない人と、その、仲良くするなんて……!」
「……くだらない。とっくに割り切りましたわ」
わたくしはトーマス様の顔を見る事ができず、背を向けたまま男達に連れられて部屋を後にしました。彼らが満足するまで奉仕してから一応戻ってきましたが、既に部屋には誰もいませんでした。
これでいいのです。わたくしにはトーマス様の慈悲を得る資格はありません。それは公爵令嬢でなくなったからでも、ロクサーヌさんを虐げたからでも、王太子殿下の婚約者でなくなったからでも、この身が汚れたからでもありません。
そう、だってわたくしは――。
「わたくしは、ガラテア様ではないのだもの」
■■■
わたくしの所属するとある組織に依頼が届いたのは今から一週間ほど前でした。王国でも由緒正しき公爵家に招かれたとある組織の代表、テレサさんは依頼人である公爵からとんでもない要求を突き付けられたそうです。
「今から一週間後までに我が愛娘ガラテアの身代わりを用意しろ」
それがどれほどの無茶なのか想像できますでしょうか?
テレサさんは思わず眉をひそめました。思わず断ろうと漏れかけた声を用意されたお茶と飲み込み、かろうじて堪えたらしいです。
「一週間後、とはまた急ぎますね。失礼ながら閣下は我が組織を便利屋か何かと間違っておりませんか?」
「噂には聞いている。どんな婚約破棄も承る、と豪語しているそうだな」
かつて、この世界では『転生ヒロイン』の出現により大国が滅亡の危機にさらされました。やんごとなき方々がその悪女の毒牙にかかり、彼らの婚約者やそのご実家が『ハーレムルート』の犠牲となられた痛ましい事件、と歴史に刻まれています。
そのため、今度『転生ヒロイン』が現れても迎え撃つべく、わたくしの祖国である公国は『乙女ゲーム』の脚本に対抗する組織を結成しました。『ヒロイン』を出し抜いて『悪役令嬢』を救う者を派遣する、その名もズバリ悪役令嬢協会を。
「謳い文句は仰るとおりですが、準備期間とご協力を充分にいただければ、という前提がございます。不可能を可能にするためにも、まずはどういった経緯で我々に依頼したのかをご説明願います」
「無理だ、とは言わぬのだな。いいだろう。事の始まりは――」
所感混じりで整理するのが大変だったそうですが、かいつまむと依頼人のご息女ガラテア様は王太子殿下の婚約者で、その彼は突如男爵令嬢のロクサーヌさんが現れたことで約束された未来が破綻し始めたそうです。
「内容は報告書で拝見しましたが……指導や教育にしては行き過ぎだったのでは?」
「王太子殿下に横恋慕する真似以上に深刻ではないな」
公爵閣下が開き直るように、身分の低い輩の人権はあって無いようなものです。己の溜飲を下げるためなら過度な暴力や陰湿な嫌がらせは挨拶と同程度とみなされます。ガラテア様は自分の癇癪が正しい所業だと疑いもしません。
「それで王太子殿下がご息女との婚約破棄をするだろう、と閣下はお考えで?」
「だろう、などという憶測ではない。一週間後に必ずされる確定事項なのだ」
「ではその信頼を置く情報の出どころは?」
「……いいだろう。これは他言無用だが――」
数日前、ガラテア様は突如として『前世の記憶』とやらを思い出しました。
この世界は『乙女ゲーム』の舞台で自分は『悪役令嬢』、王太子殿下は『攻略対象者』でロクサーヌさんは『ヒロイン』。既に『王太子ルート』に入っていて一週間後に自分は断罪される。そんな破滅の未来を。
既に断罪まで一週間しかないため挽回は不可能。かと言って破滅を免れたいからとロクサーヌさんへ頭を下げるなんて誇りが許さない。既にガラテア様は自分を裏切った婚約者に愛想を尽かしていて恋心はもはや微塵もない。
行き着いた対策が身代わりを用意し、生贄とするものだったのです。
「組織の娘を公爵令嬢ガラテアとして王太子殿下に断罪させるのが依頼ですね?」
「そのとおりだ」
