1話 静寂と太陽
静寂とは、その状態のみならず、主観的感情であって、初めて作り上げられるものである。
カイは、目を閉じてから、半日が経過しているが、冷たく、硬い椅子に腰かけたまま、じっと動かなかった。
ここは、天界。
カイの腰かけるその部屋は広く、冷たく、硬く、そして青白く光っていた。
コツコツコツ...。
遠くから、何者かがやってくる。その足音は、一定に、迷いなく、カイのもとへやってくるものであった。
それでもカイは動かない。
コツ。と足音が止まった。
足音の余音が響き渡る。しん、とした空気は止まっているかのように感じられた。
まず、耳から、カイは神経と感覚を取り戻すかのように、ゆっくりと耳をひそめた。次に、重たく閉ざされた目をゆっくりと持ち上げるのであった。
景色は、相も変わらず、青白く、冷たく、そして硬い。カイは一つ瞬きをした。
「主か。」カイは口を開いた。
「如何にも。」主はほほ笑んだ。続けて主は、
「下界に降り立つときが来たようだ。カイよ。いざ飛び立つがよい。」といった。
カイは。口をつぐんだまま、一つ、瞬きをした。
「そうか。」カイはつぶやいた。
「今回は、大きな仕事を任せよう。」主はいう。
「今回も何も、前回は1000年も前のことではないか、記憶などとうに消えた。」カイは、少し眉をひそめながら答える。
「カイよ。一つ約束をしたい。今回の命はお前の命に関わる可能性がある。それでもなお、人間の為に我が身を差し出す事は出来るか。」
主は、表情を変えず、淡々とした口調であった。
カイはまた、瞬きをした。やや、口角を上げ、「約束はできない。と言ったら?」と主に問いかけた。
「相変わらずだな。まあ、いいだろう。いずれ、わかる。」
主は、呆れた顔だった。
主は、突然、ぬるりとした気味の悪いほどの満面の笑みを浮かべ、まるで魔の力を取り戻すかのように、両手を上に上げた。そして、
「約束は絶対だ!」と言い放った。
次の瞬間、その部屋が、主の得た魔法の力の強い光に反射され、全体が鋭く光った。
カイは思わず眩しさで目を覆った。
一方で、主は、強い光に包まれたカイの消えゆく様を満面の笑みの余韻を残した表情のまま、
ただ、見つめていた。
すべてが光に包まれ、カイの身体を光が覆う。ふっと、光が消えたかと思うと、そこに、カイの姿は無かった。
...
しん、と静寂が走った。主はまた、「約束は、絶対だ。」独りと呟くのであった。
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青い空。暖かい太陽の日差しが、ユキを照らす。優しい風。鳥のさえずりは、現代には珍しいほどの、おだやかな時を経過させていた。
窓から、暖かな日差しが差す。ユキは静かに目を覚ました。
身体を起こすと、ずっしりとした重さの疲れと、だるさ、鈍い身体の痛みを感じた。
...やってしまったか。とユキは思った。
ユキが横たわっていたリビングのソファ。床にはあちらこちらに昨晩読み直していた本が煩雑に積み重なっており、ソファの前にある机には、赤ワインのボトルと、注いだであろうグラスが置かれていた。
ユキは右手の手のひらで、額を押さえた。
もうひと眠りしたい、という欲望が、ユキの頭をよぎるが、ちらりとあたりを見回した部屋の光景が許せず、意を決して腰を上げた。
窓の外は暖かな日差し。呼ばれるようにユキは窓へと向かった。
窓の近くまで行くと、暖かな日差しでさえも、ユキの今の身体の状態にとっては、刺激が強く、思わず両手のひらで、太陽を隠した。ふぅ。と一呼吸置き、眩しさで目を少し閉じたまま、窓を開けた。
ざぁ、という優しい風にカーテンがふわりと踊る。風がユキの髪をひらひらと舞わせ、思わず身体ごと持っていかれそうになる。重ねて鳥がさえずり、誘惑してくるようだ。
ユキは、朝が好きである。
やはり、眩しい。
目を擦り、ユキは、踵を返した。
窓より真っ直ぐ進むと、先ほどまでユキが寝ていたソファを通りすぎ、玄関へと向かう。途中、床に転がっていた、本の山を一つ、蹴とばしてしまった。
「イタ。」と思わず声が出る。本は、向こう側へ雪崩れた。はぁとため息をついた。
ユキは歩いた。歩いて外へ出た。ユキが住むのは、都内。アパート2階。家賃7万3千。1Kだ。
階段を下り、1階へ着くと、ポストへ向かった。ポストは、アパート入口に入って、オートロックされた内部にある。
ダイヤルを回すと、ポストがガチャ、と開いた。新聞をとる。これがユキの日課である。
新聞をとると、ポストの中には、まだ、何かが入っていた。
――――いつもと違う。そんな感じだ。
何やら白い、横型の、洋風の封筒であった。
何かの招待状か、、、?
