113話 追われる背中
5点のリード。
そんな大量援護を得られたのは、ピッチャーの投山にとって初めての経験だった。
負けたら終わり。
希望に満ちていた学生生活が水の泡に消える。
これまでの投山のピッチングは、緊張感が力となり、時折は崩れそうになりながらも並み居る強豪たちに引けを取らなかった。
しかし。
「センター!」
5回の裏の先頭打者である、8番にセンター前ヒットを許し、9番の内野ゴロの間に得点圏へランナーを送られる。
スコアリングポジション、本来ならギアが上がるはずの投山の投球も、どこか気の抜けたものだった。
「甘い……!」
キャッチャーの熊捕は、投山が球を投じた瞬間、苦虫をかみしめたような顔で言葉を発した。
打者が仰け反るようなインコースのシュートを要求したはずが、変化量も少なく、インコースのベルトあたりに投じられる。
それは、投山が野球部に入って一番最初に覚えたシュートと同じ。
まだ碌にバッティング練習をしてなかった熊捕でさえ『わしでも打てる』と評した棒球だった。
キィン!
と快音を残し、打球はショートの頭を超えていく。
「セカンド送球!」
二塁ランナーは悠々と本塁へ生還する。
なんとか打球は左中間を抜けずに、バッターは大きくオーバーランしただけで一塁ストップとなった。
「どんまい、どんまい!」
ピッチャーの投山だけではない。
他の内・外野陣も、タイムリーヒットを打たれながら、まだ4点のリードがあるとどこか楽観的である。
ちらっと、熊捕は監督の方を見る。
(監督も、特に悲観的な顔をしとるわけじゃないのう。ま、いつもあんな顔じゃが)
熊捕は投山に牽制のサインを出す。
その帰塁を見て、直感で読み取った。
(盗塁か……)
十中八九、とまではいかないが、ボール球1つのベットなら安いものだ。
案の定、というべきか。
「走った!」
セカンドの二宮の声がこだまする。
投山の球は球速こそあるものの、棒球だった。
しかし、盗塁を刺すだけならこれ以上ない球だ。
立ち上がった顔の正面に来たボールを半身で捕球すると、ミットから右手に素早く球を持ち変え送球する。
送球の動きでずれたキャッチャーマスクで、焦点が合わないながらも二塁を見る。
手ごたえはあった。
熊捕がキャッチャーマスクを外した瞬間、二塁の塁審が判定を下す。
「アウト!」
それを聞いて、ようやく熊捕はため息を1つついた。
「さすが紅葉なのだ!」
これで2アウトランナー無し。
ピッチャーの投山が満面の笑みで熊捕のプレーを褒める。
それを見て、熊捕も少しだけ頬が綻み始めた。
「わしのことはええ。気を引き締めろ、ここで切るぞ」
照れ隠しで言ったが、効果はてきめんだった。
ネクストバッターは海乃葵。
1人でもランナーなど出したくない。
ネクストバッターの海乃を見て、投山も少しだけ身の引き締まった思いがした。
ギィン!
「レフト!」
投山が打球方向を指差す。
浅いレフトフライを左門がキャッチして5回が終わる。
試合が半分終わって4点差。
大丈夫、逃げ切れる。
あの熊捕さえも、そんな思いが心を支配し始めた。
6回の表は、1番の小鳥遊、2番の二宮、3番の一ノ瀬と絶好の打順。
……だったのだが。
初回以来の3者凡退。
それでも、悲観的に思うものはいない。
「『王者は現状維持を望み、挑戦者は変革を望む。故に王者は足元をすくわれる』……という格言を誰かが言っていたな」
「どこぞの監督かしらね。んふ。それって、雫さん自らに語り掛けてるのかしら」
「……半分はな。現状維持というのは主観で見ると難しい。下り坂だとしても、それが直線であれば現状維持をしているように感じられる」
天ノ川の言葉に、空見が反応する。
「相模南はチャレンジャーだものね。それが現状維持を望めば必ず足元をすくわれるってわけね」
「そういうことだ。流石だな、空見」
空見は天ノ川に褒められて嬉しそうに後ろ頭をかいた。
「まだ、相模南は翔和女子の恐ろしさを分かっていないようだなー。セーフィティリードなんてないからなー」
「試合が終わるまで分からなければいいんスけどね」
「んふ。そうは問屋が、卸してくれないわ」
6回の裏。
打者は全国随一の強打者、海乃から始まる。




