第9話 シノビ
タイヤから白い煙を立てて、一台のバンが急停車する。
後部ハッチが勢いよく開くと、黒装束の一団が素早く降り立った。
好奇の視線をものともせず、黒装束たちは行動を開始する。
個室ビデオ店の騒ぎに集まり、夜更けにもかかわらず遠巻きに見守ったりスマートフォンで撮影していたりした野次馬が、黒装束たちの剣呑さにどよめいた。彼らは死神めいた髑髏のデザインをしたバラクラバで顔を隠し、ボディアーマーを着込み、カービン・ライフルで完全武装している。
映画のなかでしか見たことのない特殊部隊然とした黒装束たち。彼らが見上げると、雑居ビルの外壁が突然崩壊した。降り注ぐ建材の破片に、誰かが悲鳴をあげた。
黒装束たちは意に介しない。チーム内でのみ通じる独自の符牒を使い、作戦開始前の最終確認をする。
「M4カービンAPAPフラバンガバメントアンチフリークス」
「重火器指定ヨロ」
「VTF」
「VTF」
「M2、50口径重機関銃」
「VTFケー」
「ケー」
「レディー」
「ケー」
ごく短いやり取りをすませ、黒装束たちは個室ビデオ店に突入を開始した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「御免」
何者かの囁きが聞こえ、次に感じたのは冷たい刃が自分の首を刎ね飛ばす感覚だった。
防御は間に合わない。完全な不意打ちに体が反応できなかった。鋭すぎる刃の斬撃は、痛みすらなかった。視界が流転し、床が迫り、切断された体がくずおれるのが見えた。
塩ビシート製の床に転がったリンは、絶命する前にマンサクの声を聴いた。
「聞こえるかポコ」
「……うん」
「間に合ってよかったポコ」
安堵の溜息がした。首を切り落とされたリンから言わせれば、とても安心していられる状況ではない。
だが、ドMで変態の首吊り狸は信頼に足る相棒なのに変わりはなかった。
死の間際でリンの命を辛うじて縫い留めたのは、マンサクだった。
「オイラの糸を伸ばして、切断された神経の代わりに胴体と繋いだポコ。一本だけだけど、体は動かせるかポコ?」
言われて切り離された自分の体を意識する。
重い。ひどく鈍重だ。指一本動かすのすら、相当に集中せねばならない。当然だ、普段は神経線維の束で動かしているのだから。体を動かすのに求められる出力に対して、電気信号の入力経路が細すぎるのだ。
でも、助かったのは事実だ。
首吊り狸は非力な妖怪にすぎない。人を惑わせ首を吊らせる悪名高い化け狸の一種だが、首吊り狸自体に人を殺せるだけの腕っぷしはないのだ。
あくまで、狸が化けた絞首ロープに人自らの手で首を括らせねばならない。
マンサクの糸は、首吊り狸が自分の体で絞首ロープを形成するように、マンサク自身の体を紐解いて繊維と化す。体すべてがバラバラの紐状になっているので、能力行使中はマンサクは行動不能になる。
糸を手繰るのは、リンの役目だ。
だが、厄介なことに秒単位で脳に霞がかかっていく感覚がする。内臓からの血液と酸素の循環を絶たれ、脳が一歩一歩死に近付いているのが嫌でもわかった。
「一本の繊維で神経伝達と体液の循環をやるのは無理があるポコ。できる限り、首と胴体の接続を急ぐポコ。脳へのダメージは不可逆だポコ」
繋がってるマンサクにわかってる、と返そうとし。リンは思考を中断する。
彼の、彼の、ヒノトの悲痛な叫びが聞こえてしまったから。
「嘘だ、嘘だ、リン。なんでだ、なにしてんだよお前えええええええーーー!」
