23:《劔》のクリスティナ(4)
◆
ナコト先輩は、わたしの返答に小さくうなずく。
魔女の決闘、その前日。最後の特訓の夜のこと。青暗い〝慈悲の森〟、杉の木の古株に彼女は腰掛けていて、絵画みたいに微笑んでいた。
「そう、あなたの〝強み〟のひとつは、その化け物箒、《ヘルター・スケルター》の性能。その子の持つ加速性能なら、ニナがクリスの上を取れるような状況を作り出せるかもしれない。例えば、離陸の直後なんかにね」
飛行箒のうち、加速性能と旋回性能を重視したもの――ショート・ブルームという枠組みにあってなお、《ヘルター・スケルター》のそれは奇形的とも言えるほど突出している。
《鴉羽》のアカンサの技術力の賜物だと言えば聞こえはいいけれど、それは彼女の長い長い箒作りの探求の途上においてうっかり発露した狂気みたいなものだ。およそ人間が乗ることを考慮に入れていないその性能の特異性は、ほとんど素人のわたしでも十分に理解できるくらいには骨身に染みていた。加速よりも最高速度を重視したロング・ブルームと比べれば、なおさらのことだ。
ダレット先輩の長箒――《デイジー・カッター》の性能がどのようなものであれ、彼女の箒を設計した人物が正気を保ったまともな人間ならば、こと離陸戦に限って言えば競り負けることはありえない。
「さらに付け加えるならば……ニナの優位性は、《ヘルター・スケルター》を含めたあなた自身の情報よ。あなたはクリスがどう動くのかをある程度予想することができる。彼女は有名人だし、何よりあなたには私がついているから。……けれどクリスにとって、あなたの実力は全くの未知。何をしてくるかわからない存在なのよ」
「……なるほど」
わたしはうなずく。
言ってしまえば、場代を支払い席に着き、配られた手札をわたしだけが伏せている状況だ。さらに言えば、ダレット先輩のほうは一撃でももらえば即座に破産。
わたしと彼女の実力に大きな差があるといえど、条件としてはわたしの圧倒的優位、法外に有利な状況だと言えた。
伏せられた切り札と、開示された相手の手札。
それがわたしたちの作戦の根幹をなす最大の〝強み〟だというわけだ。
ナコト先輩は、確認するようにもう一度うなずいてから言った。
「だからまずは、彼女の戦いの枕を潰す。決闘開始直後、大勢が決してしまわぬうちに、彼女があなたを理解しきってしまわぬうちに」
理屈はなんとなくわかる。
ダレット先輩にペースを完全に掴まれないように、出鼻をくじく必要があるのだろう。ナコト先輩の説明をわたしはそういうふうに理解して、けれどそうするためにはひとつの大きな問題があった。先の訓練でナコト先輩自身が言い放った言葉とも、矛盾するように思えた。
悩んだあげく、わたしはおずおずと手を挙げて言う。
「……でも、わたしは〝矢〟を――」
「そう、撃てない。あなたの集中力が、箒や帆の制御にこそぎ取られているから。そうよね?」
わたしは恥を忍んでこくりとうなずく。いくら状況が優位でも、わたしの手札には役がない。戦いの端緒、枕を叩くための手段をわたしは持ち合わせていなかったし、それを最初から諦めるべきだと言ったのはナコト先輩だ。
そんなわたしの戸惑いを楽しむように、鉄棺の魔女はにやりと笑う。
「――逆に言えば、〝矢〟の激発に集中することさえできれば、撃てる」
「それは、そうですけど」
「だったら、それで十分。ねえニナ、あるのよ。箒を操作する必要がなく、帆を開く必要もないタイミングが。……ほんの一瞬だけれど」
得意気に、少女が秘密を打ち明けるように、魔女はささやく。
「ねえニナ、いつだと思う? それは――」
◆
殺人箒が絶叫とともにわたしを空へと打ち上げる。
風を裂き、死者の魂を掃き散らして、全速力で。
ダレット先輩を置き去りに、耳を打ち頬を叩く空気の壁を突き破って、《ヘルター・スケルター》は半狂乱で上昇し、
そして、静止する。
それは、ジャンプの、到達点。
運動エネルギーのゼロ地点。
本来からすれば、最も無防備になる瞬間だ。
箒は波から宙に浮き、足場を失う。
上昇も落下も死に絶え、帆は受けるべき風を失う。
操舵も帆走も不可能な、刹那の空白。
翻せばそれは、箒を操作する必要がなく帆を開く必要もない、ごく一瞬の間隙。
つかの間の無重力の中、わたしは《尾羽根》を杖帯から抜き打ち、呪文を詠唱する。
「【Uterino al Koro】」
想像するのは、流体となった理力が身体を走る感覚。
「【Koro al Fingroj!】」
のんびり狙っている暇はない。発理と激発にのみ集中する。
「【Fingroj al Vagon!】」
多次元的に織り込まれた術理の塊が皮下を這い、杖先に青白く光る棘子を形成する。
「【Aktivigo! La sago de Lumo!】」
わたしは上体を反らし、振り向きざまに〝矢〟を射掛ける。
直下を飛ぶダレット先輩に向けて。
「――【Fajro!】」
激発の呪文とともに、小さな理力の光弾が空をつんざき走る。
狙いはでたらめで、威力も貧弱。
『当たるもんかよ! そんな体勢で撃った〝矢〟が!』
案の定、めくら撃ちの矢は暗銀の魔女から大きく外れた位置に飛んでいく。
けれど、それでいい。
