6:《柩》のナコト(2)
◆
――競技滑翔の代表箒手? 落ちこぼれのこのわたしが?
毒薬を作る手を止めて、わたしは考える。
当時のわたしが競技滑翔について知っていることはそう多くはなかった。
競技用の箒とローブで飛び回りながら、ときにその速さを競い、ときに魔法の〝矢〟や〝槍〟を撃ち合う。
わたしが競技滑翔について知っていることといえばその程度で、実際に目にしたのもビビの鉱石テレビに映し出されていたものを見たのが初めてだった。
画面の中を縦横無尽に飛び回り、紫の航跡や青白い理力の花火を打ち上げる箒手たちを見てわたしが抱いたのは、多くの若い魔女たちのような憧憬ではなくて、ただただ「危ないなあ」という感想だった。
実際に、その頃の競技滑翔というものはひどく危険なスポーツだった。
競技と言えば聞こえはいいけれど、怪我人が出るのは日常茶飯事だったし、巡り合わせの悪いときには死人まで出た。人間は高いところから落ちれば死ぬ。これは誰にもどうすることも出来ない普遍的な事実だ。
飛びながらばかすか魔法なんか撃ち合えばそうなることは誰にだってわかるのに、どうして彼女たちがそんな危険な行為に熱狂するのか、当時のわたしは全く理解できないでいた。
けれど、ナコト先輩は言ったのだ。
わたしには才能があると。
彼女と共に飛ぶべきだと。
正直なところ半信半疑だったし、彼女の見込み違いかもしれないとも思っていた。
でも、わたしにとって誰かに強く必要とされるのは本当に初めての経験で、それは心を強く揺さぶるものだった。
競技滑翔がどういうものかわたしにはわからないけれど、わたしに本当に才能なんてものがあるのなら、それを試してみたいという気持ちもあった。
わたしはしばらく考えて、正面に座るわたしの聡明な友人が、とびきり冴えたアドバイスをしてくれることを期待して尋ねた。
「アリソンはどう思うの?」
アリソンは浮かない顔で顎に手を当て、ひとしきり考えるそぶりをしたあと、小さく口を開いた。
「ニナが決めることよ。だって、自分のことじゃない」
いきなり出てきたあまりの正論に、わたしは思わず閉口してしまう。
そういう言葉が欲しかったわけではない。
それからアリソンはわたしから目をそらして、注意していないと聞き落としそうな、か細い声で言葉を紡いだ。
「けど、わたしの……わたしの気持ちとしては、ニナにはあまり危ないことはしてほしくない、かな。競技滑翔の選手なんて、とても名誉なことだとは思うけど……それでもわたしは今日みたいな気持ちにはなりたくない。ニナが死んじゃうんじゃないか、そんなふうに心配したくないよ」
語尾が消え入りそうな調子でそう言ったあと、また少し考え込むような沈黙を挟んで、アリソンは言葉を続ける。
「でも、最終的にはやっぱりニナが決めるべきだと思う。もしニナがやりたいんだったら、わたし、怖いけど応援するよ。代表箒手の友達なんだって、みんなに自慢しちゃうかも」
ああ、嘘だ。
きっとこの子はわたしのことを本当に心配していて、けれどわたしに負い目を感じさせたくなくてそう言っている。その証拠にアリソンの顔にはこわばった笑いが貼り付いていて、なんだか痛そうに見えた。
「……そっか。うん、そうだね。ありがとう、アリソン」
「どういたしまして、ニナ」
わたしはできるだけ彼女の気遣いに気づいていない風を装って答える。それが彼女の友情に対する礼儀だと思ったからだ。
わたしは、煙の向こうで輝くはちみつ色の髪の女の子が、わたしの友人でいてくれていることに心から感謝した。
それから、少しだけ浮かれてしまっていた自分を恥じる。もう少しだけ、ナコト先輩からの誘いについて、よく考えるべきだと思った。場合によっては、先輩の顔に泥を塗ったとしても、断るべきかもしれない。
その時、ナコト先輩はどんな顔をするのだろうか。
◆
「ニナ・ヒールド。今日の放課後、僕の研究室に来るように」
つつがなく終わったはずの三限目の最後、ミスター・コーシャーソルトは言った。もしかして、何かへまをしたのだろうかとも思ったけれど、彼の表情からは何も読み取れなかった。
後ろからアリソンがわたしに耳打ちをする。
「ニナ、気をつけてね。あんまり気を許しちゃだめよ」
実のところ、コーシャーソルト先生の人気はあまりなかった。
一部の生徒からは男というだけで忌避され、一部の生徒からは珍獣扱いされていた。アリソンなんかは彼のことをほとんど蛮族だと見なしていて、本気で毛嫌いしているほどだった。
「きっと大した用事じゃないから大丈夫だよ」
わたしはコーシャーソルト氏に同情しつつ、アリソンにそう言った。
放課後、わたしは薬学部棟の四階にある研究室の前に立っていた。
重々しい雰囲気のドアに、小さな金の板が打ち付けられていて『フロイド・C・コーシャーソルト』と文字が刻まれている。
二年生になってから何度も開けたことがあるそのドアをノックすると、ややあって中から「どうぞ」という声がした。
わたしが扉を開けると、ミスター・コーシャーソルトは書類や魔導書の山の中に埋もれるように座っていた。もう夕方だというのに、寝癖や無精髭は先の授業のときのままだ。部屋にはもやが掛かったように大量の煙が漂っていて、わたしは思わず声に出して言ってしまう。