まだ生きている皮膚の感覚がちりちりと熱い。
ヒノトが装甲腕を顕現させている。
やめて、ヒノト。私はまだ生きている。
だから、無茶をしちゃだめ。あなたの右腕は、まだ完全に治癒していないのだから。
それに。
ヒノトが対峙しているのは、リンにすら接近の気配を感じさせず一撃で首を刎ねた相手だ。
恐ろしく強い。體を下したとはいえ、ヒノトの勝ち目は、万に一つも。
「今は自分の縫合を優先するポコ」
マンサクに言われ、失いつつあった冷静さをわずかに取り戻す。
ありったけの意志を集中させる。動きが鈍い左手を、人差し指一本だけ操作を取り戻す。
ぎこちない動きの指先に焦燥を覚えつつ、リンは糸を手繰りだした。
首を胴体に接続せねば。
そして、彼を――ヒノトを助けねばならない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
リンが倒れたのに続き、ブースの壁に亀裂が走る。断裂の激しさを前に、リンに駆け寄ることすらできなかった。
いや、違う。ヒノトは目を瞠った。
壁は、次々と切り裂かれているのだ。でたらめな切れ味と膂力で、内装を解体しているのだ。
斬撃による破壊は複数のブースに及んだ。隣の部屋が地続きになると、うひゃあと叫んだ下半身丸出しのおっさんが慌てて逃げていく。
すべての壁が崩落すると、ようやくリンの首を刎ねた相手の姿が見えた。
まず目についたのは、口元を覆う鬼の半面。ポニーテールの黒髪は、黒が深すぎて青みがかかって見える。四肢は剥き出しで、豊満な肉体を過剰なまでに強調するボディスーツは、皮膚のように張り付き胴体を覆っている。
冷たい刃のように怜悧な双眸を細め、猛禽が獲物を射貫くように女は名乗りを上げる。
「我が名は鷙。シノビにとって個人の意味はないため、けだものの名前でそう呼ばれている。妖を誅する断魔忍にして、お前たちを殺す者だ」
破壊を行使した刃を構える。およそシノビの得物とは言い難いほどに長大な刀だ。
巨乳くノ一の登場に、ヒノトはなにも感じなかった。あれほど待ち望んだ巨乳美女の登場だというのに、だ。
ただ煮え滾る怒りだけが胸中を、肉体を、魂を支配していた。
五指を軋ませ、装甲腕を顕現。力強さをその手に宿す。
「な、に、し、て、ん、だ、お前えええええええーーー!」
笑っていた。さっきまでリンは、笑っていたのに! 一気呵成に踊り出る。體の防御を容易く貫いた腕を力の限界まで振りかぶり、全力を込めて叩き込む。
あらゆる存在を壊し潰す一撃に、しかし驚愕したのはヒノトの側だった。
「膂力は規格外。だが体術は素人同然」
拳が刃に弾かれる。たったそれだけで軌道が大幅に狂い、狙いを外した。拳は空しく宙を叩く。体幹が乱れてバランスを崩す。鷙が反らした装甲腕を踏みつけた。
弾かれ躱され距離を詰められる。攻防が入れ替わり、転じて鷙が反撃態勢に入る。
「死地に活路を見出し後の先をとれば良い、シノビはそう考える」
左の掌底が顔面に叩き込まれた。
「里の童どものほうが、まだマシに動くぞ」
ヒノトの首がねじ曲がり脳が揺れ意識が消し飛ぶ。お互いの速力すら上乗せしたカウンターに、ヒノトは鼻血をまき散らしながら一回転。床に転がる一瞬前に、強烈な蹴りが追撃してくる。
ボールのように吹っ飛ばされたヒノトは、ブースの隔壁を二枚ぶち抜いて二部屋向こう側で大型テレビを巻き込み壊しようやく止まった。割れた液晶と樹脂パーツが服を貫通し、背中いっぱいに突き刺さる。
「主様!」
