134話 読まれてる?
3回表、投山の悪い癖がここで出た。
凡退した後には調子が狂う。
決して今までのように腐っていたわけではないが、空見が自分に投げた最後のストレート。
その軌道が目にこびり付いて離れない。
変化球だと思ったわけでも、ストライクゾーンから外れていると思ったわけでもない。
それでも、手が出なかった。
完璧なアウトローのストレートに、むしろ見惚れてしまった。
……自分だって投げられる。
熊捕が要求したのはそこまで厳しいコースではなかったが、投山はわざとギリギリを付こうとした。
……その結果が。
「ボール、フォア!」
先頭への四球だった。
これから、クリーンアップに入っていくと言うのに。
「さあ、行くぜよ」
首をぽきぽきと鳴らしながら左打席に入る雲雀。
ノーアウト一塁で、4番の天ノ川の手前。
欲を言えば併殺打だが、雲雀は、高校に入ってから公式戦でたった一度の併殺打も記録していない。
(せめてフライアウトじゃ。ランナーの入れ替わりですら困る)
前回はインコースのシュートを引っ張られてライト前ヒット。
雲雀に得手不得手の球種というのは全くなかったが、前回打たれている球種は投げにくい。
(なら緩急を使って打ち上げさせるだけじゃ。全力で来い、空振りをとるつもりで)
初球のチェンジアップ、釣られそうになりながらも、雲雀はぎりぎりで足を踏みとどまり、バットを出すのをこらえる。
「危ないもんじゃ。手を出しとったらセカンドゴロで併殺打だったきに」
「お主の足なら併殺はないじゃろ。本気で言っておるのか?」
「拙者はいつでも本気ぜよ」
熊捕は小さく笑いつつ、ストレートのサインを出そうとする……直前で思いとどまった。
(読まれるか?)
遅いボールの後に速いボール。
効果的とはいえ、あまりに安直な考えだ。
熊捕は顔を動かさずにネクストバッターズサークルで座る天ノ川を見る。
(目が合った!? ……いや、そんなわけがない、気のせいじゃ)
天ノ川にはマスクをかぶっている熊捕の視線を把握することはできない。
だが、天ノ川がピッチャーの投山ではなくキャッチャーの熊捕に注目していたのは事実だった。
(これは……)
読まれている。そして天ノ川の読みは、打席に入っている雲雀にも共有されている。
熊捕は、客観的に今の球の意味を考える。
(じゃが早計はいかん。わしとしてはフライを打ち上げさせるつもりじゃったが、今のは併殺狙いにもとれる。雲雀が嘘を言っていないのも確かじゃ。なら当初の予定通り、高めのストレートじゃ)
高めのストレート。それもギリギリボールになる絶好のコース。
普通に振れば、アンダースローの軌道も相まって間違いなくフライになる。
……だが、雲雀は普通には振らなかった。
まるでバットを投げだすかのように、軽いスイングでボールを捉える。
「センター!」
あらかじめ二塁に寄っていた二宮の頭を超えて、センターの真中の手前にポトリと落ちる。
(わしの。……わしの勘が鈍ったんか)
ノーアウトランナー、一二塁。
ここで、得点圏打率4割8分を誇る天ノ川が打席に入る。
……最悪だ。
ホームベースの前で立ち尽くす熊捕の思考を読み取ったかのように、天ノ川が声をかける。
「雲雀の名誉のために言っておくが、あいつは嘘は吐かない人間だ」
天ノ川も嘘を言っている風には見えない。
「人の会話を盗み聞きする敵方に言われてものう」
「盗み聞きじゃない、雲雀の声が大きいだけだ」
精一杯強がって見せたが、天ノ川には何の効果もなかった。
(……なぜ、そんなことを言う。迷わせたままでおればもっと楽じゃろうに。……いや、結局)
熊捕は迷っていた。いや、まるで詰将棋の盤を見てまだ何かないかと探している素人のような滑稽ささえ自身に感じる。
(追いつめられると、選択肢が狭まると言うのは本当じゃな)
ふー、と大きく息をつき、守備陣をマウンドに集めて皆の顔を見る。
そして、スタンドの観客を見る。
配球を考えるのは自分だけだが、かといってそれを自分一人で背負っているとも思わない。
(ベストは併殺打。……じゃが、天ノ川の得点圏打率を鑑みれば進塁打でさえも良しとせねばならん)
「セカンドゴロを打たす。かといって併殺狙いじゃないけえ」
「それって、どういうことかなぁ?」
「進塁してもそれは諦める。運が良ければゲッツー、くらいの気持ちでいかねば、天ノ川は抑えられん」
「……」