「公爵令嬢ガラテアとして断罪された組織の娘はその後もそのように振る舞えと?」
「婚約破棄された娘など公爵家の恥だ。勘当した後にのたれ死のうが関知しない」
「では断罪を免れたご息女はいかがなさるおつもりで? 王太子殿下に知られては組織の者を差し出す意味がありません」
「公爵家の分家の娘として他の分家に嫁に出す」
このように保身のために組織を利用する貴族は後を絶ちません。ですが選り好みをして依頼を断れば運営するための資金が足りません。『乙女ゲーム』に対抗するとの理念に反しない限り、汚れ仕事だろうと受注するのが鉄則でした。
テレサさんは条件をすり合わせて公爵閣下と契約を結び、依頼成立となりました。
それから身代わりを仕立てるために本物のガラテア様とお会いになったそうですが……傲慢かつ尊大で、典型的な我儘な貴族の令嬢。ご機嫌を損ねないよう気を配るのにとても疲れたそうです。
そんなガラテア様に扮する役に選出されたのがこのわたくしです。命令を受けた瞬間にわたしは数字の番号ではない名前があてがわれました。役目を与えられた瞬間、わたしは初めて一個人になったのです。
そして、これからわたしは死ぬまでガラテアであり続けなければならないでしょう。
「背丈と年齢、顔立ちが一番近いから貴女を選出しましたが、公爵令嬢ガラテアになるには全く足りません」
「はい、覚悟は出来ています」
周りが誰も知らない人物として紛れ込むならそのままでも良いのですが、誰かに化ける場合はそうもいきません。変装しようが化粧しようが違和感はつきまといます。それを無くすには顔や身体といった土台からいじる必要があります。
かつてこの世界に降り立った『転生者』曰く、『整形』と呼ばれる技術。
悪役令嬢協会の『改造手術』により、わたくしは公爵令嬢ガラテアとなったのです。
そしてそれはこれまでの自分との別離を意味しました。
この日が来るのは分かっておりました。組織で育てられたわたくしはいつか『ヒロイン』か『悪役令嬢』か、または想像し得ない第三者なのか存じませんが、全く別の存在として派遣されるのが決まっていましたから。
寂しくない、と言えば嘘になります。同じように組織で育った友達とも二度と会えなくなりますし。許されたのはお別れの時にそれぞれの任務が終わったら自由に生きて幸せになろう、と励まし合うぐらいでした。
そうして断罪前日にわたくしは公爵家に派遣されました。ガラテア様の嗜好、思想は一通り頭に叩き込みましたし、寝る間も惜しんで身体に覚え込ませました。公爵閣下も一瞬だけ我が娘かと疑うほどには良い出来栄えだったようです。
「いかがでしょうか? 時間が許す限りでご要望に沿ったと自負いたしますが」
「うむ。短い期間だったわりには中々だ。明日さえ疑われなければそれで良い」
「恐縮です。それと念の為にお願いいたしますが、くれぐれもこの『悪役令嬢』として派遣された者には役目を終えるまでご無体な仕打ちをせぬように」
「案ずるな。今日一日ぐらいは客人として扱ってやる」
テレサさんがいなくなった後も公爵閣下はわたくしを丁重に扱いました。というよりは己の目でわたくしがガラテア様の代役が務まるか確かめたかったのでしょう。晩餐やその後デザートを頂いた時の語り合いからもわたしを窺うようでしたから。
案の定ですが公爵閣下以外の方々からは不評でした。お前ごときがお嬢様の真似をするな、との反感をひしひしと感じました。公爵夫人なんてわたしを気持ち悪いと思っているのが隠しきれていませんでしたし。
何より、嫌悪感をあらわにしてきたのは……ガラテア様ご本人でした。
「光栄に思いなさい。一日だろうとこのわたくしを演じられることを」
どうやらこのわたくしごときが自分に成り代わるのが気に食わないらしく、口を開けば嫌味と長々と喋られました。その中身はいかに自分が優れているか、他が取るに足らぬか、に集約されるので、正直記憶する価値もありません。
