東の森の魔女
国の東の果てにある小さな村では、決して入ってはいけないとされている森がある。隣国との国境の境にあるその森は東の森。ただそう呼ばれているそこは鬱蒼とした木々が広がっていて、小さな村の何倍もの広さをもってして隣国とのはざまに存在するのだ。そうしてこの東の森は隣国からの侵略を妨げる自然の隔たりとして存在する。だというのに、村の言い伝えとして決して入ってはいけない魔の森として村人に恐れられ逃避されているのであった。
そんな森の中に迷い込んでしまった村の小さな少年は泣きそうな顔をしてあたりを見回していた。鬱蒼と木々が茂るその森は人気などあるはずもなく、怪しげな音のみが耳に聞こえてくる。木々が風で揺れる音にすら少年は過敏に反応して、その度にびくりとその薄い肩を跳ねさせた。それでも森から抜け出そうと怯えながらも足を動かしていく。
その間に少年の頭に浮かぶのは村の言い伝えと、両親の言葉だ。決して入ってはならない。だというのになんで自分は今こんなところにいるのだろうとほんの少し前の自分の行動を振り返り涙目になる。大人の言っている言葉の意味がわかるようになる前から言い含められていたというのに。ため息ひとつと落ち込んで下がった肩が少年の後悔を物語っていた。
そうして視線を下げた先にある澄んだ青色の帽子を見つめて、確かにこの手にそれがあることを再度認識するとほっと小さく息をつく。その帽子は六歳の誕生日に両親から贈られた大切な帽子。少年の頭を覆うべくある帽子は風に舞い、持ち主の手を離れて森へと入り込み、今現在の状況を作り上げたのだった。
夢中で帽子を追いかけた少年は帰り道など覚えているはずもなく、こうして迷子の小さな少年が出来上がった。
迷い込んでしまってからどれくらい経っただろうか。おぼつかない足取りながらも歩みを進めていた少年の足は最初の速度よりぐんと遅くなり、疲労の度合いがうかがえる。
ついに止まってしまった足に、少年の顔には疲れと、果たして本当にこの森から出られるのかという不安が浮かんでいる。
ぺたんとそのまま地面に座り込むと、少年は膝を抱えて頰を抱えた膝に押し付ける。そうして押し付けた頰を起点に、顔を横に向ける。目に映ったのは最初よりもさらに奥に来てしまったのか深くなった森の様子で。さてはて自分は村に帰りつくことができるのだろうか。その不安が顕著になっていく。
はぁ、と深くため息をついた少年は何をするのでもなく、ぼうっと目の前の木々を眺めた。
「どうしよう……」
ぽつりとこぼれ落ちてきた言葉はどうしようもない少年の不安が溢れ出てきたもので、その言葉と同時に瞳から涙が滲んできた。
しかしその涙はこぼれ落ちることなく、目元を手の甲で拭い去ったことによって収まりをみせる。泣いてなんかいられない。そう口の中でつぶやいて、自分を奮い立たせると少年はぐっと手を握ると同時に立ち上がった。
その瞬間。少年が立ち上がったからとは思えないくらい大きな音がその場に響いた。
バッと勢い良くその音がなった方向に視線を向けた。恐怖が滲んだ目をじっとそらすことなくその場所に向け続けた少年の体はカタカタと震えている。
勘違いであってくれ、と願いながら、一秒、二秒とそのまま静止し、全神経を茂みの奥へと注ぐ。その願いも虚しく、葉を踏み潰すような音が続いた。茂みの奥からうなり声がするのは気のせいではないはずだ。
逃げたくてたまらないのに、一歩も動かない足は先ほどまでの疲労がここにきて響いていることを明確に示していた。
