2-1 The Dishonest Girl
早朝、最初に起きたのはベルティアナであった。
パーティーが夜遅くまで行われ、多くの人が羽目を外してしまうような日であっても、さして彼女の規則正しい生活リズムは崩れることはないところが彼女の良いところである。
彼女は一度の目覚ましの音ですっきり起きると、自分の部屋で着替えを済ませて一階に降りる。しかし目の前に入ってきた光景を見て途端に彼女は大きなため息を一つ吐くことになった。
「もぅ~。これだから他の人には家事を任せられないんだよぅ……」
昨晩はベルティアナはあまり遅くならないうちに下の弟達と一緒に二階へと赴いたため、それ以後のことは何も知らずじまいだった。その結果残されていたのがお世辞にも綺麗とは言えない部屋の様子だった。
「あとでちゃんとした教育が必要かも」
怨めしそうに呟くとベルティアナは昨日のパーティーの残りの片付けにてきぱきとに取りかかり、その後は朝食作りに入る。
朝食の準備を済ませると、今度はエルマーの様子を見に行こうとその足で三階まで駆け上がった。しかし、彼の部屋に行っても見つけられたのは藻抜けの殻同然の、布団まできれいに片付けられた部屋だけだった。
「また居ない」
と溜め息混じりに呟く。こう言う時は決まってあの場所に兄はいるのだと再び一階に降りる。一階の工房の扉を開けるとベルティアナはそこにエルマーの姿を見つけた。
「こんこん、ドア開けるよー。ってエルにぃやっぱり工房で寝てるし」
こんなことは日常茶飯事だった。ベルティアナは工房の床に散らばった本や工具などを踏まないように気を付けながらエルマーに近づくと、彼の耳元で叫ぶ。
「おーい。朝だよー、エルにぃ……」
「ぐぅ?……はっ!」
ごつん、と鈍い音が響く。突然に覚醒したエルマーの後頭部が後方で構えていた妹の額を強打した音だった。
「いった~い。もう!エルにぃのばか!」
ベルティアナは精一杯の抗議をしたが、寝起きの相手にはさほど効果がないことに加え、彼女ほどのダメージを相手が負っていない事実が、さらに彼女を苛立たせた。
「私はエルにぃが研究熱心だってことは知ってるけど、研究熱心だっていうことと危機管理能力の有無は別問題だと思うのです」
彼の能力の高さは妹である彼女も認めている。しかし、お世辞にも几帳面とは言えない兄の性格のせいで度々いらぬ心配させられるのは妹の方であった。
「わかってる。反省してるってば」
「わかってるならこれ以上言わないことにする。私はエルにぃが何やってるかわかんないから、安易に、そんなに頑張らなくてもいいんじゃない、なんて言う権利はないのかも知れないけど、自分の体を大事にしてね、ってことくらいは家族として言わせてもらうよ。お金を稼ぐ代わりに命を削るなんて、絶対に嫌なんだから」
「わかったって。それにしても今日はやけに過剰に反応するんだ……な?」
エルマーが不思議に思って振り返ると、妹は兄の姿を見て涙を浮かべていた。それは多分額の痛みからくるものではないように思えた。
「心に固く誓うから、その顔どうにかしろ」
「わかればよろしい」
ベルティアナは得意気に胸を張ると、今度は足の踏み場もないほど散らかっている工房の整理を勝手に始めた。
「ありがと、ベル。でも片付けは手伝ってくれなくても大丈夫だよ」
「だめー。エルにぃは一人だとサボっちゃうから。それにアルルとイオリを学校に送り出すまで時間があるからそれまで何もやることないもん。だから一緒にやる。いいよね?」
ベルティアナはそう言ってにっこりと笑った。その笑顔の前には拒否などと言う選択肢は存在しなかった。
「仕方がない」
「エルにぃ、物わかりがいいー」
