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有象無象

祖母の思い出話

作者: 鵜狩三善

 幼い時分は両親は共働きで、俺は婆ちゃんに面倒を見てもらっていた。

 すっかり婆ちゃんっ子であったなどと言えば聞こえはいいが、俺は自分を賢いと思い込んでいるような間の抜けた餓鬼であったから、さぞ面倒見は大変であったろうと思う。

 癇癪を起こして「糞婆」だの「死んじまえ」だの、今の俺が聞いたら蹴り飛ばすような悪罵を投げつけた事だってある。

 それでも婆ちゃんは俺が「電車が見たい」などと言えば、近所の駅まで手を引いていってくれた。

 ちょっと肩叩きをしたりすればそれだけで嬉しげなので、俺は立派な孝行で返礼をしたつもりになっていた。


 

 うちの婆ちゃんは心配性だった。

 旦那を、つまりは俺の祖父にあたる人を早くに亡くしている。「いってきます」と仕事に行って、それきり帰らなかったらしい。まだ小学生だったうちの母とその姉を抱えて、結構な苦労をしたのだろうと思われる。

 とまれそういう次第で、家の者が出かけて夜遅くまで帰らないとこれが発露した。

 当時ですら不惑を越えていた俺の父と母が飲みに行った時も、「お父さんとお母さんはまだ帰らないのかな。大丈夫なのかな」と玄関口をうろうろしたりしていた。

「今日は遅くなるって出る前に言ってたから」と説いてもやまなくて、そちらの方が心配になるような塩梅である。うちの妹どもの帰宅時刻についてはもっと反応が如実で、正直辟易した。

 ここまで極端でなくとも(よろず)にこの性癖は発揮されて、一人暮らしを始めた後、実家に顔を出すたびに「ちゃんとご飯作ってる? 洗濯は?」と確認されたものである。

 初めの一年程度ならまだわかるが、幾年経ってもこの癖は治らなかった。まあある意味、話のとば口であったのかもしれない。

 あと三ヶ月に一度は、母から「お祖母ちゃんが顔を見てないと心配しています」とメールがあった。



 うちの婆ちゃんは書画に堪能だった。

 見る買うではなく、書いて描くのである。墨絵の教室に通ったりしていたし、写経に参加したりもしていた。

 後者は誰もやっているのを知らなくて、葬儀の時にお坊さんに「いつも参加していただいて」と切り出されて初めて判明した事実だったりする。

 墨絵は結構描いていて、子供の時分の俺に「どっちの出来がいいかね?」なんて尋ねたりしていた。まあ孫の褒めたものを墨絵教室の展示会に出そうとか、そんな意図であったのであろう。

 俺は訳知り顔に回答していたわけだけれども、祖母やら母やら妹どもやらが備える絵画的才能を一切持たない事を書き添えておく。

 親父も実は彫刻とか日曜大工とか得意な人間なので、実は俺ってば橋の下で拾われた子なのかもしれない。

 ちなみにブログやらツイッターやらでアイコンとして使っている墨絵は、勿論婆ちゃんの作である。遺筆を撮って加工したのだ。生前に使って見せていたら、ちょっぴり喜んだかもしれないな、なんて思う。



 うちの婆ちゃんは耳が遠かった。

 補聴器を入れてもやっぱり皆の声が聞こえなくて、会話をスムーズではなかった。

 俺が実家を離れてからはますます悪くなっていたようで、久々に顔を出した折、家族が揃って婆ちゃんの耳に口を寄せて大きめの声で話していて驚かされた。

 最後に話したのは、年が明けてしばらくしての事であったと思う。

 母と某かのメールのやり取りをしたら、その折の文章に、数日実家に婆ちゃん以外誰もいないようなニュアンスがあった。

 その年は年始に顔を出せなかったので、良い機会だと手土産を持って実家へ行った。

 そうしたら、皆勢揃いしていた。丁度旅行から戻ってきたところだと言う。タイミングが悪い。

 なので適当に駄弁って帰った。

 耳の遠い婆ちゃんはその輪からちょっと外れて、でも傍でにこにこと座っていた。

 俺は話の通りのいい妹や母とばかりと喋っていた。きっと一度二度は婆ちゃんにも会話を振ったと信じたいけれど、どうにも記憶がない。ただ、じっくりと話さなかったのだけは確かだ。

 その事を、今でもとても悔やんでいる。



 婆ちゃんが死去したのは、2008年の2月17日、22時38分の事である。

 その日は朝から「胸が痛い」と言っていたそうだ。母は出かける予定を取りやめて一緒に病院に行って、その受付の自動ドアが開いたところで倒れたらしい。

 俺は昼過ぎに急報を受けて病院に駆けつけた。

 他の家族や親戚にも連絡をして、16時頃だったろうか、「小康状態になりました」と医者に告げられた。

 多数が詰めているのは迷惑になるとの事なので、病院には母とその姉だけが残った。

 そうして家に戻って、20時過ぎ。再度連絡が入った。

 俺が到着した時点で、「次に心停止した場合、再度延命措置は行いません」と宣言されていた。そのまま意識は戻らなかった。

「いつか」がいつか来るのは分かってた。或いは分かってるつもりだった。

 けれどやって来てしまえば、それはいつだって突然だ。

 まあただ、本人があまり苦しまなかっただろうというのだけは救いかもしれない。



 今でも、親戚が集まって婆ちゃんの話になると、言われる。


「お婆ちゃんは お前を一番可愛がっていたからね」

「孫が来ると嬉しそうな顔をしてたけど、お前が来た時が一番ご機嫌だったね」


 もう面映ゆいくらいに、俺はあの人に愛してもらっていた。その事に間違いはない。

 だからこの思い出話は、「ありがとうございました」で結んでおきたいと思う。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いい話でした、胸が締め付けられました。 生きてる人は大事に。家族なら、縁のある人ならなおさら。   素敵なお話をありがとうございます。  
[一言] 最後の一文に胸が締めつけられました。 わたしは「いってきます」と会社へ行き、帰宅すると父が一人で亡くなっていました。その時の喪失感はいまだに忘れられません。別れは唐突にやってきます。なので…
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