さすがにご本人に反感を抱くわけにもいかなかったので大人しく礼儀正しく対応していたら、どうも彼女の気に障ったらしく、なんと頭からワインを被せられました。そして笑顔を消した顔で迫られ、髪を引っ張り上げられました。
「苛つくわねアンタ。あの生意気な小娘みたい」
ガラテア様ご本人と関わったのはこの時が最初で最後でしたが、ご本人の人となりを知れたのは僥倖でした。ですがさすがに明日に差し障るので公爵閣下の許しを得て退出させていただき、その日は眠りについたのでした。
……しでかした彼女は逃げ延び、代わりにわたくしが犠牲になる。
その理不尽さは分かっていましたが、口には出せません。
それで『乙女ゲーム』の顛末を覆せるのなら本望ですから。
■■■
「……トーマス様はよほどお暇なのですね」
「ガラテアさんに会うために無理して時間を作ってるだけだって」
ところが、トーマス様はアレだけ現実を見せつけてやっても懲りませんでした。
彼は週に何回かは必ずわたくしを訪ねられ、子供達と遊んだり掃除を手伝ってくれたりしました。その間他愛のない話で盛り上がるので、いつも時間があっという間に過ぎ去っていきました。
「無理にでも連れて行く、とは仰らないのですね」
「まずガラテアさんが納得してくれるようにしなきゃいけないからね」
トーマス様は並々ならぬ決意を抱いているようでして、別れ際やならず者共に連れて行かれる際はとても真剣な表情で「僕が必ずガラテアさんを救うから」と仰います。不覚にもそんな彼が段々と格好いい、と思うようになってきました。
そんな日々を過ごすうちにわたくしの胸の中で温かいものが芽生えていき、同時に息苦しさも覚えていきました。振り回される自分が辛くて、悔しくて、嫌でたまりませんでした。わたくしはただ元公爵令嬢ガラテアであれれば充分なのに。
それが恋心なんだと自覚するのに、そう日数は要りませんでした。
そしてそれがわたくしにとっては綿で首を絞めるような辛い日々の始まりでした。
「余計なお世話って言われそうだけれど、もうガラテアさんが犠牲になる必要はないんだ。この地域……いや、王都全体の治安を改善する法案を通したからね」
「はい?」
「近日中にガラテアさんが恐れていた『ギャング』って組織は一斉に摘発する。治安維持に当面の間正規の部隊も駐留させるし、悲しまなくて良くなるんだ」
ある日、トーマス様は満面の笑顔でわたくしに吉報をもたらしました。わたくしは苦痛と屈辱から解放されるより、彼がとても嬉しそうだったことの方が嬉しかったです。
トーマス様がわたくしの手を取って踊ってその喜びを表現したもので、わたくしも自然と笑いました。本当に久しぶりで、自分でも驚いてしまいましたね。
彼の言った通り、本当に『ギャング』達は捕まりました。そして教会のある地域はとても平和になりました。昼間に子供達が外で遊んでいても攫われたりせず、女性が家にいても襲われることもなくなったのです。
後日トーマス様にお聞きすると、寝る間も惜しんで法案を練り上げ、多くの有力者に頭を下げて根回しして、反対する権力者をどうにか懐柔して、法案が可決した途端に過労で数日寝込んでしまったそうです。
「どうしてそこまで……」
「ガラテアさんのためだ。ここが安心して過ごせるようになったら、僕を選んでくれるようになるかも、って思ったらね」
「……わたくしにそんな資格はございません」
「資格なんて関係ない。僕にはガラテアさんが必要なんだ」
トーマス様は決意を秘めた眼差しをわたくしに向け、跪きました。
「どうかこの私と結婚してほしい。末永く愛し合い、支え合いたい」
トーマス様の告白はとても嬉しくて、そしてとても憎かったです。
だってそうでしょう? トーマス様はとても優しくて、励ましてくれて、大切に想ってくれて。けれどその相手はあくまで破滅した悲劇の令嬢ガラテアに対してであって、決してこのわたくしではないのだから……!
