1:《文具屋》のニナ(1) 【表紙あり】
箒(broom)とは、主に清掃に使用する道具のひとつである。
植物の枝や繊維などを束ねたものを棒の先につけた大型の筆状や刷毛状を呈したもので、それにより床面や庭などの塵やごみを掃くものである。大きさや材質には種々のものがある。
魔術界においては、空を飛ぶ際にこれを用いることが一般的である。各魔術基盤によって原理は様々であるが、ク・リトル・リトル王国においては、反射鉱石(reflection crystal)が大気中の微細な特殊粒子「サーフ(Saint Ubiquitous Radial Particle)」に反射する性質を利用し、空を飛ぶための上昇力を得て滑空する方式が用いられる。
この方式は理力炉などの内燃機関に依存しない代わりに、大推力による継続的な高速飛行が困難である。そのため、近年において移動手段としてはすでに陳腐化しており[要出典]、もっぱら儀礼用・競技用として利用されるに留まる。
ク・リトル・リトル式飛行箒特有の競技として、粒子の波に乗りながらトリック(技)を繰り出し、一定のルールに則って勝敗を競う「競技滑翔」という競技が存在し、国民的スポーツとして広く普及している[要出典]。
――自由律魔術百科事典「Witchpedia」より抜粋
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昔々、といってもせいぜい十年くらい前の話だ。
その時わたしは十五歳で、エルダー・シングス魔術学院の二年生だった。当時のわたしの住まいは学生寮の二人部屋で、ルームメイトのビビと一緒に生活していた。
古びて色あせた寮の部屋はいつも埃っぽくて、夏は暑く冬は寒かった。西側にひとつだけある窓は建てつけが悪く、雨が降るとひどく湿気がこもった。そういう日には、わたしの栗色のくせっ毛はここぞとばかりにとぐろを巻いたものだ。
そして何よりも、とにかく狭かった。
そもそもが二段ベッドと二人ぶんの机と女の子二人でぎゅうぎゅう詰めになる質素な作りの部屋なのだけれど、わたしたちの部屋はさらに輪をかけて狭かった。ビビが持ち込んだばかでかい鉱石テレビのせいだ。
当時のビビはとあるテレビ・スターを崇拝していて、件の鉱石テレビは彼女がそのなんとかいう男の子のハンサムでありがたい笑顔を鑑賞するために持ち込んだものだった。
愛というものはとても偉大で、ときにあらゆるものを生贄に捧げることを許す。彼女の場合、それがなけなしの床面積だったというわけだ。
ともあれ十年前のわたしは、その狭くてしみったれた部屋の二段ベッドの下のほうで眠る、しみったれた魔女のたまごだった。
入寮した当初は、そんな部屋に家族でたったひとりの女の子を叩き込んだ両親を少しだけ恨めしく思っていたけれど、私立の魔術学校の授業料と片田舎の小さな文房具屋である我が家の家計のことを考えると文句なんて言えるはずもなかった。いまも昔も、アパートメントでひとり暮らしをするよりは、学生寮で生活するほうがはるかに安上がりなのだ。
それに、いまとなっては寮生活も悪くなかったように思う。少なくともあの埃っぽい部屋に何年もいたおかげで、わたしの鼻の粘膜は常人のそれよりは丈夫になったからだ。
そうでなくとも、埃や湿気にまみれた学院生活は、わたしにとってのひとつの巨大な記念碑であり冷厳な墓標だ。
あの懐かしく美しい学び舎は、わたしの人生にとってほとんどすべての物ごとが始まり、同時に終わった場所だった。
だからわたしはきっと、生涯忘れることはないだろう。
あのひとの、白く冷ややかな美しい手のひらを。
つややかな濡れ羽の黒髪を。
異界の宝石のような万華鏡の眼差しを。
五月二十二日のことだ。
その日の二限目、わたしたち飛行学基礎実習の受講生は、校舎の南側――〝慈悲の森〟を一望できる小高い丘の上に整列していた。
黒々とした針葉樹が鬱蒼と立ち並ぶ〝慈悲の森〟は広大で、ときおり風もないのにざわざわと鳴った。彼女(あるいは彼女たち)は、わたしたちが産まれるずっと前、気が遠くなるくらい昔からそこにあって、その頃からそうやって気が向いたら歌っていたようだった。
「みなさんごきげんよう」
〝慈悲の森〟を背に、油を差し忘れたミシンのような声でミス・ロウマイヤーが言った。わたしたちも、老教諭に挨拶を返す。
「ごきげんよう」
わたしたちは声を揃えて姿勢を正し、伝統的な魔女のお辞儀をする。
ゆっくりと目を伏せ頭を下げ、杖腕でぼろの飛行用ローブの裾をつまんで、使い古された箒は逆の手でしっかりと握る。柄のてっぺんは、空を突くように垂直に。
ちなみにわたしたちが身につけるこれらの飛行用装備は、わたしたちの先輩の先輩の更にその先輩の前の偉大なる先輩たちの代から使いまわされた非常に由緒ある備品で、つまりとても古いものだった。