心配げに叫んだ夜伽が鷙を睨む。シーツを伸ばし、動きを止めようと両脚を絡めとる。
鷙が刀を振ると、夜伽の放った布はあっさりと切り裂かれた。
「某はおはぎが好きでな。甘うものは美味いものだ」
夜伽では反応できない速度で放たれた刃が、薄い胸を貫いて付喪神の体を壁へと縫い留める。
苦痛に喘ぐ夜伽を見て、鷙は声音を歪めた。
「そこでじっとしているがいい。お前は甘い甘いでざあとと言うやつだ、妖よ。最後に誅してやる」
予備の刀で夜伽を張り付けにしたまま、鷙は一歩を踏み出す。
頭上で火花があがった。神速の反応速度で持ち上げた刃が、装甲腕の拳を押し留める。
我を忘れることにより痛みを超越し、ヒノトは一挙動で二部屋先から鷙を強襲した。
だがしかし。夜伽に気を取られたかに見えた鷙は、視界に収めることすらせずにヒノトの攻撃を防ぎきっていた。
「ほう、まだ動けたか。脳を揺らしたはずなのだが」
「なにしてんだよ、お前は!」
重心移動と刃の角度を変えるだけで、ヒノトの攻撃軌道をごく自然に変える。
流れる水のように攻撃を受け流し、鷙は囁く。
「それしか言えんのか、おぬし?」
回し蹴りがヒノトの側面を叩く。辛うじて装甲腕による防御が間に合った。でも、受け止めたはずなのに。円舞を思わせる優雅な動作にもかかわらず、一撃が異常に重い。
そのまま吹き飛ばされて建物の内壁に激突。体が破城槌のごとく壁をぶち壊す。破壊は外壁にまで達し、モルタルや建材が飛び散り階下にばらばらと落ちていった。
さらに蹴りがきた。太刀のように鋭いその一撃は、ヒノトをまたも吹き飛ばす。三度バウンドし、左手を床にひっかけて指先に走る痛みを堪えてようやく動きは止まる。
親指以外の爪が、床を抉って剥がれていた。
「がはっ」
ヒノトが吐いたのは、血だけではなかった。意識すら体から抜け出てしまいそうな攻撃を、連続して受けた。爪が剥がれた痛みすら、匙に過ぎなかった。
全身が痛みに呻いている。筋肉が潰れ、骨が何本も折れた感覚がする。
でも、まだ動く。神様に授かった装甲腕はまだ動かせる。一度は千切れたそれは、リンが縫合してくれたおかげでまだ動かせる!
頼みの綱の右腕に、ちらりと視線を向けたのが、まずかった。
「おぬしが信を置くのはその右手か。たしかに猪突猛進を繰り返すおぬしにとって、唯一の攻撃手段だ」
冷えた声音が、頭上から響く。
近寄られた気配すらなかった。鷙が刃を振ると、音もなく右腕が切り落とされた。
叩かれ蹴られ吹き飛ばされようとも闘争の意志を失わなかった。理由は単純。リンがくっつけてくれた右腕があったからだ。
だが子供が羽虫の翅を引きちぎるように、ごくあっさりと切り落とされた。それは、ヒノトを絶望に突き落とすのに、十分な斬撃だった。
冗談みたいに血が溢れて、床と壁を汚していく。
「腕があ! 俺の、リンが直してくれた腕! 俺の右腕!」
「五月蠅い。たかが腕の一本で泣き叫ぶな」
呟いた鷙が刀を収める。
一瞬で、ヒノトの残りの腕と脚が根本から切断される。
芋虫のように転がり、ヒノトは喚くのをやめた。
息が熱い。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。終わる。これで終わるのか。リンの敵すら討てず、一方的に切り伏せられて、俺は死ぬのか。
眼球をぐるりと動かし、鷙を見る。睨む。視線だけで人が殺せるのなら、百回は殺している。口惜しさに泣いた。
「おぬしは弱い。弱いが、目だけは印象に残る」
鬼の面のなかで、鷙が面白がるように呟いた。