121話 ルーズベルト・ゲーム
海乃は、足を引き摺りながらバッターボックスに入ったが、審判への挨拶はかかさずに打席に立つ。
顔面は蒼白だが、眼光だけはいつもの静けさを保っている。
熊捕はそれを見てから、守備位置を眺める。
マウンド上に集まった時には、内野は後退、外野は前進と決定した。
……しかし、本当にそれでいいのだろうか。
内野が後退するのは問題ない。
海乃の性格からして足の怪我がブラフだとは思えないし、ならば内野後退の指示は間違いない。
だが、外野前進はどうだろうか。
確かに普通の単打なら、一塁の近いライトの右京や、肩の強い真中へのゴロは一塁でアウトにできる公算が高い。
しかし、もし外野の間や頭を越されようものなら。
例え足が折れていたとしても、海乃は意地でも一塁にたどり着くだろう。
そして、間違いなく一塁ランナーが生還してサヨナラ負けを喫する。
そんな最悪のビジョンを思い起こさせるほど、打席に立つ海乃のオーラは常人とかけ離れている。
「外野バック!」
熊捕はバッターの前に立ってジェスチャーを交えて指示を出す。
内野全員で決めた作戦を覆す行動だったが、誰もそれに意見する者はいなかった。
それは、熊捕がそれだけの信頼を勝ち得ていたから、というだけではない。
守備に就くもの全員が、確かに外野前進はリスクが高すぎると思い直していたからだ。
「……プレイ!」
審判がプレー再開を告げると、観客の声援は一層熱を帯びていく。
「声出していこー!」
友希の大声も負けじとグラウンドに響いていくが、外野に届くころには観客の声と混じって何を言っているのかは分からない。
(怪我をしたのは右足……。なら左打者は踏み込みが弱くなるじゃろう。アウトコース勝負じゃ)
初球、アウトコースのストレート。
強打者の中で、体重の8割近くを後ろ側に残すという選手もいるが、事ここに至る海乃は8割では足りない。
10割全てを左足に載せ、右足はほぼ浮いたままスイングする。
ガギッ、と鈍い音の後、打球は三塁側の観客席に入っていく。
完璧な打者ほど、自分のスイングを崩さない。
しかし今の海乃は、崩さざるを得なかった。
流石の海乃も、初球でアジャストとはいかないようだ。
……それよりも。
(左足のつま先の位置が変わっておる。投球前は友希の方を向いておったはずじゃが、スイングした時は確かにピッチャーに対して垂直になっておった)
右足を使わずに、コースに対応するとすれば、左足の角度を変えるしかない。
本来の投山の投球なら実行不可能だが、現状の球筋なら、海乃ならやってのけるだろう。
(次にアジャストされることを考えりゃあ、単純に四球を怖がってコースだけの配球はよろしくないのう)
熊捕がサインを出し、投山は逡巡の後に首を縦に振る。
「悪く思うでないぞ!」
(あのバカ! ヒント出すような事を言いよってからに……!)
要求したのはインハイのストレート。
クロスファイヤのフォームから、一見デッドボールのような軌道で打者へ向かうボール。
本来の威力があれば仰け反ってもおかしくないボールだが……。
カキィン! と海乃は対応する。
ファールだが、ヒット性の当たり。
「まさかジャストミートするとはの……」
「あなた方がデッドボールを出すはずありません。私としては、茜に繋げれば、上出来なのですから」
3球目、高めの釣り玉を要求し、海乃は涼しい顔で見送る……ものだと思っていた。
海乃は、怪我している右足で踏ん張って、何とかスイングを止める。
顔を歪めはしなかったが、その分の脂汗が頬を伝っている。
(……悪く、思うなよ)
熊捕は、絶対に誰にも聞こえぬよう、頭の中でそう呟く。
スイングするよりも、バットを止めるほうが怪我には響くらしい。
それならば。
(……わしはとんだ悪人じゃな)
チェンジアップ。
メンタルがやられるとただの棒球になる球種だが、今回に至っては体力はまだしも精神力は持ちそうだ。
(……桜。お主にはこの配球の意図を、気づかんで欲しいが)
4球目。
これが、勝負の球だった。
一時、歓声の大きさに気圧された投山だったが、落ち着きを取り戻し、本来のキレには足りないまでも要求通りのボールが来る。
投山の投じたチェンジアップに、海乃は熊捕の意図通り、体重が前に移動した。
右足に乗った体重は海乃の2~3割程度で、いつもの打撃フォームと変わらないものだったが……激痛をもたらすのには十分だった。
だが、痛みだけで怯むバッターでもなかった。
カキィィン! と快音が響く。
打球は、三遊間を真っ二つに割っていく……はずだったが、後退していた小鳥遊が横っ飛びでかろうじて捕球する。
もしも小鳥遊がバッターだったなら、起き上がった瞬間に一塁に到達していただろう。
ぎりぎりの捕球で海乃が怪我していることなど、頭から抜け落ちていた。
慌てて送球しようとした瞬間、違和感の理由に気づく。
―――小鳥遊の視界のどこにも、海乃はいなかった。
怪我をしていたとしても、塁間の半分くらいには到達していてもおかしくないのに。
「あ……」
海乃は、打席から3メートルほど進んだ場所で膝を折り、小鳥遊が送球体勢をとったところでようやく起き上がるところだった。
小鳥遊も、それどころか、それぞれ進塁した一塁ランナーと二塁ランナーも。
捕球した場所で、進塁したベース上で、立ち尽くすことしかできなかった。
その、海乃の痛ましい姿を目にしたが故に。
まるで、時間が止まったような光景だった。
『海乃―!』
『海乃さーん!』
『葵―!』
スタンドから、枯れたような悲痛の叫びがぽつぽつと出てきたかと思うと。
段々とその声が大きくなっていく。
その声援に応えようと立ち上がる海乃だったが、一塁へ進む速度は歩くよりも遥かに遅かった。
「……みずき!」
それでも、着実に海乃は一塁へ近づいている。
ファーストの一ノ瀬が業を煮やしたようにボールを持っている小鳥遊へ喝を入れる。
「わわっ!」
我に返った小鳥遊は送球しようとするが、焦ったためにボールが手につかず落としてしまう。
すぐさま拾い上げ、山なりのワンバウンドの送球を一ノ瀬へ届ける。
送球が逸れたものの、一ノ瀬は焦ることなくベースから数歩離れて送球を捕球する。
アウトにはまだなっていない。
なっていないが、誰の目に見ても、もう奇跡は起こり得ない。
―――その時。
「葵お姉様―!!」
松葉を筆頭に、ベンチから幾人もの選手が飛び出していた。
反則負けになることを躊躇うことなく。
「お姉様―!」
今にも倒れこみそうな海乃を抱きかかえるが、身長差があるために松葉が海乃の胸に埋まる形となる。
「……負けて、しまいましたね」
審判は、翔和女子の行為を咎めることはしなかった。
だが当然、反則であり、2アウトであったため試合終了となる。
「ごめんなさい、あたくしが、あたくしが……!」
駆けつけたために海乃がアウトになったことを謝っているのか、怪我の原因の一端を作ったことか、不甲斐ないピッチングだったことか、あるいは、その全てか。
傍から見ればどちらが介抱されているのか分からないくらいに、松葉と、その周囲の選手はわんわんと泣いている。
「違いますよ。相手が……。そう、誰が悪いのでもなく、相手が強かっただけです。ただ、それだけですよ」
8‐7。
試合終了のサイレンが、申し訳なさそうに、しかし大音量で響き渡った。




