21:《劔》のクリスティナ(2)
決闘の時間が近づくにつれ、お祭り騒ぎの雑踏は密度を増してゆく。
太陽は空高く昇り、そろそろてっぺんに届こうかというような頃合いだった。
六月の空は夏の盛りにはまだ遠かったけれど、汗がじわりとにじむ程度には暖かかった。
「本当にごめんなさい……絶対に、すぐに返すから」
串焼き屋台のマーケット・パラソルの下、恥じ入るように小さくなったアリソンは、レモネードのグラスを両手で包み込むようにしてそう言った。
後先考えずに賭け屋に全財産を投げつけたアリソンはもはや無一文で、レモネードのたった一杯すらもわたしにお金を借りないと買えないありさまだった。
「本当に、レモネードの一杯くらいなんでもないのに」と、わたしは言った。
彼女が賭けた金額に比べれば、飲み物のひとつやふたつ、安いものだ。わたしとしてはレモネードくらいご馳走しようと思ったけれど、頑固なアリソンはわたしの申し出を丁重に断っていた。
「いいの。友だちとは絶対にイーブンな関係でいたいし……なにより、このあとすぐに大金持ちになる予定だから」
アリソンはそう言ってかぶりを振り、にしし、とチャーミングに笑う。
綺麗に揃った白い歯と金色の髪が、マーケット・パラソルの作る日陰の下でなお輝いて見えた。
レモネードの精霊のようだと思った。本当にそんなものがいるのかどうかはわからないけれど、世の中にはたくさんの精霊が実際に存在するのだから、たぶんレモネードの精霊もいるのだと思ったし、いたとしたらきっとアリソンのような存在だろう。
日陰の下、折りたたみ椅子に座って眺める旧市街の雑踏は、とても明るく見えた。
木で出来たお面をかぶった少年が、老婆の手を引いていた。
身なりよく髪をなでつけた紳士が、装飾品の出店の前で店主と何事かを話していた。どうやら女性に贈るブローチを選んでいるようだった。
何人かの少女たちのグループが、ひとつの包みに入ったお菓子を分けあって食べながら、遠眼鏡の調子を点検するように顔に近づけたり離したりしていた。
そんなふうに愛すべきろくでなしの国民たちは思い思いにそのお祭りを楽しんでいて、彼らにとってはその日が平日かどうかなんてことは全然知ったことではないようだった。
《魔女の決闘》なんて血なまぐさい言葉がまったくもって似つかわしくない、ひどく平和で、のん気で、空々しいくらいに牧歌的な、天気のいい日だった。
アリソンの横顔に視線を戻して、わたしは言う。
「でも、本当にびっくりした。アリソンがあんなことをするなんて。だって、最初は決闘に反対していたのに」
アリソンは首を回し、わたしの顔を真っ直ぐ見てかすかに微笑んだ。
「もちろん、いまも無茶なことはしてほしくないと思ってる。けど、わたしはニナに約束したわ。『あなたのことを応援する』って。勝ちとか負けとか損とか得とか、そういうのは本当にどうでもいいのよ」
レモネードをほんのちょっぴり、とても大事そうに飲んでから、アリソンは続ける。
「だから仮に、もし仮にニナが負けたとしても、あのお金は全然惜しいものじゃあないの。わたしはもっと大事なものに、お金を払ったんだと思ってる。わたしは何があってもあなたの味方よ、ニナ」
嬉しくて、胸が震えた。
曇りのないアリソンの表情が嬉しくて、わたしは踊りだしたくなってしまう。許されるのであれば、「これがわたしの友だちです!」と書いた看板を掲げてオーゼイユの街を彼女と練り歩いてもいいと思った。
アリソンはナコト先輩のようにわたしに何かの才能を見出したわけではなかったし、きっと理性ではわたしがダレット先輩に勝つとは思っていなかったのだろうと思う。
けれど、わたしは嬉しかったのだ。
彼女は何があってもわたしの側に立ってくれると、そう言ってくれたし、それを行動で示してくれた。
あなたはここにいてもいいのだと、そう言われている気がした。
わたしはアリソンに感謝の気持ちを伝えたくて、言葉を探した。ただの「ありがとう」では、その気持ちを十分に伝えられる気がしなかったからだ。
ほっぺたにキスして抱きしめようか、そんなふうにも考えたけれど、冴えた答えは結局レモネードを飲み終えてしまっても出てこなかった。
オーゼイユ旧市街跡の高台には、かつて聖堂だった廃墟があった。
旧市街の瓦礫の街並みを見下ろすように建てられたその聖堂の残骸は、戦争の傷と時間の経過がもたらす摩耗のせいですっかりくたびれ果てていた。