しばらく二人は特別言葉を交わすことなく作業に没頭した。
床に散らばっていた本を全て本棚に戻し終える頃にはすっかり時間も経っていた。
「ありがとう。あとの片付けはすべて自分でやるから」
エルマーはそうベルティアナに告げた。
「そう。わかった」
ベルティアナは素直に頷いた。しかしその顔は晴れない。作業を続ける兄の背中をじっと眺めながら、それでも
「本当はね、エルにぃが装束設計士になるの私ちょっと嫌だったんだ」
エルマーは作業の手を止める。
ベルティアナからそんな言葉を聞いたのは初めてだった。
「半分は嬉しい気持ちだったけど、残りの半分は怖いなって気持ち。ほら、エルにぃって一人で何でもこなせちゃうじゃん?手先も器用だし、才能もある、何か将来のことまでちゃんと考えてるし。いつか私たち必要とされなくなるのかなって。ほら私たち本当の家族じゃないし、自立しようと思えば、簡単に今までの関係を断ち切れるのかなって」
彼女が何に思い至ったかはわからないが、それはエルマーにとっては有り得ない選択だった。そのことをはっきりと伝えようと思って口を開いた。
「何を今更。血が繋がっていなくてもみんな家族だ。大事なのはどこで生まれたかではなく、誰と生きてきたかだよ。その人の生きた足跡は、場所の記録より人の記憶にこそ残るんだ。だから俺は俺のことをちゃんと見ていてくれる、そんな人を置いて遠くに行ったりはしないさ」
そう言って、彼は優しく妹の頭を撫でた。ベルティアナはそれを聞くと安心した声で言った。
「そうだよね。なんだか私の杞憂だったみたい。それに工房の片付けをしてて思った。私がいないと部屋の片付けもできないんだよね、エルにぃ。それって結構致命的じゃない?」
「余計なお世話だい、このヤロー」
エルマーは妹の頭をぽかりと殴る。
「うぅ、痛いよ。……でもよかった。エルにぃはエルにぃのままで。装束設計士になったら何かが変わっちゃうんじゃないかって勝手に思ってたけど、工房で寝落ちして片付けも満足にできないところを見ると、やっぱりこの人は変わらないんだなって思った。でもそういうエルにぃの方が私は好きだよ」
「もう一回殴られたいか?」
「どうかご勘弁を。でも最後に一言だけ言わせて、今までありがとう。そしてこれからもよろしく頼りにしてるよ。だからしっかり稼いでくださいな、お兄さま」
「おう、任せとけ」
中身は変わらなかったが、そのたくましさは以前にも増して一回りも二回りも大きく見えた。そんなことを思った朝だった。
◇
ピピピピッ……ピピピピッ……
それは部屋の中に鳴り響く目覚まし時計の音だった。アルルはその音で目を覚ますと三秒もしないうちに上半身を起き上がらせて伸びを始めた。彼女が目を覚ましてから脳を活発に活動させるのにさほど時間はかからなかった。
「うー、おめめぱっちり!」
アルルはそう宣言すると、辺りを見渡して、通路を挟んで反対側のベッドに寝ているイオリに視線を向けた。にっ、と笑うと飛び上がるように自分のベッドを出て、イオリのベッドにドロップキックをお見舞いする。うぐっ、という言葉にならない嗚咽が聞こえたがアルルは気にせずに目覚まし代わりの大声をあげた。
「イオリー!起っきろぉおおお!朝、だ、ぞー」
「ちょっと……待ってぇ……アルルゥ……」
最初の一撃で目を覚ましていたイオリだが、体の上にアルルが乗っかっており動こうにも身動きもとれなかった。けれどもアルルはそんな状態になっていることに気づくことなく、テンションが高まったのか陽気に歌まで歌い始めた。
「起きろ~♪起きろ~♪起、き、ろ~♪」
歌を歌い終わってそこでようやく気づいたのか、アルルは眠気を通り越して怒りの表情を浮かべていたイオリに朝の挨拶をした。