そうして少年が動かない体と格闘している間に、音を発していた正体がすぐそこまで近づいていたようで茂みの間からガサガサと音を更に立てて狼の頭が飛び出してきた。
「ひっ……!」
ばちりとあった目線に少年は小さく悲鳴をあげて、小さな体を更に小さく縮こまらせて硬直する。
狼の喉の奥から響くうなり声が耳に届くたびに少年は声にならない声で助けを求めて喘いだ。緊張と恐怖で震える喉は役割を果たさず、ただ吐息のようにか細い息が口から吐き出されるだけで終わる。
のそり、のそりと近づいてくる狼が頭を少年の方に向け、目の前の獲物の匂いを嗅ぐようにすんすんと鼻をならした。その鋭い目は薄暗い森の中で爛々と輝いている。
僕なんか、食べても美味しくないのに。そう言って見逃してもらえるならどんなによかったことか。動物に言葉なんて伝わるわけもないわけでそんなことは起こり得ないことも少年は十分わかってはいたが、そうやって願うしかできることがなかったのだ。
見開いた目には鼻先ほどまで近づいてきた狼の姿が視界いっぱいにあった。触れそうなほど近いその距離に獣の匂いが少年の鼻をつく。
この大きな口を開けて襲いかかってきたら自分なんて頭からかじられてしまう。そう思うくらい大きな狼は少年の考えを読み取ったようにぱかりと大口を開けた。その中にはずらっと鋭い牙が生え揃っており、噛まれたらひとたまりもないことが容易に想像できる。
食べられてしまう。簡単に思い至った自分の末路に、少年は抵抗することもやめ、せめてもとぎゅっと目をつぶってその時に備えようとした。
というのにやってきたのは痛みではなく、生暖かい感触だった。
「なにをやっているの、ロク」
ロクと呼ばれたその狼に頰をべろりと舐め上げられたのと、幼い柔らかな少女の声がその場に響いたのはほぼ同時のことだった。その声に少年は決意して閉じたまぶたをそろそろと持ち上げると、呆然とした面持ちで未だ自分の頰を舐めている狼を見つめると力が抜けた声で思わずと言ったように呟いた。
「僕、生きてるの?」
その言葉には安堵と混乱と、とにかくいっぱいの感情が混ざり合っていた。
「ロクが怖い思いをさせてしまったみたいね」
そんな少年の声を聞いたからか、現状を理解した少女がロクを少年から引き剥がすとそう言ってぺちんとロクの頭を叩く。
少女の暴挙に言われた言葉など頭から吹っ飛んだ少年は目を白黒させて少女とロクを交互に見つめた。
「ロクはこれくらいでは怒らないから大丈夫よ」
そうでしょう?とロクを見つめて言う少女にロクはまるで言葉がわかっているかのようにコクリと頷いて、嬉しそうに目を細めると何かを言うように鳴いた。
「でも子供を怖がらせたのはいけないこね」
それもわかっているという風に少女はロクの鳴き声に耳を傾けてそう返す。少女の言葉にどことなくすまなそうな表情をのぞかせる。それから未だ座り込んでいる少年に擦り寄ると労わるようにまた頰をひと舐めした。
「私からも謝るわ、ごめんなさいね」
「え、あ、いいよ!気にしないで」
自分より少し大きいくらいの少女からそうやってかしこまって謝られてくすぐったいやら気まずいいやらで、少年は慌てたように気にしないでと首を振る。
そうして、話している間表情も声音もあまり変化させることのない少女が自分の周りにいる同い年の子供とあまりにも違っているから自然とじっと見つめてしまう。
少年のその不躾な視線に気がついた少女は少女らしからぬ表情で嫌そうに眉をしかめるものの、先ほどのことがあったからか、すぐにその表情を消し去った。
「それよりも早くこの森から出た方がいいわ」
この森の噂を聞いてないなんてことはないでしょう?
