海の養い子(2)
「海の養い子って何のこと。そんなの聞いたことないよ」
少年は堤防に腰かけたまま、見上げるようにして男の顔を覗き込む。
足元から吹き上げる風に乗って、潮の香りが少年の鼻をくすぐった。
男は縮れた髪をなびかせる。
「俺はこの辺りの生まれじゃなくて、若い頃は、もっとずっと南のほうで暮らしていたんだ。
小さな島でな、独自の風習なんかもたくさんあった。
海の養い子というのも、そのひとつだ」
「海の養い子だと、どうして餌がなくても魚が釣れるの」
「海の養い子というのは、つまり海の子供のことだ。
子供が健やかに育っていけるように、生きるのに必要な食べ物を海が運んでくれるのさ」
そういうと、男は身体を少し前のめりにし、視線を落とした。
海の深い場所を覗き込んでいるようにも、海と会話をしているようにも見える。
海面に反射した光が、男の瞳の中を泳いだ。
月の光の射さない新月の夜、空から隠れるようにして、海の養い子は生まれると言われている。
古い養い子が死ぬか、姿を消すかした後、新月の夜に生まれた子供が次の養い子となる。
島にいくつかある船団の母船に、それぞれ1人ずつ、守り神として乗せられる風習になっていた。
養い子の乗った船は嵐に会うことはなく、豊漁に見舞われることが多い。
それは自分の子供を育てる船乗りたちへの、海からの贈り物だと信じられていた。
通常、海の養い子は生涯を通して船から降りることはなく、船の上で一生を過ごす。
怪我をしたり、病をえたりすることはほとんどないが、寿命を全うすることも、また稀だった。
多くの養い子は、生まれた時の様な新月の夜に、誰にも知られることなくひっそりと姿を隠してしまう。
船乗りたちは、養い子が海へ帰ったと盛大な宴を催し、見送るのが通例だった。
そして船を港へ戻し、次の養い子が生まれるのを待つ。
すぐに生まれることもあれば、何年も生まれないこともあった。
その間、船乗りたちは遠い沖へ出ることはなく、近海で生きるための最低限の漁をして暮らす。
海とともに生き、波に任せて生きる海の民の島だった。
「それで、おじさんがその海の養い子だったの」
少年は遠い異国の話に興味を引かれたのか、身体を男の方へ寄せながら口を開いた。
「まあ、そういうことだな」
「でも、養い子は船の上で暮らさないといけないのに、おじさんは何でここで釣りをしているの」
少年の言葉に、男は苦笑いを浮かべた。
「それはだな、俺が出来そこないだったからだろうな、多分。
他の養い子に出来たことが俺には出来なかった。
だから海を離れ陸に上がって、こんな年になって、こうして釣りをしている。
いや、釣りをすることしか出来ないんだ」
少年は黙って男の横顔を見ていた。
周囲では相変わらず、老人たちが釣り糸を上げ下げしている。
「おじさんは僕と一緒なんだね」
ぽつりとつぶやいた。男は少し驚いた表情をしている。
「こんな中年を捕まえて、自分と一緒とは面白いことを言うな。
お前さんはまだまだ若い、俺とは全然違うだろう」
少年は何度か首を横に振った。
「僕は何をしてもだめなんだ。足も遅いし、成績も悪いし。
みんなが当たり前に出来ることが出来ないんだ。
それで、どこにいても、いつも一人なんだ。ね、おじさんと一緒でしょ」
男が声を立てて笑った。
周りの釣り人たちが、迷惑そうに顔をしかめるが、男は構わず笑い続けた。
「それは、確かに俺と一緒だ。俺も長いこと一人だったからな。
こんなに笑ったのも、いったいいつ以来か」
少年も男を見て微笑んだ。
「だがな、本当のところでは、やっぱり俺とお前は違うんだ。
俺にはそれしか生きるための道が用意されていなかったし、それすらも上手く出来なかった。
でも、お前さんには、たくさんの可能性と未来が残されている。
羨ましいじゃないか」
「僕にはおじさんのほうが、羨ましいよ。生まれた時から特別なんて、かっこいい」
波の音が大きくなり、色彩の一部が失われたように、海の色が暗くなった。
それまで子供を諭す父親の様だった男の口調が、ひとつ低くなる。
「人ではなく海の子として生まれ、一生を海の上で生きる、そんな人生が本当に羨ましいか」
「うん、普通よりもずっといい」
「そうか」
男は腰から使い込まれた肉厚なナイフを取り出すと、握っていた魚を手掴みのままおろし始めた。
ほとんど無意識に、流れるように手が動き、見る間に魚が切り身にされていく。
男は一口大の切り身を少年の前に差し出した。
陽の光を浴びて輝いていると見えた魚の身は、身そのものが光を放っているような、淡い海色の輝きを放っていた。
「これなんて魚」
男は少年の問いかけには答えず、食べてみろと切り身を差し出す。
少年は仕方なく切り身を受け取り、手掴みで口へと運んだ。
さっきまで泳いでいたとは思えないほど身は柔らかく、海水のほのかな塩分がより甘さを引き立てた。
「美味いだろう、それが海の養い子にだけ許された海の恵みだ」
男がにっこりと微笑んだ。