「起きた?おはよう、イオリ!早くしないと列車に乗り遅れちゃうよ?」
列車というのは学研都市リフォルミスに向かう列車のことである。寮に定住するアルルたちは短期の外泊扱いになっているだけなので、申請期間を越えての外泊はできない。そのためあまり遅くならないうちに寮に戻る必要があった。
「わかったから毎朝こういう起こし方するの止めてよ……。朝から嫌な気分になりそう」
「早く起きた方が起きてないもう一人を起こす約束でしょ?くやしかったら私より早く起きればいいじゃん。あ、でもそしたら私はもっと早起きしちゃうけどね!」
テンションの落差に朝から辟易としたイオリはベッドからやっとの思いで抜け出した。
「ほら何してるの?早く下に行くよ?」
「着替えようとしてるんだよ!いいから先に下に行っててよ」
「だめ~。私もイオリのお着替え手伝ってあげる!」
「いいよ、いい加減、子供じゃないんだから」
「弟の世話をするのがお姉ちゃんである私の役目!」
「もうだめだ」
イオリの抵抗空しく、彼は押し倒され、揉みくちゃにされ、まるで着せ替え人形のように弄ばれた。結局いつもの倍以上の時間をかけて着替えを終えると、今度はアルルに背中を押されて一階へと降りていく羽目になった。
食事を終え、出掛ける準備を済ませた二人は、兄であるエルマーに連れられて列車の発着場へと向かった。いつもこの場所からリフォルミスに向けて何本もの列車が発着している。リフォルミスは学術研究都市という名前を冠する通り、教育機関や研究機関が数多く点在している。そのため街中には試験運転中のロボットや大型設備が稼働しており、他の街と比べても街の風景は様子を大きく異する。
そんな中でアルル達が通うハロウィーン魔法学校は魔法使いを育てるための王国唯一の教育機関としてリフォルミスに存在している。基本的には全寮制の四年制で、更に高度な魔法を身につけたい人のために二年追加した教育課程も用意してある。
そんな学校にアルルを入学させたのが去年。そしてイオリも今年入学した。二人を立派な魔法使いにしようという意図はなかった。学校に通う年齢に達した時、アルルが自ら選んだのがこの学校だった。そしてエルマーやベルティアナもそれに反対しなかった結果、今のような状況になった。
「アルル、学校は楽しいか?」
「うん!めっちゃ楽しい!」
満面の笑顔でそう返事をする様子を見ると、彼女を魔法学校に送る選択は正しかったのだろうと、エルマーは今更ながらに思った。
列車の発車時刻まではまだ少し時間があった。辺りを見渡すとアルル達と同じような制服に身を包んだ子供たちの姿が目に入る。その子たちも学校から来たか、これから学校に行くかのどちらかだろうが、特に目につくのは、列車の横の開けたスペースから空を飛んで行き来している生徒たちの姿である。
「なあアルル。お前は空を飛んだことがあるのか?」
「それが、まだないんだよ~。多分もうすぐ学校で習うけど」
「へえそうなのか。ちなみに俺は飛んだことあるぞ」
「嘘!ほんとに?」
羨望の眼差しを向けるアルルに若干の優越感を覚えながら、エルマーはにっこりと笑った。
今はまだ幼い二人の弟と妹も、数年後にはエルマーすらも追い越すような魔法使いになるかもしれない。そういう期待に胸を膨らませながらエルマーは二人の頭を撫でた。
液には出発の警笛が鳴り響く。
二人の顔を窓越しに見つめながら、エルマーはぐっと体を伸ばした。昨日の疲れがまだ少し残っている。
「さあ、俺もそろそろ帰るか」
すっかり時間は経ち、時刻は色々な店が看板を出し始める時間帯になっていた。
エルマーはすっきりと晴れ渡った空を見上げながらとぼとぼと歩いて帰った。