「それともこの森を知らないで入ってきたの?」
「ちがっ、知ってるよ。村でずっと言い聞かされてきたから……」
少女の言葉に、返事もすることなく少女をじっと見ていたことに気がついた少年は慌てたように言葉を重ねた。
「それじゃあ尚更どうしてここに入ってきたのかわからないけど……。その様子では本位ではなかったようね」
迷子かしら?からかうような響きを見せる言葉とは裏腹に声には笑いは含まれていなかった。
それでも図星を当てられて、少年は恥ずかしくなって顔を真っ赤に赤らめた。
「帰る道が、わからなくなっちゃったんだ」
へにゃりと眉を下げた少年はそう言ってから、今更ながらになんでこんなところに少女がいるのか疑問に思い始めた。恐怖が過ぎ去ったからか落ち着き始めた頭が、少女が言ったようにこの森から出た方がいいはずなのにと違和感が湧き上がる。
「ねぇ、どうして君はここにいるの?」
一度不思議に思うと気になって仕方なくなって、少年は思わずそう尋ねてしまった。
「……私はここから出られないもの」
その問いは軽率だった。それに少年が気づけたのはもっとずっと先のことで。今はただ、少女の言い知れぬ雰囲気に飲み込まれて言葉を失うことしか、できなかった。
先ほどまでの硬い表情すら消え去り、能面のようで、なのに、なぜだか言葉にはあふれるほどの感情が籠っていた。そしてなにより、自分とお揃いの瑠璃色の瞳がぞっとするほど冷え切っている。
それなのに、その瞳から視線をそらすことができなくて、少年はただただ呆然と少女を見つめた。こんな状況なのに、少年の胸にはただ一つ、ああ、綺麗だな、その言葉しか浮かんでいなかった。
「道案内、してあげるわ」
しばらくの沈黙の後、少女は先ほどまでのただならぬ雰囲気をしまい込むと、一息ついてから仕方なさそう
にそう言って歩き出した。
「えっ、あ、ありがとう……!」
慌てて少年は立ち上がるともう何歩も先を歩き出している少女の後ろ姿を追いかけ始めた。
その少年の後ろをロクがゆったりとついていく。
「えっと……」
「何?」
二人と一匹の足音が響くだけで一切会話のない状態がなんとも居心地が悪くて少年は思い切って言葉を切り出した。
「名前を、聞いてもいいかな」
先ほどの質問から雰囲気が気まずくなったことは少年でもわかっていたので、もう一度、違うとはいえ質問することになんとなく抵抗を覚え、言葉は突っ掛かり、なんとも弱気な声に変わる。
「……マーシェ。そう呼ばれていたわ」
「!ぼ、僕はキルシェって言うんだ」
少しの間をおいてかえってきた言葉に少年、キルシェの表情がぱあっと明るくなった。それから嬉しそうに自分の名前を告げ、最後の音が一緒だね、と無邪気に笑う。
「……あなたはキルシェと言うのね。一番近いあの村の子かしら?」
「そうだよ!小さいけどみんな優しくていい村さ!」
少女マーシェの問いにそう言って笑うと、今までぎゅっと握りしめていた帽子を掲げて、お父さんとお母さんがくれたんだ、と弾んだ声をあげる。
「そう、なら早く帰っておやりなさいな。もうそろそろ日が沈んでしまうから」
マーシェはそういうと足を止め立ち止まり、そっと道の先を指差した。
「このまま、まっすぐこの道を歩いていけば森から抜けるわ。さぁ、おゆきなさい」
「うん。マーシェのおかげで助かったよ!」
そう言って感謝の意を告げると、立ち止まったマーシェを追い越して、キルシェは道なりに進んで行く。
「もう迷い込んではダメよ?気をつけなさい」
そうして歩き出したキルシェの背中に投げかけられた言葉に、キルシェは振り返る。
「次はマーシェに会いに行くから、迷い込まないよ」
そうして笑ってまたねとマーシェとロクに手を振るとキルシェは再び歩き出した。
「バカな子ね」
『そうだな、不思議な子だ』
キルシェの言葉に目を瞬いたマーシェは呆れたようにそうつぶやいた。それに声なき声がマーシェの耳に返
ってくる。
「そうだ、ロク。あまりないとは思うけれど今日みたいに幼子を脅してはダメよ?」
『あい、わかった。森の魔女殿』
「本当かしら」