「わたしは、ガラテアじゃない……!」
頭の中が怒りでいっぱいになって、もう守秘義務とか頭から抜け落ちていました。
「わたしはガラテアの身代わりに破滅しただけで名前すら無いただの女! 貴方の愛する本物の公爵令嬢ガラテアはとっくの昔に他の男と結ばれたというのに、なんて滑稽だこと!」
「ガラテア、そのことなんだが……」
「王太子もあの小娘も本当に間抜けだこと。まんまと出し抜かれたことに気付きもしないで。貴方も要らぬ努力ご苦労様。どう? 騙された気分は?」
「いや、何か勘違いしてるようだけれど……」
「憎みなさいよ、嫌いなさいよ! 貴方を騙したこのわたくしを!」
「ガラテア!」
涙を流しながら叫び続けるわたくしを、トーマス様は優しく抱きしめてくださいました。トーマス様は頭を優しくなでてくれて、安心させるように語りかけてくれます。振りほどこうに力が出せませんでした。
「大丈夫、僕はあのガラテア嬢と貴女が別人だって気付いてたから」
「え……?」
最初、何を言われてるか分かりませんでした。
そして次第に冷静になっていくと、有り得ないとだけ思いました。
わたくしの演技が見破られるのも、正体を承知でわたくしに求婚したことも。
「一目惚れだったんだ。あの断罪が行われた夜会でガラテアを見て恋に落ちた」
「はぁ……!? だって、わたくしは完璧に公爵令嬢ガラテアだったでしょう!」
何を言っているんですかこの人は。
付け焼き刃だったことは認めるけれど、それでも初見で見抜ける下手な真似はしていなかった筈なのに。そもそもこの人だってあの男爵令嬢に惚れていたって聞いていたのに、その恋心はどこに行ったのでしょうか?
困惑するわたくしを余所に、トーマス様の眼差しはとても真剣でした。その瞳にはわたくしだけが映し出されています。
「言葉では言い表せないんだけど、ガラテア嬢とガラテアは全然違う。ガラテアの方が彼女よりも綺麗だし魅力的だし優しいし、何よりも輝いている」
「な、あ、あ……」
「だから調べた。ガラテア嬢が保身のためにあの組織の力を借りて身代わりを用意したことも、君が派遣されただけの犠牲者だとも。だからってそれは僕が止まる理由にはならない」
まさかそこまで真実にたどり着いているなんて。宰相のご子息であることを踏まえても甘く見ていました。いえ、むしろそこまで成し遂げた彼の恋心を称賛すべきなんでしょうか。
「わたくしは、両親が誰かも分からない、ただの小娘ですよ? この容姿だって依頼人の希望に沿って変えられたもので、何もかも偽者なんです」
「いや、ガラテアが目の前にいることは嘘偽り無いし、素敵なのも本当だ。何より、他の人のために奉仕する在り方は卑下しないでくれ」
トーマス様はわたくしの頬に手を寄せました。そして軽く触れます。その指先は外気にさらされたためかやや冷たかったですが、次第に温かみを感じてきました。
「僕は君が好きだ。君がほしい。嫌かな?」
「嫌だなんて、そんな……」
「なら、今度こそ一緒に行こう。僕はガラテアを幸せにしたい」
「トーマス様……」
自然とトーマス様のお顔がわたくしに近づきます。わたくしももう彼を振りほどこうなんて思いもしませんでした。
そして交わされた口付けは、わたくしに初めて幸福を与えてくれました。
「これからは何て呼べばいいかな?」
「ガラテア、で構いません。わたくしはガラテアであったからトーマス様と出会えたようなものですから」
「そうか……分かった。これからよろしくね、ガラテア」
「……はい」
そうして差し出された手を、わたくしは今度こそ拒みませんでした。
■■■
近い将来宰相となること間違いなし、と讃えられたトーマス様がご結婚なさった、との吉報が社交界に伝わったのはそれから少し後のことでした。そしてそのお相手が破滅した元公爵令嬢ガラテアだと判明し、話題を独占しました。
「ご機嫌麗しゅう、王太子殿下、王太子妃殿下」
「あ、ああ。トーマスか。まさかお前が彼女と結婚するとはな……」
「皆からも酔狂だと言われていますが、私は彼女と結ばれたこと、添い遂げられたことを神に感謝しています」
