プロローグ
それは10年前、三咲友希が小学校に入学した年の話。
母親はプロ野球選手だったにもかかわらず、それまで野球に微塵も興味を示さなかった。
しかし母親の引退試合という事で、友希は父親に連れられてとある球場へ足を運んだ。
母親が所属していた球団はその年の優勝こそ逃したものの、友希の母親の活躍もあって昨年度は日本一に輝いており、球場は常に活気で溢れていた。
自分と同じ苗字が刻印されたぶかぶかのユニフォームを着て、手に余るメガホンを抱え、父親と手を繋ぎながら入場ゲートをくぐる。
観客席へ入り球場全体を見渡すと、それまで半目だった友希の目は大きく開かれた。
雲一つない晴天の下、ライトスタンドはチームカラーである青一色に染まり、幾多の旗が千切れんばかりに大きく振られ、歓声がうねりを上げながら体全体を包み込む。
球場の一体感は、まだ小さな子供だった友希の息をも呑ませた。
球場アナウンスが選手の名前を呼びあげると、ベンチから選手が飛び出していく。
そして、引退する母親の名が呼びあげられた瞬間、球場の歓声はひときわ大きくなった。
友希はまるで、それが自分の事かのように嬉しくなる。
友希が座った席は、招待席でグラウンドにひときわ近く、選手の動きが間近で見えた。
選手の動きが速い。
バットのスイングやボールの軌道は目で追えないほどで、試合がどう動いているのか分からない。野球のルールも全くと言っていいほど分からなかった。
それでも、声を出して応援して、他のファンと同様に身体は熱くなっていく。
……そして。
迎えた現役最終打席。何球目だったかは憶えていないが、友希の母親はボールをバットの真芯で捉えた。
歓声が大きくなったはずなのに、友希はその時、バットの快音以外に何も聞こえなくなった。
今まで目で追えなかったボールがスローモーションのように、瞳に鮮明に映る。
左中間へ高々と舞い上がった飛球は、美しい弧を描いてスタンドへ突き刺さり、その軌跡もまた友希の脳裏に焼き付いた。
大歓声に包まれながらダイヤモンドを回る自分の母親に、憧れを抱く。
試合が終わると、引退セレモニーが開かれた。
青い紙テープが風に波打ち、グラウンドへシャワーのように舞い落ちる。
敵味方関係なく、引退を惜しみながらも、賛辞の言葉を投げかけた。
その光景に、今まで野球に何の関心を抱かなかった友希が、母親や他のファンと共に涙を流す。
ぼやける視界の中で、心の中に強い願いが芽吹く。
―――いつか、いつか私も。
あの場所に、立ってみたい。