驚く事なくごく自然に会話を続け、マーシェは先ほどは浮かべることがなかった微かな笑みを見せたのだった。それほど動物と意思疎通が取れることはマーシェにとって当たり前のことなのだ。
そしてこの人とは違う力はマーシェを人間の輪から弾くものでもあった。
東の森の魔女。それが彼女の呼称である。
『怪しげな術を使う、人知を超えた魔女が住む森に何人たりとも近づくことなかれ。かの魔女が住まうは東の果ての魔の森。命が惜しくば人非なる存在に関わってはならぬ』
キルシェの村に伝わる言い伝え。それがマーシェを森へと留まらせる要因の一つである。しかしマーシェが魔女と呼ばれる所以はそれだけではないのだ。
人の意思によって作り出された人為的な魔女。マーシェの意思などお構いもなく、マーシェは魔女であることを望まれ、魔女となった。
それはもう随分と昔の事。キルシェが生まれるもっとずっと前に、彼女は魔女となったのだった。
最近のキルシェはおかしい。それが小さな村の子供たちの総意だった。
一週間ほど前。いつもよりずっと帰りが遅くて、キルシェが両親からこっぴどく叱られていた姿は目新しい。そしてその日から、なんだか様子がおかしいのだ。
そわそわと落ち着きない様子が見て取れる。どうしたのか、聞いてみたくても、村の子供たちは人形のごとく整った顔立ちのキルシェに話しかけることができないでいるのだ。キルシェが生まれてからずっと、子供達は誰もが皆、自分と違った存在のように思えるキルシェを遠巻きにして暮らしている。とはいってもいじめられたりすることはない。ただ自分とあまりにも違う姿のキルシェに羨望と嫉妬がごちゃまぜになって、近寄れないでいるだけなのだ。
そんな風にいつも通り村の子供たちから遠巻きに見られているとは露知らず、キルシェは今日もまたどうやってあの森に行くのか考えていた。
あの日から毎日、なんだかんだと理由をつけて用事をつくり、両親の目を忍んでマーシェのいる森へと足を運んでいた。
そして今日もまたキルシェは村人の目を盗み森へと続く入り口へと無事に辿りつくことができたのだった。
「おーい、ロク!」
毎日飽きもせず来るキルシェに根負けたのか、三日目からマーシェは森の入り口にロクを迎えとしてよこすようになっていた。
いつもより少しだけ声を張り上げて、あの体躯の大きな狼の名を呼ぶと、森との境界線あたりにロクが姿を現した。
「今日もマーシェのところまでよろしくね」
ロクに近寄るようにして、森に入り込むと、キルシェは自分の道案内をしてくれるロクの首元を優しく撫でてやる。自分よりも大きいくらいのロクを撫でるのは大変で、それでもそうしてやれば気持ちよさそうに鋭かった眼差しを緩めるから、精一杯背伸びをして撫でてやるのだ。
「今日も懲りずに来たのね」
顔を合わせて早々の言葉はいつもと変わらない、呆れたような雰囲気を漂わせる言葉だった。
「うん。マーシェとロクに会いたかったからね」
「そう」
にこにこと笑ってそう言い切るキルシェにマーシェは気まずそうに視線をそらし、ロクは嬉しそうに大きな尻尾を振る。キルシェは対照的な二人の反応を気にすることなく手近にあった木の株に腰を下ろした。
一日目はマーシェを探し回って歩きくたびれたころにようやく出会えた。二日目は少しだけ短くなってどうにか元気なうちに。三日目は小一時間ほどで。そうして毎日、毎日自分を探しに来るキルシェにマーシェは毎回無表情でまた来たの?と冷たく返すのだ。
それでもキルシェは知っている。そうして最初と変わらず冷たい言葉で返すけれど、マーシェは決して自分を嫌っていないことを。だってそうでなければロクを迎えによこしていないし、なにより、マーシェを探すので役に立った、冴えすぎている勘がだんだんと自分を許容してくれるようになっていく様を感じ取っていた。
「そういえば、マーシェは一体いつからここにいるの?」
気を許してくれているから、そう思って質問してみたが、言ってからまた怒らせてしまわないかと気が付いて視線をうろうろと彷徨わせる。怒らせるかもしれない、そう思いいたっても聞いてみたかったのだ。今までのおしゃべりの中で、といってもキルシェがほぼ一方的にしゃべっているだけだが、マーシェが同じ年頃の少女とは到底思うことができなかったからである。