逃げとも思える采配に、皆は押し黙った。
言い返せないのは、それほどの能力を天ノ川が持っているからだ。
「分かった、それで行こう」
最初に言葉を出したのは、友希だった。
「私は紅葉ちゃんを信じる。今までもそれで、勝ってきたんだもん」
「我はいつも信じてるのだ」
桜がそれに続くと、一ノ瀬、二宮、小鳥遊は顔を見合わせる。
「まあ、わたくしも疑うつもりはないですけれど」
「そりゃあ信じてるけどねえ。優美はどうだか分かんないけどぉ」
「喧嘩は止めてくださいよ、2人とも」
マウンドに集まった6人は一斉に頷く。
「……覚悟を決めたような顔だな」
「わしは試合が始まる前から覚悟は決めとるけえ」
得点圏打率4割8分。かといって打点を欲しがっているわけではなく、進塁打に徹することもある。
打点だけを欲しがっていればチームの得点数は減っても5割は超えるな、と苦笑いしつつ熊補はマスクを被り直した。
(いつもなら併殺狙いでインコースのカットボール。その裏をかいて、アウトコース中心で組み立てる)
初球はアウトコースのストレート。
これを天ノ川はじっくりと見送った。
まるで、次の配球の判断材料にするかのように。
アウトコースを見せ球にして、次のストライクはインコースのカットボール。
打ち取れればそれで良し、見送られたらシンカーで三振を狙う……のがいつもの熊捕のやり方だ。
わざと初球は狙いと真逆のコースを放らせることで、打者に意図を読み解かせない。
……そんなやり方は、天ノ川には通用しない。
だからこそ、次もアウトコース。
投山の投じたボールは先ほどよりも低い、アウトコースのシュート。
狙いが外れたのか、天ノ川は捏ねるように球ヘ当ててセカンドゴロを打つ。
「一塁!」
小鳥遊はセカンドベースへカバーに入ったが、ランナーの動きを見て二宮に送球の指示を出す。
「アウト!」
これでワンアウト二三塁。
(あわよくば併殺打狙いじゃったが、あれは天ノ川の運が良かったわけじゃなさそうじゃの)
狙いはインコースの変化球だった。
だが、あてが外れても進塁打を打つ準備をしていたのは明白だ。
スイングこそ不格好だったが、確かに狙いすました打球だった。
(一つ山場は超えたが、正念場は次じゃな)
熊捕はが守備体系を指示している間に、天ノ川がサインを出す監督に耳打ちしているのを見落としたのが、誤算だった。
同じ方法で裏をかけるのは、一回だけだと言うことに、気づけなかった。
(いつもなら四球覚悟でカウントを組み立てる。その裏なら……)
スクイズにエンドラン、何でもできる状況に、だからこそ熊捕は初球から勝負を挑んだ。
いつもとは逆。それをさらに逆手に取られることに思いもよらず。
「初球スクイズ!?」
前進守備で、頭に入っていたとはいえ、驚きながらファーストの一ノ瀬は前へ詰めていく。
そして、インハイのクロスファイアを苦にもせず、バッターはサード側へ転がした。
「くっ!」
打球反応のいい投山がグラブトスで本塁へ送球したが、とても間に合うタイミングじゃなかった。
熊捕はすぐさま本塁アウトを諦めてファーストで一つアウトを取る。
……これで0-2。
しかも、先ほどヒットを放っている空見を前に未だランナーを三塁に残したまま。
「本塁を諦めて即座に一塁に投げるなんて、いい判断ね。とても野球を始めて半年とは思えないわ」
バッターボックスに入る空見がスパイクの土を落としながら熊捕に語り掛ける。
「……それは皮肉か?」
「まさか。皮肉だと思える自信に感服するわ。……ああ、今のは皮肉よ」
熊捕の自身は、とうに無くなっていた。強がりですらなかった。
読まれている、というのは十分な表現じゃない。
完全に、上をいかれている。
キャッチャーというポジションで、逆立ちしても天ノ川に勝てないと思えるほどに。
ここで奮起したのが、ピッチャーの投山だった。
まるで先ほどの対戦の仕返しをするように、速球を続けてファールを打たせ、最後には。
「……燕返し」
バッターの空見の視界から消えたそれは、ミットの中に収まっていた。
投山の言葉に青筋を立たせながら、空見はヘルメットを脱ぐ。
空見のフォークも打者に同じような印象を与えるが、空見はそれを打席で体感できるわけではないので、初めての経験と言ってよかった。
「やるじゃない。ムカつくけど」
空振り三振でスリーアウト。
2点のリードを許して、3回の裏を迎える。