にしては、宛先など、どこにも書かれていない。糊付けされていたため、すぐに開くことはできなかった。
仕方ない。部屋に戻ろう。ユキは、踵を返し、部屋へと戻った。
―――――――これが、物語の始まりである。
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ユキはソファへと腰かけた。じっと、封筒を見つめる。宛先になんの心当たりもない。
ユキは立ち上がって、カッターナイフを取りに歩いた。無造作に置かれた本の山たちに、少し、ストレスを感じた。
「さて、と。」
封筒を片手にもち、もう片方の手でカッターナイフの刃を封筒の口に沿わせ、封を切った。
封の中には、2つに折りたたまれた手紙が1枚、入っていた。
なぜか心臓がドキドキしていた。ごくりと、唾をのんだ。
手紙を取り出し、開いた。
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"親愛なる姫君 ユキ殿
拝啓 明日お迎えに上がります。 敬具
天界の使い カイ”
...。
いたずらか。にしては、よく出来すぎている。封筒も、手紙も、安っぽい質のものではないと、一目でわかる。いや、むしろこの世に一枚しかないのではないか、というくらい上質である。
そもそも、なぜ、私の名前を知っているのだろう。
勿論、自分が姫君であった覚えは一度もない。
自分で言うのも気が引けるが、幸せなことに、良い両親、そして一人の兄に恵まれ、確実に可愛がられて育った。
父は著名なほどではないが、起業家であり、それなりに事業は成功していたため、そこそこに裕福な家庭だった。
詳しくは知らないが、母は父と同じ大学の同級生であり、そこで出会ったという。
ユキが物心つく頃には、2階建ての大きな一軒家に住んでおり、すでに自分専用の部屋があった。
母は専業主婦で、毎日のように会話をし、楽しい日常生活を送っていた。
今思えば、何不自由ない生活の中、勉学は勿論のこと、ユキ自身の将来や、幸せな生き方について、沢山のヒントをもらった。
何のプレッシャーもなく、兄妹そろって上級レベルの高校を受験し合格し、(兄は首席入学)学びたい分野への見識を広げ、一流大学を卒業した。
現在、ユキ。23歳。社会人である。
両親には感謝してもしきれない。
ユキが大学を卒業して、一人暮らしがしたい、といった時も、
父は、
「これから社会へ出て、沢山の人たちと出会い、翻弄されていくだろう。それは、想像以上に過酷で、受け入れがたい出来事もあるだろう。ユキ、お前は、迷ったとき、自分で考える術や、主観的に後悔のない選択ができる人間だと思っている。これから先、父さんや母さんはそんなお前を見守りたいと思う。何かあったらいつでも連絡をよこしなさい。」といって笑って送り出してくれた。
母は、どんな時でも父親を立てつつ、影から応援してくれた。
時には、父と兄に内緒で私を連れ出し、食事をしてくれたこともあった。
ユキが、二十歳になり、誕生祝いをしてくれた時の話は今でも覚えている。
「子供たちに捧げる愛とは、どんな優しさであっても、結果的に依存や束縛になってはならない。
産まれてから、確かに親と子、という関係性ではあるの。でも、へその緒が離れた以上、私とあなたは他人でもあるのよ。」と。続けて母は、
「どんなに愛しい子が、危険な目に遭遇したとしても、命の危険がない限りは、直ぐに助けの手を差し伸べてはならないものよ。それがどんなに辛いことだとしても、それは自分のエゴでしかない。」
「女は家庭に花を飾るだけじゃないの。強く生きなきゃ。あなたも守るべきものができたとき、きっと、わかるわ。」
―――――守る、べきもの。
ユキは、当時、大学生活が新鮮で、目まぐるしく、必死で、自分のことに夢中であったためか、母の言葉は漠然としていて、自分にとっての守るべき対象とは何なのか、全く想像がつかなかった。
父と母の言葉は、すべて覚えているわけではないが、何気ない日常生活の中で急に思い出されたり、さらには、当時理解できなかったことが、今になって痛いほど理解できたりすることがたくさんあった。
おそらく、潜在的な意識の中でユキの心を大いに成長させてのではなかろうか。
つまるところ、ユキの長所である自己肯定感の高さや、頭の良さは、両親からの贈り物といっても過言ではない。
ユキは、手に持っていた手紙に目をやる。
姫君とは何だ。日本に存在するのであろうか。
明日とは一体、何時で、どこなんだ。
いや、待てよ。
そもそも内容が一方的すぎるのではないか。最悪、ストーカーという可能性もある。
想像すると背筋が凍った。
ユキは頭をぐるぐると回転させ始めた。
自分の体内にGPSが付いていない限り、居場所はわからないだろう。
ここにいちゃいけない。とにかく、逃げよう。
ユキは本能的にそう思った。
鞄を取り出し、スマートフォンと財布を突っ込んだ。
身支度を整え、自宅を飛び出す。
実家に迷惑はかけられない。一人で生きると強く誓ったんだ。
ひとまず一週間。
シュウヤの家に行こう。
ユキは決心し、足早に自宅を後にした。