「そうね、うんと前からよ。キルシェが生まれるよりももっともっと前から」
私はずっとここにいるわ。
そう言ってキルシェの予想に反して静かな声でそう言ったマーシェに、キルシェはびっくりして目を瞬かせた。そうしてから、マーシェの言っている意味を飲み込んで、え、っと戸惑いの声を上げる。
「だって、マーシェは僕と同じくらいの……」
「違うと思ったから、質問したんじゃないの?」
マーシェの言葉にうっと、言葉に詰まる。確かにキルシェはそう思ったから怒らせることを厭わず質問したのだ。冴え渡る勘がその質問がマーシェという存在の核心をつくものだと気が付いていて。
「そうね、何から話したらいいかしら」
あなたは、私の初めてのおともだちだから教えてあげるわ。そう言って何かを思い出すように虚空に視線を漂わせる。
ただならぬ雰囲気に友達、という言葉に反応しかけた声を飲み込んだ。
「私はね、キルシェ。生贄のためにこの森に存在を縛られているの」
「いけ、にえ……?」
「そうよ、あなたがいる村から出された生贄。この村が魔物に襲われることがないのを不思議に思わなかった?」
マーシェの言葉に思い当たることのあるキルシェは息を飲み込んだ。
「私は村を守るための生贄に遠い昔選ばれたの。私は動物と意思疎通ができるから。それが只人からは奇異にうつったんでしょうね。反対なんて、でることもなく私が生贄に決まったわ」
「それは、家族もみんな……」
「ええ。誰も反対なんてしてくれなかった。それくらい、この力が気持ち悪かったんでしょうね」
そう言ったマーシェはキルシェの前で初めて微笑んだ。
ずっと待ち望んでいた表情だというのに、何一つとして嬉しくなかった。なんで、こんな時に笑うんだ。八つ当たりにもほどがある怒りすら湧いてくる。
「なんで、泣いて、怒ればいいじゃない。マーシェには、マーシェにはその権利があるはずだよ!」
だからか、口からはそんな激情が零れ落ちてくる。興奮したからか目からはとめどなく涙が零れ落ちて、乾いた地面にまあるい染みを作っていく。
「どうして、君が泣くの」
「知らないよ、そんなの」
困ったように首を傾げて泣いているキルシェを見やるマーシェに、キルシェもまた困ったようにそう言って、乱暴に目元を拭う。
「続き、まだあるんでしょ?」
そうして嫌じゃなかったら続けて、そうして促されたままにマーシェは自分の生きてきた道を話していく。
「この森に生贄として捧げられてから、私の時は止まったの。だからキルシェが不思議がったように小さい時のまま。でもこれでもあなたのおばあさまと同じくらい、生きてきたはずよ」
この状態が生きているというならね。そう言ってマーシェは話の中でキルシェの問いにそう言って答えた。
「じゃあ、最初に言ってた森から出られないっていうのも」
「ええ、私がここの生贄だから。年をとることも、成長することもないけれど、森からもまた出ることは叶わない。それが私の今までの人生よ」
あの小さな村と、この森しか知らないの。
「いつか、海を見てみたいわ」
寂しそうに呟いた言葉にキルシェは思いのまま言葉を紡ぐ。
「マーシェが……マーシェが自由になるまで、僕がかわりに色んなものを見てくるよ!そうして見てきたものをマーシェに教えるから。今はそれで我慢して。いつか僕がマーシェを海に連れて行くから」
約束、そう言って差し出した小指にマーシェはそのほっそりとした白い小指を恐る恐る絡めた。
「約束だよ、マーシェ」
「やくそく、ね」
そうして絡めた小指を見てマーシェはふわりと花開くように微笑んだ。
今度はそれがすごく幸せだった。
それから一年、二年と早足に時が過ぎていく。キルシェがマーシェを自由にすることは叶っていなかったが、キルシェは事あるごとに日々のことをマーシェに話すようになっていた。
