144話 何もやってこなかったわけじゃない
天ノ川の打球は、空気抵抗や重力を無視するがごとく、ぐんぐんとレフトスタンドへ向かっていく。
相模南の守備陣も、観客も、絶望を浮かべながら打球の行末を見守ることしかできなかった。
―――そして。
「ファール!」
三塁塁審の腕が大きく開かれる。
同時に、安堵のため息がそこら中から漏れていった。
「……少し、早かったか」
だが、天ノ川は悔しがる素振りも見せずに、バッターボックスの地面を均す。
まるで、今の打球など何時でも打てるとでも言いたげに。
南極まで飛ばそうが、北極まで飛ばそうが、ファールはファールだと打者側にも拘らず悟っている。
……どうする?
打ち損じを信じて、カットボールでも投げさせるか?
そんな案は、熊捕の頭から即座に振り払われた。
完璧な人間などこの世にいるはずもない。
それでも、この女が打ち損じをしてくれるとは到底思えなかった。
しかも、そんな考えで打たれでもすれば、後悔が一生付きまとう。
投げるとすれば、”あれ”しかない。
完璧に投げ切れれば、確実に天ノ川の裏をかけるだろう。
問題は、投山が要求通りに投じられるかどうかだ。
あの大ファールを打たれても、闘志はまだ燃え尽きてはいないが。
「10年の重み、のう。確かに、純粋な野球の上手さでは勝ちうるはずもない。じゃが、勝てるかどうかは、上手さだけで決まるもんじゃないけえ」
「……そんなことはない」
天ノ川はバットを大きく掲げる。
得点圏打率4割8分。試合終盤に限れば6割5分の怪物が照準を合わせている。
「そりゃあ確かに、わしらが無駄に時間を捨ててきたんならその通りじゃろう」
熊捕はサインを出し、賽は既に投げたと言わんばかりのやり切った顔で呟く。
「お主は今までバットを何回振った? 何万、何十万……いや、何百万じゃ?」
「オーダーはあっているが、数えているはずもない」
「じゃろうな。わしも同じじゃ。数えてなどいない。……いないが、どんなに少なく見積もっても千万は振ったぞ。竹刀も合わせれば、の話じゃがな」
千万。
熊捕が生まれてから、約6千日。
物心ついてからは5千日。その間、毎日1000回の素振りは日課だった。
最低、1000回だ。多い時は3000振った日もある。
実戦練習も含めれば、千万は確実に超えている。
「比喩ではなく、真剣勝負はしたことある」
ただの野球人が、真剣を持つことなどありえない。
そもそも、法律的にアウトだ。
だがそれでも、熊捕は体験したことがある。
当然、相手を傷付けることはしなかったが、家訓で定められたことだから真剣を握った。
そんな体験は誰にでもあることではない。
「桜にしても、走り回った距離なら、優にお主らの3倍は越えるじゃろう。お主の断定は、わしらがその10年間何もしてこなかったらの前提のはずじゃ」
……天ノ川は、熊捕の言葉をハッタリだと思った。
千万の素振り、真剣勝負、3倍の走り込み。
その言葉に偽りがなかったとしても、ハッタリだ。
天ノ川の心を揺さぶるのが狙いなだけの、ただの威嚇。
確かに、熊捕の言葉はただの威嚇に過ぎなかった。
自分たちは凄いんだぞと言い切ることで、大きく見せる。
大きく見せるからこそ、逆に小さなものには対応できない。
投山が投じた7球目は、ただの棒球だった。
熊捕にして、目を瞑っても打てると言わしめた、少しだけシュート回転がかかっただけの、素人丸出しのホームランボール。
だがそれは、途中までシンカーと同じ速度・軌道で天ノ川へ向かっていく。
当然、天ノ川の頭の中にはシンカーの選択肢があった。
むしろ、それが最有力だった。
見送れば1点。
天ノ川はそう決めつけたが。
それは落ちることも、大して逃げることもなく。
ストライクゾーンの軌道のまま、熊補のミットに収まった。
「ストライク、バッターアウト!」
そのコールに、相模南側は思い切り手を叩いた。
「なんだと……?」
「言ったじゃろうが。勝負に勝つのは、必ずしも技量が上手い方じゃない。戦い方が上手い方じゃろうが。それは、野球に限らん」
「なるほどな。確かにこの勝負は完敗だ。……試合は、そうはいかせんがな」
3-4の1点差。
この回で全てを出し切った投山は友希に肩を支えられながらベンチへと戻る。
9回裏は1番の小鳥遊から始まる。
泣くか、笑うか。絶望か、歓喜か。
廃校か、存続か。
全ては、この時のために。




