目玉焼きが泣いた朝
お久しぶりです。
「堅焼きも半熟もだめなのよ」
彼女がフォークを目玉焼きに突き刺して豪語する。今回は寝ぼけていたせいで堅焼きになってしまったので、黄身は流れずにポロポロ皿へ落ちていく。
「分かってるよ、中間だろ」
フライパンを洗いつつ、僕は返事をする。彼女がどうしてそこまで目玉焼きの硬さにこだわるのか、食べれれば何でもいい僕には分からない。
その考えが透けて見えたのか、彼女はさっきよりも不機嫌になりながらカフェオレを手に取った。
「分かってないわ、まったく。食事はこだわってこそなのよ。こだわってこだわって完成したものを楽しむのが醍醐味なのよ」
「こだわるったって、サラダと目玉焼きとトーストにそんなこだわる所があるか?」
こだわったとしても数カ所だろう。
そう言えば彼女の機嫌はさらに急降下した。ぐーっと冷めかけていたカフェオレを飲み干し、机に叩きつける。
「お代わり!」
「……はいはい」
湯を沸かし、冷蔵庫から牛乳を取り出し、インスタントコーヒーの粉末をマグカップにいれる。砂糖ふたつと牛乳たっぷり。糖分でばっちり目が覚めそうなシロモノだ。
渡されたマグカップに淹れていると、彼女はもうひとつマグカップを隣に置いた。口を尖らせている彼女。
「一緒に飲もう。罰です」
「ええー……」
僕はあんまり甘いものが得意ではない。だから罰なのだろうけど。
ひとまずカフェオレを淹れたマグカップを彼女に渡すと、彼女は息で冷ましながら隣に立った。右腕にくっ付いてくるので、慌ててヤカンを左手に持ちかえる。
「私はさ、共有したいの」
粉末をマグカップにいれながら、僕は首を傾げる。
「楽しいとか嬉しいとか、そういうのを共有したいの」
とぽぽ、と湯を注いで粉末を溶かす。黒々としたコーヒー。このままだと彼女は飲めない。
僕はブラックコーヒーが好きだ。でも彼女はカフェオレが好きだ。
僕は食事にこだわらない。でも彼女はこだわりたい。
「私の好きなものを好きになってもらいたいの」
それって押し付けじゃないかな。
言わずに、僕はコーヒーに砂糖を入れた。
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「……あ」
皿へ目玉焼きを落とすと、水っぽい音と一緒に目玉焼きが崩れた。添えてあったレタスに黄身が飛び散る。
「失敗だ」
思わずそう呟いてしまい、僕は少し考え直してから一人で笑った。失敗か。そう指摘する人はもういないっていうのに。
やたらとこだわる彼女と別れた。一緒にいるのに一緒にいる気がしない、と泣かれてとても困った。結局最後まで、僕は彼女のいう「共有」がうまく出来なかったんだろう。
席につき、手を合わせる。二人で居ても、一人になっても変わらない。いただきます。
こんがり焼けてマーガリンが溶けたトーストに、レタスとトマトを添えられた失敗作の目玉焼き、彼女が居た時には滅多に出ることのなかったブラックコーヒー。
レタスとトマトに青紫蘇のノンオイルドレッシングをかける。彼女のダイエットに付き合って買ったもので、あんまり好きな味ではないけれど、食べものを捨てるのはなんだか申し訳なさがあった。
ぱくり。ひとくち。青紫蘇の独特な風味が広がって、眉を顰める。うん、やっぱり好きではない。
口直しにと目玉焼きにフォークを突き立てる。ぷち、だらり。あっという間に皿に黄身が広がってしまう。ひとくちサイズに白身を切って、ソースみたいに黄身を掬って、ぱくり。味付けも何もしていない、ただ焼いた卵の味。
「……あれ」
なんだかおかしい。
ほんの少し違和感を覚えて、首を傾げながらトーストを齧る。じゅわ、とマーガリンが染み出した。咀嚼して、飲み込んで、また首を傾げる。
なんだか、おかしい。不味いわけではないのだけれど、何かひとつ足りないような。
「……」
なんとなく理由を察しながらトーストを置き、ブラックコーヒーへ手を伸ばす。彼女が居た時はほとんど飲まなかったブラックコーヒー。黒々とした液体が、変な顔をした僕を写してゆらゆら揺れていた。
ひとくち。
「……ああ、くそ」
カップを置いて呟く。ブラックコーヒーは最悪だった。苦くて苦くて、ひたすら苦い。味気ないにもほどがある。
彼女と飲んでいたカフェオレに、彼女のいる食事に慣れすぎた。
虚しさに気付いて俯く。情けない、気付なかったなんて。ただ彼女に会う前の食卓に戻っただけだというのに、それが、こんなにも。
目玉焼きからは、まだ黄身が流れ続けていた。