仕留める必要はないし、わたしには彼女を仕留められる技量もなかった。
ただ、撃てると思わせることが重要だった。
戦いの枕を叩き、初動での有利を握る。
わたしが戦闘中に〝矢〟を撃てると思わせ、彼女の警戒を引き出す。
しかるべき順番で、しかるべき手札を切っていく。わたしの強みを彼女に提示していく。
わたしに出来ることは、それだけだ。
重力がわたしのローブの裾を引き、思い出したように身体が落下を始める。
わたしはそのまま落下に身を任せ、次に乗るべき〝焚き火〟を目で拾う。
楼閣型、上向きの波。
帆は開かずに、体重の移動と反射鉱石のエッジの切り返しを駆使してそれを目指す。
奪い取った高度と速度の優勢を、帆走による減速で取り返されないように。
着水。
ふたたび粒子の波に噛みついた《ヘルター・スケルター》が吠えたてる。
切り裂かれた粒子が、紫の波の穂を翼のように広げて飛沫く。
迅速に、過不足のないように。暴れ狂う野馬の手綱を引くように。
わたしは《ヘルター・スケルター》の神経質な要求に、全力で答える。柄を繰り、なだめ、すかし、抑制する。
更なる跳躍。
背と腹に力を込め、空を切り裂き飛び上がる。噛み締めた奥歯がぎりりと鳴った。
跳躍の最高点で、もう一度術理を展開する。
腹から心臓へ、心臓から指先へ、指先から御杖へ。
理力を廻し、こね上げ、制御し、流す。
「【Aktivigo!】 【sago de】――」
〝矢〟を形成し、振り返り、そして、驚愕に目を開く。
――どこにもいない。
振り返った眼下にいるはずの、ダレット先輩の姿がそこにはなかった。
行き場を失った理力が霧散する。
『……まずはお見事、ってところだな』
風切り音のなか、山びこ石がダレット先輩の声を拾う。
高度優勢を取られたはずの彼女の声色に焦りはなかった。むしろその逆、状況を楽しんでいるような喜色を孕んだ声。
それはまるで、取るに足らないお使いの最中に、思いがけず大金を拾った時のような。
否、それよりも。
わたしは混乱した頭を立て直す。
――ダレット先輩は、どこだ?
牽制の矢に対して予測回避の箒動を取ったダレット先輩の上昇スピードは鈍ったはずで、そうであるならば、少なくともわたしより下にはいるはずだ。
上を取ったわたしが振り返りさえすれば、彼女はそこにいる。そうでないとおかしいのだ。
『けどな、ひとつ教えておいてやる……牽制ってのは、こうやるんだ』
わたしは首を巡らせて、眼下の箒影を探す。
地表を彩るマーケットパラソルの、とりどりの色彩が索敵の邪魔をする。
嫌な予感が、足もとから蟻のように這い上がってくる。
――どこだ、どこだ、どこだ。
幾度眼下を見渡せど、そこにあるはずのリンドウの箒影は見当たらず、広がるのは朽ちた建造物の群れ。
あとは屋台のマーケットパラソルと、その合間に見える群衆ばかりで、彼らはみな申し合わせたように視線を一点に注いでいた。
『【Aktivigo, Forta Lanco de Lumo.】』
視線を、一点に。
旧市街大聖堂、その鐘楼の陰に。
『――【Rivereto!】』
次の瞬間、くわぁぁぁぁぁぁん、という盛大な金属音とともに。
廃聖堂の鐘楼、その大鐘が、飛んだ。
悲鳴を上げる暇はなかった。
わたしは反射的に帆を展開し、急制動をかける。
同時に身体を左にひねり込み、射線上から軸をずらす。
大人の身長をゆうに超える大きさの青銅製の鐘が紫炎を上げ、一瞬後にわたしがいるはずだった場所めがけてすっ飛んでくる。
――つまり、彼女は。
無理な制動のお釣りをもらって崩れた体勢を立て直しながら、わたしは思考する。
つまり彼女は、わたしの〝矢〟に対して回避箒動を取りながら聖堂の陰に隠れるように飛び、魔法の〝槍〟で大鐘を撃ち出したのだ。
冗談にもほどがある。やっていることがめちゃくちゃだ。
直撃すればぺちゃんこのヒキガエルになるようなそれを、どこの世界の誰が〝牽制〟なんて呼ぶ?
呆れに似た驚愕、避けられたことへの安堵。
けれどその一瞬が、思考の空白を作った。
『【Aktivigo. Pafita pafilon, La sago de Lumo.】――』
ぐわんぐわんと鈍く風を切りながら、紫の炎を上げて飛ぶ、大鐘。
「……航跡!」
青銅の大質量。
巨大なシルエットが作る、その死角。
ぴったりと張り付くようにして、ダレット先輩が。
首筋の皮膚が、瞬時にあわだつ。
『――【Rivereto!】』
「――【Fermi!】」
出来る限りの最短速度で帆を畳み、急加速。
目いっぱいの力で箒の柄を押し込む。
ぐん、と高度を下げた直後、左肩に衝撃が走る。
『牽制ってのは! 本命を! 当てるためのもんなんだよ!』
大きな金槌で力いっぱいに殴られたような痛み。
訓練とは違う、本物の攻性魔術。
理力の散弾が、わたしの肩口に食い込む。
「……ぐううっ!」
飛び出そうになる悲鳴を、唇を噛んで押し殺す。
すんでのところで直撃は避けたものの、バランスを崩して一気に高度を落としたわたしのすぐ横を、ダレット先輩の長箒が通り抜ける。
『さあさあさあ、これからが本番だ! とくと御覧じろ――』
空の階を駆け上がるリンドウの影は、太陽の逆光のなか、高らかに咆吼する。
『――これが! あたしの《デイジー・カッター》だ!』