「くさい」
その発生源はコーシャーソルト氏ご本人で、もっと言えば彼の吸う煙草の臭いだった。かたわらの灰皿には山と積まれた吸い殻がそびえ立っていて、その標高を誇示していた。
「こんなだから、この先生は生徒たちに嫌われるのだ」と、わたしは思う。思春期の女の子は、臭くて不衛生で毛むくじゃらなものが普遍的に大嫌いなのだ。
わたしは研究室を大股でずんずん縦断し、換気のために窓を開ける。外の新鮮な空気を肺に吸い込んでから、もう一度言った。
「先生、くさいです」
「ひどいなきみは」
心外そうに、けれどまったく応えていない様子で言葉を返すミスター・コーシャーソルトに、わたしは振り返る。
「他の子たちはもっとひどいこと思ってますよ、言わないだけです」
言いながら、わたしは本や資料で徹底的に散らかった室内を見渡す。研究室はほとんど物盗りに遭ったような状態だった。
生徒たちの口さがない罵詈雑言を本人に聞かせて年頃の女の子の無慈悲さを思い知らせてやろうかと思ったけれど、それは流石にあんまりだ。
結局、わたしは彼にやんわりと伝えることにした。
「『これだから男の魔女』は、って」
「ミス・ヒールド、〝男の魔女〟は差別的表現だ」
わたしの発言を、コーシャーソルト氏がわざとらしくしかめ面を作って咎める。わたしは少し考えてから、発言を訂正した。
「……ええと、『これだからコーシャーソルト先生は』」
「それでよろしい」
コーシャーソルト氏は満足そうな様子で次の煙草に火をつけ、口から大きな煙の輪っかを吐き出す。
個人的には、この喫煙習慣を除けば、コーシャーソルト氏は比較的いい先生だと思っていた。
授業でわからないところがあれば面倒くさそうな顔をしながらも丁寧に教えてくれたし、自分の立場を無闇に振りかざすこともしなかった。暇があるときに研究室に行けば、気まぐれに様々な興味深い話をしてくれた。彼は特に魔法生物に詳しくて、機嫌が良ければ紅茶まで出してくれた。
わたしはその大雑把な淹れかたをした紅茶を飲みながら彼の話を聞くのが結構好きで、アリソンたちが言うほど悪い先生ではないのではないかと常々思っていた。もしかしたら、わたしが幼少期を男兄弟と過ごしていたことが多少の免疫として機能していたのかもしれない。
「さて、ミス・ヒールド。呼び出してすまなかったね。まあ座って」
座ることを促された椅子にはやっぱり書類の束が先客として乗っかっていて、わたしはそれらの書類をどこかに避けさせることから始めなければならなかった。
少し迷って、彼らには床に座ってもらうことにする。席を取られた紙束が、不服そうにわたしを見つめている気がした。
わたしが座ったのを確認すると、コーシャーソルト氏は神妙な顔をして話を始めた。
あまりいい話ではなさそうだ、とわたしは思った。
「三限目の前の昼休み、ランチに行こうと歩いていたら、ミス・ロウマイヤーと鉢合わせたんだ。彼女、深刻そうな顔をしててね、まあ、彼女はいつだって深刻そうな顔をしているんだけれど……今日は様子が少し違った」
そこまで言って、彼はまた煙を吐き出した。コーシャーソルト氏が吐いた煙が粘土のように自在に形を変え、中空に小さな人影を形作る。箒に乗った魔女だ。
「それで少し話を聞いてみたんだけれど、きみ、ミス・ロウマイヤーの授業で派手にやらかしたそうじゃないか」
煙で出来た魔女が不意にバランスを崩したかと思うと、墜落して消える。
――なるほど、そうきたか。
二限目の事故は、わたしが思っていたよりも大ごとだったのかもしれない。わたしは反省と羞恥で小さくなりながら答える。
「ええと……はい。そうです」
「ロウマイヤー先生はいたく落ち込んでいてね。『あのとき何もできなかった私に教師の資格はない』なんてことを言っていた。彼女を慰めているうちに……話はきみのことに移った。きみたちは誤解しているかもしれないけれど、彼女はあれで愛情深い教師だよ」
わたしはうなずきながら、あのときわたしを抱きしめながら泣いていたミス・ロウマイヤーの顔を思い浮かべる。
きっと、あのことがなければミスター・コーシャーソルトの言葉は信じがたいものだっただろう。
彼女の厳しさや、偏屈とも取れる細かさは、ひとえに生徒の安全を慮ってのことなのだろうと、その時は素直に思えた。
「だいぶきみのことを目にかけているみたいだったよ、彼女。受け持ちの生徒の中でも一番の努力家だと。それには僕も同感。けれど――」
寝ぐせ頭をぼりぼり掻きながら、ミスター・コーシャーソルトは次の煙草にマッチで火をつける。言葉を選んでいるようだった。
それからややあって、言いにくそうに口を開いた。これまでの話は前置きで、いまから言うことが本題なのだ。
言いにくそうにする彼の様子から、「あまりいい話ではなさそうだ」というのは間違いで、実際のところは「とても悪い話」だということがわかった。
重々しく開かれたミスター・コーシャーソルトの口から思いがけない単語が聞こえて、わたしは言葉を失ってしまう。
「――けれど、きみには実力が決定的に足りていない。彼女の見立てではね。それで、ミス・ロウマイヤーは、きみを破門すべきかもしれないと考えている。きみがもっと危ない目に遭う前に」