海の養い子(1)
「頭の上には昼の青空があって、空の半分から下には夜が広がってるんだ」
煉瓦作りの朽ちかけた家々の連なる海岸線、街を潤す砂浜もなく、打ち寄せる波音も湿気た花火のように、どこか歯切れが悪い。
人々はその日の食事にありつくために、日がな一日、海に向かって竿を傾けている。
若者たちは、とうにこの街に見切りをつけ、都会へと移り住んでいった。
残っているのは、時代の流れに取り残された老人たちくらいだ。
夏も盛りを迎えると、申し訳程度に親の顔を眺めに来る息子や娘、その子供たちが訪れ、いつもよりほんの少し街に活気が戻ってくる。
海岸沿いの堤防を一人の少年が歩いている。
10才を少し超えたくらいだろうか。目元を僅かに覆う黒髪が風に揺れている。
華奢な身体についたアンバランスに長い手足をブラブラとさせながら、足元に視線を落としたり、海を眺めたりしている。
堤防ではいつものように老人たちが釣り糸を垂らし、その日の食事を狙っていた。
たまに訪れた家族に少しでもいい物を食べさせたいと、いつもより浮ついた雰囲気で竿が上げ下げされていた。
忙しなく釣りをする老人たちの列に一人、少し年の若い初老の男が座っていた。
長年潮風にさらされ、水気をなくした茶色がかった髪を風になびかせ、片膝を立てた態勢で水平線辺りにぼんやりと視線を投げている。
釣竿に片手をかけているが、注意を払う様子はない。
男の浮きが一つ、二つ小さく動く。
少年は小さく声を上げた。
男は竿に視線を向けることさえしない。
そうする間にも、竿の震えは勢いを増していく。
「ねぇ、引いてるよ。何で釣り上げないの」
男の真後ろまで足を進めたところで、少年は初老の男に声をかけた。
男は初めて気づいたように竿に視線を落とすと、ゆっくりと少年の方を振り向いた。
「引いてるな」
男はゆっくりと竿に視線を戻す。少年も同時に視線を竿に向ける。
小刻みに震えていた竿が、ピタッと動きを止めた。
「ほら、逃げられちゃった」
男は海へ視線を落としたまま、少年に向かって竿を差し出した。
「魚が欲しいのなら、この辺りはよく釣れるから、自分で釣るといい」
「魚が欲しいのはおじさんでしょ。せっかく獲物がかかったのに勿体ない」
少年はため息交じりに言葉を返す。
「若いうちから、そんなに生きることに一生懸命だと、いい大人になれないぞ」
男は肩越しに少年を見ると、僅かに微笑んだ。
「いいか、俺はここで釣りをしていたわけじゃなく、海を眺めていたんだ。
何も持たずに海を眺めていると、周りの人間が怪訝な顔をするから、仕方なく釣竿を垂らしていた。
だから、魚がかかったからといって、釣り上げる必要もないんだ」
少年は納得のいかない表情のまま海を見ている。
「食べる気もないのに針にかけられて、魚だって可哀そうだ」
男は竿を軽く振ると、針を手元へ引き寄せた。
「そうだな、俺もそう思う。だから、せめて針には餌をつけないようにしているんだ」
そう言って、むき出しの釣り針を少年に向ける。
使い込まれた釣り針は、陽の光を反射して鈍い輝きを帯びていた。
「うそだ、餌をつけないで魚がかかるわけないよ。餌がないのは、さっきの魚に取られたからでしょ」
男はにっこりと微笑むと、見てろ、と餌のついていない釣り針を海へ放り投げた。
釣り針は緩やかな放物線を描き、着水する時に小さく飛沫をたてた。
少年は針の先を目で追いながら、堤防の縁に腰を下ろす。
糸の先ではゆらゆらと波が揺れ、乱反射した陽の光が、賑やかに海面を彩っている。
1分経ち、2分経ち、3分あまりが経過する頃、釣り糸に変化が表れた。
小さなあたりがいくつかあり、すぐに勢いよく海中へと糸が引き込まれた。
男は当然という顔で、引き込まれる糸を悠々と泳がせ、魚と何度かやり取りした後、大きく竿を上へ振り上げた。
弾けた水しぶきが宙を舞い、舞い散る桜の花びらのように折り重ねって、少年の周りを取り囲んだ。
水しぶきが落ち着いた時には、男の手にキラキラと光る魚が握られていた。
両手で少し余るくらいの身体は、陽の光を受けてキラキラと輝いている。
「ほらな、言った通りだろう。餌をつけなくても、俺には魚がかかっちまるのさ。
俺は海の養い子だからな、仕方がないんだ」
男は少年の顔の高さに魚をかかげると、得意そうにそう言った。