一瞬でも油断すれば、かび臭いローブのせいでくしゃみが止まらなくなりそうだったけれど、何よりも礼儀と様式を重んじるミス・〝へんくつ〟・ロウマイヤーの前ではそれは許されることではなかった。
「――たとえあなた方が薬学部生であろうと、箒の操作技術は魔女にとっての本懐なのであります。さあ、魔女のたまごたちよ! 大気中の粒子を肌で感じ、空と一体になるのです!」
老教諭は芝居掛かった調子で両手を広げる。もう五十回は繰り返された、授業前のお定まりの演説だった。
きっとそのときの私は、ひどいしかめっ面をしていたに違いない。くしゃみを我慢していたせいもあるけれど、一番の問題はもっと別のところにあった。
客観的に見て当時のわたしは、凡庸を通り越して欠陥品の、不完全で救いがたい二級品の魔女のたまごだった。
座学こそまずまずの成績を収めていたものの、実技となるとからきしで、特に〝矢〟の魔法についてはそれはそれはもうどうしようもないものだった。
狙った的に当たらないのは日常茶飯事だったし、ときに悪魔の手に操られるように担当教員の眉毛を焼き、窓ガラスを粉々に破壊した。もちろん空を飛ぶことだってひどく苦手だったから、飛行学の授業はいつも憂鬱な気分だった。
さらに具合の悪いことには、その日は短距離飛行の小テストの日だったのだ。査定の厳しさで有名なミス・ロウマイヤーのこと、たとえ小テストであっても甘い顔なんてしてくれるはずもない。
必修科目の飛行学基礎実習を取り落としでもしたら、進級は絶望的。魔法学校の授業料を追加で一年ぶん払えるような蓄えが我が家にあるとは思えなかったし、そうでなくても留年となると家族に申し訳が立たなかった。
故郷の小さな町でたったひとりだけ魔女の適性があったわたしをここに送り出した時の両親の顔は誇りに満ちていて、わたしはその期待を裏切るわけにはいかなかったのだ。
絶対に、上手くやらねばならない。
わたしにとって飛行学の授業は、ガラスで出来た糸の上を綱渡りするような、タイトでタフな時間だったというわけだ。
「――では、前回の授業終了時にお伝えしたとおり、本日の授業では短距離の航行テストを行います。離陸したら〝長老杉〟を目印に旋回して、この丘まで戻ってくるように」
ミス・ロウマイヤーは、ぜんまい仕掛けのおもちゃのように首を回してわたしたちを睥睨したあと、背後の森の一点を杖で指し示しながら言う。
杖先の延長線上には、周囲の木々の三倍ほどの背丈と幹の太さを持つ長老杉がぼうっと突っ立っていて、1,000ヨルドも離れた丘の上からでもはっきりと見て取れた。
「もっとも、この程度の距離はほとんど散歩のようなものでしょう。……わたくしがこれまでに教えてきた物ごとを、あなた方がきちんと理解できていれば、の話ですが。ちぎってきた草木の煮汁をかき混ぜるのとは、わけが違います。人間は、空から落ちれば死ぬのですから」
ミス・ロウマイヤーは流れるように薬学部生をこけにして、神経質なトカゲのような動きでこちらに振り返る。
「さて、栄えある魔女のたまごたちよ。あなた方がただ鍋を混ぜるだけのうすのろではないことを期待します。脚など折って無様をさらせば、それなりの評価を下されると考えなさい。――では、出席番号一番から五人ずつ、順に構え」
彼女の号令で、隊列の先頭に立つ生徒たちが一糸乱れぬ動きで箒にまたがる。
「滑翔始め!」
ミス・ロウマイヤーがホイッスルを吹く。
生徒たちは股ぐらに箒を挟んだまま、丘のへりに向かって助走をつけ始める。小さな頃に見た、百科事典の太古の鳥みたいに。
彼女たちの走りに合わせて、箒の刷毛から紫色の火花が散り、だんだんと大きくなる。
両足に力を込めて地面を蹴り、彼女たちが波に乗ると、ぐんと見えない大きな手に引っ張られるようにして、急速に上昇していく。
火花は大きく燃え上がり、長く尾を引く航跡になる。黒いローブの背中が、あっという間に小さな点になっていく。
すぐさま次の号令がかかる。ミス・ロウマイヤーの号令は家畜の屠殺のように冷徹で、看守の心音のように正確だ。
「六番から十番、構え! ――滑翔始め!」
クラスメイトたちは次々と森へと飛び立っていく。
「十一番から十五番、構え! ――滑翔始め!」
わたしの順番はもうすぐそこまで来ていた。心の準備をするために、大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
汗でじっとりと湿った手のひらを、ローブの裾でぬぐった。
「十六番から二十番、構え!」
号令が、ついにわたしを捕らえる。
わたしはゴーグルをはめ、箒にまたがる。柄をしっかりと両手で握り込んだ。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
自分に言い聞かせるように、つぶやく。
いままでの授業通りにやれば、大丈夫。
「――滑翔始め!」
ホイッスルの音と共に、わたしは駆け出す。