王都の事、近隣の村の事、村に寄った騎士から聞いた話、等々。マーシェが知らないであろうことを面白おかしく話すことがキルシェの日課となっていた。
そうして今日は村に立ち寄った行商から聞いた話をしたのだった。
「僕の目の色って、海の色なんだって」
キルシェの瑠璃色の瞳を見た王都の商人が物珍しそうにまるで海のようだ、と言ったのを覚えていたのだ。
「だからマーシェの目も海の色だね」
「海の、色……」
連れて行ってみせると約束した海の色、言われてすぐ思いいたったそれにキルシェは居てもたってもいられなくなって、勢い勇んで森に来るくらいだった。
「そう、マーシェが見たがった海」
そのおかげか、マーシェの顔には珍しい笑みが広がっていた。自分の瞼に手を当てて、何かに思いを馳せるように沈黙したマーシェに急いで来て良かった、とキルシェは笑う。
それがまさか、二人の日常を壊す始まりだと知らずに。
それが二人にとって最後の幸福な時間だった。
「キルシェ、お前は今までどこにいたんだ」
いつも通り、日が暮れる前に村に戻ったキルシェを出迎えたのは怒りで顔を真っ赤にした父親の姿だった。
「どこって、少し行った先にある川のところだよ」
すました顔をしてそういえばバレはしないたかをくくっていたキルシェは次に父親から発せられた言葉に一瞬にして顔が青ざめていくのがわかった。
「東の森に、行っていたんだろう」
疑問系ですらない、わかっていると言わんばかりに言い切った言葉に父親が確信していることを察した。言い逃れできない。もう、マーシェに会えないかもしれない。思い浮かんだのはそれだった。
「しかも嘘をつくとは。森へ行くことを禁じているに関わらず分かっていてその禁を犯すなんて、何を考えているんだ!」
押し黙ったまま、下を向いて唇を噛み締めているキルシェに、さらに怒りを燃え上がらせた父親は足音を立てて、キルシェとの距離を縮めると、ガッと胸ぐらを掴み、しゅっとしだして、柔らかさが減ってきた頰を情け容赦なく殴った。
「お前にはあの森に近づく危険性がこれっぽっちもわからないようだな。しばらく頭を冷やして反省してろ」
痛みで朦朧としているキルシェを家へと連れ帰ると小さな小屋に放り投げ、出れないようにそこへと閉じ込
めてしまった。
それでもキルシェの頭に浮かぶのは、マーシェに会えなくなる、ただそれだけだった。
キルシェが森に行っていることが父親にばれたあの日から、時はあっという間に経ち、早十年の月日が流れていた。
村全体で森に行くことがないようにと見張られていたキルシェは、危惧したとおりあの時以来一切森に近づけなくなっていた。村の言い伝えになるくらい、森に関わることは逃避されていたのだ。村一丸となってキルシェがこれ以上森と関わることがないようにされてしまったのである。
当然、その当時ただの少年であるキルシェはその監視の目を欺くことなどできることがなく、そうこうしているうちにあっという間に季節が巡っていった。
そうしてじりじりとした焦燥感を抱えたまま、マーシェに会えることなく一年、二年と過ぎた頃、キルシェは本心を押し隠して早く大人になることを決意した。そうして自分が村から自由になった後に、マーシェを迎えに行けばいいと。
焦りだけが積もっていくなかで決断したその思いがキルシェにとって唯一の目標となり、会えなくなった日から約三年。キルシェ、十歳の時にそうして彼は子供時代を駆け足で過ぎていく決意をしたのだ。
そうして十年が経ち十七歳の青年へと成長したキルシェはその異常なまでの勘と高い身体能力で王都に渡り、騎士になっていた。
辺境の村から騎士となるのは相当珍しいことで、それを可能としたのはキルシェの高い能力の他に、今の現状にある。元からいたとはいえ、人類の危機となるほどではなかった魔物が活性化したのだ。そのため、辺境の村の出であっても容易に騎士になることができたのだ。村から出るためとはいえ騎士になったキルシェには東の森に行く暇だとなく、昔と変わらずじりじりとした焦りを抱えていたりする。
そんなキルシェは今現在、待望と言える故郷の村の近くへと来ていた。