「そ、そうか……」
王太子殿下に断罪されたわたくしが相手とのことで挙式は身内だけのささやかなものでしたし、周囲の反対を押し切ってのものだったため、トーマス様……いえ、トーマスは奇異なモノを見る目を向けられています。
しかしトーマスはこれでもかと言うほどわたくしを愛してくださります。そして仲睦まじさを公の場でも隠そうとせず、いかにわたくしが可愛いか、魅力的かを自慢気に語るのです。恥ずかしさのあまりに穴を掘って埋まりたくなりますよ。
一方、願いが叶って想い人と結ばれた王太子殿下ですが、順風満帆とはいかないようです。というのもロクサーヌさんの王太子妃教育の進捗が芳しくなく、また外交の場で白い目で見られることで、ようやくやってしまったことに気付いたようです。
そして当のロクサーヌさんもかつての初々しさや素朴さが鳴りを潜め、疲れが全面に出ていました。その顔には「こんな筈じゃなかったのに」とありありと書いています。まあ、真実の愛とやらがあるんですし、きっと乗り越えられるでしょう。
「ありえないありえない……。エンディングにも後日談にも書いてなかったじゃないの……」
こんなエンディングを迎えてもう道標の無いヒロインの呟きを理解して受け止められる人はいませんよ。
「こんばんは、伯爵」
「こ、これはこれは、宰相閣下」
「ご夫人も元気そうで何よりです。お子さんは順調に育っていますか?」
「……ええ」
そして、本物のガラテア様は公爵家の分家筋の娘として別の分家である伯爵家に嫁ぎました。公には公爵令嬢ガラテアは王太子の怒りを買って廃嫡されているため、今のガラテア様は元子爵令嬢の伯爵夫人に過ぎません。
しかしどうもガラテア様はかつての栄光が忘れられないようで、伯爵家は苦労が絶えないそうですね。
まずガラテア様は自分が公爵令嬢ガラテアだと悟られないよう容姿を変えさせられました。それから彼女の好みも自重して衣装や宝飾品の数々も控えめにせざるを得ませんでした。そして、目立たぬよう大人しく振る舞わなければいけません。
本当なら領地で隠居していれば普通に過ごせたのですが、どうしても社交界を忘れられない彼女は公爵令嬢ガラテアらしさを封じてでも表舞台に出たがりました。その妥協が苛立ちの要因になっているのでしょう。
伯爵閣下は誠実で優秀な方だけに、ガラテア様を押し付けられたことが運の尽きにならねばいいのですが……。まあ、きっと大丈夫でしょう。ガラテア様は選ばれた人間だそうですからね。逆境も跳ね除けてくださるでしょう。
「ラファエラ様。お顔が優れないようですが、大丈夫でしょうか?」
「え、ええ……」
ラファエラと名を変えた元ガラテア様を案じたわたくしに、彼女は決して悔しさや憎しみを表には出しませんでした。かつて自分が押し付けた悪役令嬢ガラテアが返り咲くなんて想像もしてなかったでしょうね。わずかに裾を握る拳が震えていました。
けれど、わたくしは別に元ガラテア様に「ざまぁみろ!」とかは思いませんでした。自分でも意外だったのですが、元ガラテア様が不満だろうと幸せだろうと、もうどうでも良かったのです。
「ありがとうございます、ラファエラ様。わたくし、今とっても幸せです」
「……っ!」
公爵令嬢ガラテアではなく、名も無き身代わりの娘でもない、わたくしを愛してくださる方と出会えました。それだけは彼女に感謝しなければいけませんね。
「さあ、行こうか愛しの妻よ」
「ええ、わたくしの旦那様」
わたくしとトーマス様は手を携えて他の方への挨拶に向かいました。
その時元ガラテア様が一体何を思ったのかは知る由もありませんし、知る必要もありません。彼女はガラテアであることを手放し、わたくしはガラテアでなかろうと手を差し伸べてもらえましたので、わたくしは彼女とはもう無縁でしょう。
「愛しているよガラテア」
「嬉しいですトーマス」
こうして宰相夫妻は幸せな家庭を築き、ずっと仲睦まじく暮らしましたとさ。
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