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息継ぎ

作者: 平野雄隆

誰にでも起きうる話です。

 がちゃん、がちゃん。

 機械が速度を上げていく。

 製造の世界では、生産数が猛威を振るう時期がある。特に薄利多売で成り立っているこの工場ではそれが顕著に現れていた。

 残業一時間、二時間。そんな決まった形式はここにはない。今日の生産数を終えなければ業務は終わらないのだ。

 労働基準法? ブラック企業? 別にそんなことはない。年間休日の遵守、週四十時間以下の残業。そんなものが、適用されるのは一部の大手企業とそのグループ会社や下請け会社だけだ。この国の殆どは中小企業や零細企業なのだ。そんなものを守っていたら、小さな会社は二年ももたないだろう。それほどにこの国の景気対策は大手至上主義なのである。

 だからなのだろうか。こんなに無茶な残業をしていても監督署からのお咎めは、注意勧告のみなので労働環境は変わることはない。

 僕は、この会社で別の部署にいるのだが、人手が足りないときには加勢に駆り出され、終わりが見えない業務に携わらせられる。

 作業自体は十個の束になったものを十個ずつ箱に詰めて梱包するような単純で簡単なものなのだが、生産がどれだけだとか、今どのくらい終わっているのかなどは全く教えてもらえないのでその疲労の度合いは計り知れない。終わりの見えないものに人は多大な精神的なストレスとフラストレーションを感じるのだ。

 そんな単純作業の傍らに時計をちらっと見ると、残業が始まって一時間と少しが経過していた。

 高校を卒業してからこの会社に就職し、一つ歳をとった僕には彼女がいる。毎日のように会い、会えない日も電話が熱くなるまで話をしている。普段は殆ど残業などないので、今頃いつもの連絡を待っている筈だ。何時に勤務が終わるか分からない状態で連絡一つしないという選択は僕にはなかった。

 少し殺伐とした空気の中、ちょっとトイレにと言って、持ち場を離れることにした。言われたパートのおばちゃんは明らかに不機嫌そうな目で、無言のままだったが、そのままトイレに向かう振りをした。

 僕は急いで喫煙ルームに駆け込み、電話とたばこを取り出す。片手で電話帳を呼び出し、逆の手でライターを擦る。白い煙が上がる頃には、通話ボタンも押していた。

 つー、つー、つー、の音の後に、電話が単調なフレーズで歌い出す。気持ちが焦っている僕にはいつものフレーズが遅く感じられ少し強めにたばこを吸った。何回なったか数えていないが、恐らく三、四回だろう、待ってましたと言わんばかりの明るい声音が耳に心地よく飛び込んできた。


「ああ、さや。ごめん」と、まずは謝りの言葉が飛び出す。期待が含まれた声に後ろめたさを感じたからだ。そんなことは知ってか知らずか、さやは期待を隠さない。


「ごめんって何? 今日はどうする? いつもの場所?」矢継ぎ早に言葉を放つ。


 その返事に僕は窮してしまった。


「うん、その…… えっと……」


「ん? どうしたの、何かあった?」


 その時、機械のブザーが鳴った。

 非常停止。非常を知らせるブザーだけに工場中に響くほど大きな音だ。


「もしかしてまだ会社にいるの?」


 説明する手間が省けたとばかりに僕は首肯する。


「珍しいね。何かトラブルとか?」


「トラブルっていうか、フル生産。納期が間に合わないとかで、箱詰めさせられてる」


「残業なんだ。で、どんな感じ? 何時に帰れそう?」


 さやはこの会社の過酷な残業を知らない。まだ、終わってから会えるようなものだと思っているようだった。


「ごめん、うちの会社こういうとき何時になるか分からないんだ」


 申し訳なさそうな声音で僕は伝える。それを聞いたさやはさっきより声の張りが減っていた。


「じゃあ、今日は会えないんだ」不機嫌を押し殺そうとしているようだが、その声は震えていた。


「うん、そうなんだ。何個作っていいか分からないから帰れないんだ」

 そう言った僕にさやは冷たく言う。


「いいんじゃないの」

 その言葉に僕の心臓はどくんと跳ねた。帰れなくていいと、突き放された気がしたからだ。


「じゃあ、終わったら連絡してね」


 何時に帰れるか分からないのに終わったら連絡してと言う。明日はさやも仕事なのだからあまり遅くなるとそれは迷惑になると思った。


「でも、何個作っていいか分からないから何時に帰れるか分からないんだよ?」

 そう遠回しに迷惑はかけたくないんだと伝えるが、さやはそんなのはお構いなしだった。またあの言葉が続く。


「いいんじゃないの」


 何だろう、僕はさやを怒らせてしまったのだろうか。仕事の都合であって僕の都合じゃないのに怒られているような気になって僕は少し苛立った。


「なんでそんな風に言うの?」


 思わず僕はそう呟いた。

 さやはその言葉に意外そうに答える。


「えっ、何が? どうしたの? 私何か変なこと言った?」


「だって僕が帰れないって言ってるのにさ、いいんじゃないのって、何か素っ気なくない?」


 僕はたまらずに不満を漏らす。

 するとその不満を察知したのか、さやは少し焦ったように吐息を短くした。


「えっえっ、私そんなつもりじゃなかったんだけど。どうして? あれ? 何で?」


 何でそんなにテンパってるんだろう。僕は疑問に思う。何かがおかしい。

 数秒の沈黙が電話に静寂をもたらした。次の言葉が見つからずにいたところで、物音が電話越しに聞こえた。仕事のことで雰囲気が険悪になってしまうなんて最悪だ。僕は仕事を優先するつもりなんてないのに。そう思っているとさやが先にその沈黙を破った。その声はか細く震えている。


「だって、なんこつくっていいかわからないからかえれないんでしょ?」


 僕は電話越しに頷く。

 あれっ! 何かがおかしくないか。その時僕はバランスの崩れたものがあることに気づく。


「さや、今何て言った?」


「えっと、なんこつくっていいかわからないからかえれないって」


「それだ!」


 えっえっ。さやは戸惑いを膨らませている。


「僕は何個作っていいか分からないから帰れないって言ったんだよ」


「だって私はそれって食べてもいいと思うから、いいんじゃないって言ってるんだよ」


「そうじゃなくて」


 僕は自分の中で、自分の言葉を何度か反芻した。


[何個、作っていいか分からないから、帰れない]

[なんこつくっていいかわからないからかえれない]

[軟骨、食っていいか分からないから、帰れない]


 僕の言葉には息継ぎというか句読点が欠けていたことに気づく。それこそがさやとのやり取りの食い違いだったのだ。


「さや、ごめん。僕の言い方が悪かったみたいだ」


 さやは尚も取り乱しているようだったが、僕は次の言葉を句読点とアクセントに最大の注意をしながら言い放った。


「なんこ、つくって、いいか、わからないから、かえれない」


 すると次の瞬間、電話の向こう側が戸惑いから笑いに変わったのが分かった。


「わたし、なにか、かんちがい、してたみたいだね」


僕はこの後続く地獄の残業のことを忘れて、暫く笑っていた。



 ――日本語って難しいな――    



 

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