というのも、マーシェのおかげで魔物の被害から逃れられていたはずの故郷の村が度重なる被害を受けていると報告が上がったからだ。
もしや、マーシェは森から解放されて自由になっているのではないか。その思いが頭から離れず、故郷の村への出陣命令に自ら名乗り上げたのだ。
被害に遭っている故郷の心配ではなく、自分の長年の願望を叶えるためとは我ながら酷いものだと自嘲の笑みを浮かべたのは記憶に新しい。だが、周囲からは自分の故郷を心配する歳若い騎士、とうつったのか、あっさりすぎるくらい簡単にキルシェの願いは聞き遂げられたのだった。
そうしてこの場所に自分が立っているのかと思いながら、つかの間の休息の時間を使ってやってきた森の入り口でその森を見上げた。
記憶よりもうんと小さく感じるその入り口に、自分が成長したということと、何よりもマーシェと会えなくなったから随分と月日が経ったことを改めて突きつけられるようだった。
それでも十年経っても忘れることなどなく、自分の心にいる少女の姿になんて想いを抱えてしまったんだろうと、笑ってしまいたくなって。
それから、ようやくまっすぐ森を見つめると、キルシェは恐る恐るといった風に小さく名前を口に出す。たった二文字なのに、緊張して声が震える。
「ロク」
風に乗って森へと届けられた声に反応して、昔から自分を迎えに来てくれていた狼が変わらぬ姿で自分を出迎えてくれた。
それにひどく安堵している自分がいることに気がつく。ロクが迎えに来てくれる間は決して、マーシェは自分のことを嫌いになったりはしないと。
「ロク、俺をマーシェの元に連れて行ってくれないか」
昔のまま、それでも自分が成長したせいで小さく感じるロクにそう問いかける。
あい、わかった。そんな声が聞こえてきそうなくらい人間じみた表情でキルシェの言葉頷いた。
くるりと尾を振りながら体の向きを変えるとついてこいと言うようにのっそりと歩き出した。
「もうそんなに遅くないさ」
それが昔と同じ歩幅のことに気がついて嬉しくなってそう呟いてロクの後ろ姿を追って森へと足を踏み入れた。
「何、また来たの?」
第一声はそんな冷たい言葉だった。
「うん、だってマーシェとロクに会いたかったから」
「……バカ、ほんと馬鹿な子ね」
昔と同じように返された言葉にマーシェは今にも泣きそうになっていた瑠璃色の瞳から堰をきったようにぽろぽろと涙をこぼしていく。昔自分自信のことですら泣かなかったマーシェが、こうしてキルシェのために泣いてくれることが信じられないくらい幸福なことに感じた。
「会いに行けなくて、ごめん」
「いいわ、知ってるもの」
あなたがどれだけ私に会いたいと思ってくれていたか。
そうやって言って笑ったマーシェは昔と見違えるほど表情豊かになっていた。
「ああ、ほんとわかりやすいくらい不思議そうな顔をするのは変わっていないのね」
キルシェの不思議そうな顔を見てくすくすと笑う彼女は昔と変わらず幼い少女のままだった。それでも、見たいと思っていた笑顔をこんなにも浮かべるマーシェに昔と変わらず胸が熱くなって行くのがわかる。
「今、森の結界があるというのにあの村が襲われているのは力が弱くなっているからよ。だから私を拘束する力もまた弱くなっているの」
そのおかげでこうして心の赴くままに感情を吐露することができるのだと、マーシェは嬉しそうに笑った。
その言葉にキルシェが先ほど浮かべた疑問の他に長年の疑問も一緒に解決したのだった。
「それじゃあ、もしかしたらマーシェはいまなら森から出れるのか?」
そうしてその拘束が弱くなったという言葉にキルシェはぱっと顔を明るくした。
「いいえ、残念なことにそれは無理よ。できたらとっくに私はここから抜け出しているわ」
そんなキルシェの様子に苦笑しながら、マーシェは説明を続けていく。
「拘束は弱まっただけでなくなっていないわ。感情の縛りはなくなったけれど、一番の私をこの森に留めるというものはなくなりはしてないの」
「っ、それじゃあ!」
「でもね、落ち着いて聞いてキルシェ。いまなら抜け出す可能性があるのよ」
だから私のために動いてくれない?