建てられた頃は立派で荘厳なものだったのだろうけれど、てっぺんの鐘楼からはいつ青錆びた大鐘が落ちてくるかひやひやしたし、壁面に施された精緻な彫刻はもうほとんど判別のつかないものになっていた。
構造自体のつくりの頑丈さのおかげで建物としての骨組みはそこにしっかりと残っていたけれど、聖堂としての尊厳や意味はとっくの昔に雨に洗い落とされて、土に溶けて消えてなくなってしまっているようだった。
高台からは新市街の時計塔がよく見えて、あと五分程度でちょうど正午を指すくらいの時間だった。眼下に見下ろす旧市街は、色とりどりのパラソルと人波で花畑のように見えた。
「遅いですね、彼女たちは」と、審判を務めるミス・ロウマイヤーは言った。
正規の手続きを踏んだ学生同士の決闘の場合、審判員の資格を持った学校職員が立ち会うことになっていた。
彼女らを抜きにして決闘を行った場合、だいたいにおいて手段や結果が過剰なものになりすぎるためだ。魔女の決闘なんて大仰な言葉で飾り立てたところで、突き詰めて言えばそれは結局のところ私闘だ。
私的な諍いを無理やりに力尽くで解決する手段なのだから、ルール無用でやってしまえば当然に当然の結果が吐き出される。最低限そういった不幸な結果を招かないためにも、我々学生には、正規の手続きを踏み審判員を立てることが義務付けられていた。
「まあ、彼女たちが時間にルーズなのは、いまに始まったことではありませんが」
ミス・ロウマイヤーは嘆き顔で、とても長いため息を吐いた。肺ごとこぼれ落ちそうなため息からは、彼女が日常的に二人に振り回されていることが察せられた。
わたしとアリソンは顔を見合わせる。
聖堂が作る影の下、アリソンは少し不安そうな顔をしていた。わたしの顔も、たぶん似たようなものだったのだろうと思う。
その時だった。
不意に、じわり、と。
眼下に見える旧市街の人波が、ひとりでに割れたのは。
海を割る偉大な預言者のように――いや、これはあまり正確な表現ではない。
より正確を期すのであれば、彼女たちは津波そのものだった。彼女たちは彼女たちの意思とは無関係に、進む先の形あるものすべてを片っ端から押し流し、なぎ倒し、巻き上げ、引きちぎる。
通ったあとに残るのは、なべて均したように平坦な荒野だけだ。だから彼女たちの周りには、水を張ったバケツにインクを落としたような、ぽっかりとした空間が自然に出来上がる。
人びとと彼女たちの物理的な距離は、そのまま畏怖と崇敬そのものの質量だった。
彼女たちは高台の坂道を、こちらに向かってゆっくりと登ってくる。
口々に、ひそやかに。観衆たちは《柩》、《劔》、と静かに囀る。
「私もニナに一口賭ければよかったかしら」
決して大きな声ではなかった。
けれど、彼女の玲瓏な声は、直接耳元でささやかれたように聞こえてくる。
長くて真っ直ぐな、奇妙なくらいに深い漆黒の髪の毛。
不自然なくらいに空虚で白い、陶磁器の肌。
長いまつげの向こう側、まばたきのたびに色を変え、すべてを見渡す澄んだ瞳。
――鉄棺、《柩》。ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト。
「賭けちゃだめだろ。お前、一応あたしの立会人なんだぞ」
そのかたわら、ピンクブロンドの魔女が言った。
繊細で女性的な丸みを帯びた、小さな体躯。
彼女の肩には、不釣り合いに長大な箒が騎士の大剣のように担がれている。
腰に巻かれた杖帯には、鈍色の輝きを持つ杖が。
猫のように釣り上がった眼窩には、すべてを敵対的に睨めつける肉食獣の翠眼が。
――暗銀、《劔》。クリスティナ・ダレット。
「しょうがないじゃない、あなた友達がいないんだから」
「お前にだけは言われたくねえよ……」
軽口をたたき合いながら、彼女たちはわたしたちのほうに歩いてくる。
《柩》はひらひらとこちらに手を振り、《劔》はへらへらと笑いながら、緊張を全く感じさせない足取りで。
恐ろしく間抜けな話だけれど、わたしは彼女たちと相対するそのときまで忘れていたのだ。
あの異常な賭け率の意味を。
彼女たち二人が、弱冠十七歳にして《忌み名》を拝領するほどの、雲の上の存在だったということを。
《忌み名》持ちとそうでないものとのあいだの、圧倒的な隔絶を。