そう囁かれた言葉はまさしく魔女の言葉だった。
「俺はどうしたらいい?」
魔女のささやきに抵抗する気などないキルシェは張り切ってそう聞いた。
「村の、どこかに契約した時に使った器があるはずよ。結界の起点となるもの。それがある限り私は永劫ここに繋がれ続けるわ」
「それじゃあそれを」
「ええ、それをどうか破壊して欲しいの。いまなら壊れることなどなかったはずの器は力が弱まった影響で壊すことができるはずだわ」
「わかった。必ず壊してこよう」
マーシェの言葉に二つ返事で頷くと、キルシェはさっそくといったようにロクに道案内を頼むと村への道を走り出した。
「ごめんね、キルシェ」
その背を見送ったマーシェはわざと伝えなかった言葉に自分の醜さを感じながら昔座った切り株に腰掛ける。そうして祈る神などいないけれどキルシェ為に静かに目を閉じた。
「器を壊してしまえばあの村は朽ちゆくだけ。それでも自由が欲しかった私をあの優しい子は許してくれるかしら」
呟いた言葉は誰にも届くことなく森の中に霧散した。たとえ許されなくても構わない、そう思いながらもキルシェに嫌われるのは嫌だな、と戻った感情が胸に溢れていた。
村に着くとちょうど休息時間が終わる頃で、早く早く急くキルシェとは裏腹に騎士団は魔物の討伐へと戻っていく。
「むしろ今の方が邪魔がいないんじゃないか?」
村に休息のためにとどまっていた騎士団はこれから周辺へと移動する。それに気がつくと早速とばかりにそっと姿をくらませる。キルシェはその行為が規約に違反することなど理解していた。それでも構わないと思えるくらい、マーシェの方が大切だった。たとえマーシェが言わなかった村の危機をキルシェもまた理解していようと。
それにもう今の状態で保たれる平穏はないのだ。マーシェの犠牲のもともたらされるささやかな抵抗なんてなくてもいいだろう。身勝手なばかりの思考だが、キルシェは止まることなく村長の家へと近づいていく。
器があるならここだろう。マーシェの話を聞いてから思い浮かぶこの場所にキルシェは確信すらあった。いつもこういうとき自分のこの直感はすごくいい仕事をすることをこの十年で気がついているのだ。
そうして訪れた村長の家からうまいこと器を持ち出すと急いでマーシェのいる森へと走りだす。もし万が一器が壊されたことを知った村長に邪魔をされたら困るのだ。
先ほど辿った道を今度は走り抜け、キルシェはマーシェの元へと急ぐ。
「マーシェ」
そうしてマーシェのもとにたどり着くとすぐ様器を腰に下げていた剣で二つに割るともう用は済んだとばかりにぱっと放り投げた。
「あっ……」
すると森全体が仄かに光り出し、その小さな光がどんどんとマーシェの体の中へと吸い込まれていく。
幻想的なまでのその光景に近づくことができなくて、あの時出会った時と同じような距離が二人の間にはあった。
ああ、綺麗だ。
そうして胸に抱くのは変わらぬ想い。すっと目を細め、昔は理解ができなったこの感情を胸に秘めたまま、キルシェは光が収まったマーシェの元へと歩みよった。
「キルシェ、キルシェ。私、自由になったわ」
「うん、ようやく、約束が守れそうだ」
どこかぼんやりとした様子のマーシェが涙に濡れた声でキルシェを呼びかける。
そうして自由になったと聞いたキルシェはようやく約束を守れると嬉しくなって。
「ねぇ、マーシェ。海に行こうよ」
昔みたいに無邪気に笑って大きくなったその掌をマーシェに向かって差し出した。
「約束、ですものね。私を海に連れて行って、キルシェ」
眩しそうにその笑顔を見て、マーシェはその掌に自分の小さな白い手を重ねた。
「ああ、もちろん」
そうして二人と一匹は沈黙した森を後に約束の地へと歩みだした。
これは森の小さな魔女と魔女に恋した少年の物語。