出発前の騒動
王都ティルサに程近い宿場町の一角。古びた佇まいの宿屋の一室の中で、フィーロスが窓辺に寝そべり、小さなあくびをした。同じくノワールもとぐろを巻いて、うたた寝している最中だ。王女であるエルシリアは鏡の前に座らされ、長い金髪を梳かしてもらっているところ。銀鏡に映る顔は嬉しそうでいて、同時に少し困っているようでもあった。優しげな顔をして王女の髪を梳かしているのはトビアスだ。朝日に照らされ、彼の凛々しい顔付きがますます美しく映えた。
「……気分が悪い、むかつく」
そんな早朝の清々しい空気をぶち破る声が唐突に響いた。あまりに直球過ぎて、棘があるどころか棘そのものでしかない。手を止めてわざとらしく大きな溜め息を吐いたトビアスの視線の先にいたのは、銀白色の長髪の少年だった。彼は壁に寄り掛かって立っており、トビアスをこれでもかとばかりに睨み付けている。
「はっ、気分が悪い、ね。なら代わりにやってみるか、魔物。女の髪を梳かしてあげたことがあるのか? え、どうなんだ?」
「……ねーよ、うるせぇな。それが悪いか、この女たらし」
牙を剥くが、トビアスにはさして効いていないようだ。挑発的な笑い声が返ってくるばかりだった。
「女に触ったことも無いのか。情けない蛇だな。ん、ああ、そうか。仕方ないのか? 手なんか無いもんだから」
「……死にたいならいつでも言えよ。好きなやり方で殺してやるぞ」
「言ってろ。どうせ、ヘタレには何も出来ないからな」
言われた瞬間、ミズガルズは本気でトビアスを叩き殺してしまいそうになった。やろうと思えば簡単にやれただろう。だが、視界の端にエルシリアの切迫した表情を見つけてしまったがために、少年の手は動きを止めた。そうして爆発寸前の苛々を溜め込んだまま、彼はトビアスのことを視線だけで呪い殺せそうなほどに睨み、すぐに部屋を出て行ってしまった。
◇◇◇◇◇
「……くそっ、本当にむかつく野郎だ」
ぼやきながらミズガルズは宿場町の通りを歩く。銀髪に真紅の瞳という珍しい出で立ちをしているからか、幾つもの視線に晒されたが、そんなことなどまるで気にならないくらい彼は苛立っていた。理由ははっきりしている。当然ながらトビアスが原因だ。あの鼻持ちならない騎士のせいで少年の気分は最悪だった。
殴らなかった自分を褒めてやりたい。ミズガルズがそんな風に思っていると、彼はいつの間にか開放的な広場に出た。石畳の賑やかな場所だった。老若男女様々な人々が集まり、好きなように好きなことをしている。楽器を弾いている者もいれば、風呂敷を広げて雑貨を売っている者の姿もある。その中でミズガルズの目が止まったのは、大きな掲示板とそこに集う人々の姿だった。
「あの……何かあったんですか?」
興味を惹かれて集団に近付いた少年は、一番近くにいた男に声をかけた。彼は驚いたような表情を見せたが、親切に教えてくれた。
「あぁ、これね。最近の大きな出来事が貼ってあるのさ。国王様が魔物に乗っ取られていたこととか、ディレンセンが撤退したこと……それに炎竜がアスキアの守護竜になったことも。一番新しい知らせは、あの世界蛇ミズガルズがディレンセンの撤収と魔王の消滅に関係していたらしいっていうやつだよ。ほら、書いてあるだろ?」
男はどうやら誰かに教えたくて仕方なかったらしい。自分がやったことでもないのに、非常に自慢げな様子だ。ミズガルズは苦笑せざるを得ない。何せ、自らに関することだ。まあ、こうして人々の噂になっていること自体は決して嫌ではないが。
「でっかくて人喰いの恐ろしい魔物だって聞いたんだけどなぁ。案外、俺たちの国を救ってくれたりしてな。あんたはどう思う?」
「さ、さあ……? そうなると良いと思うけど……」
あまり長居し過ぎてボロでも出したりしたら目も当てられない。そろそろこの場からお暇しよう。
「おい、貴様らっ! 根も葉もない与太話を載せた掲示板などを読むな! 国王陛下の御命令だぞ、集団を作るな! さっさとそこから離れろ!」
響く大声。思わず溜め息を吐きそうになってしまったミズガルズがちらりと見た先、そこには機械式の銃器類でしっかりと武装した兵士たちが広場に立ちはだかっていた。ああ、どうして毎回こうなるのだろうか。災難という災難に呼ばれている気がする。
「うるせえ! 新しい武器を手に入れたからって、威張るんじゃねえよ! お前ら、国王の振りをした魔物になんか仕えていやがるくせに!」
「そうだ、そうだ! 俺たちの税金で良い暮らししやがって! 国の軍隊はとっとと町から出て行け」
「何様のつもりだ! バルタニアは自由の国だぞ!」
人々が勢いに乗って捲し立て始める。どれも兵士たちの怒りの火に油を注ぐような調子の言葉だ。見る見るうちに彼らの顔が赤くなっていく。これは早く退散した方が良さそうだ。
「おいっ、そこの銀髪! 動くな、それ以上動いたら撃ち殺すぞ!」
そろそろと逃亡しようとしていたミズガルズを見つけて、兵士が怒鳴り声を上げた。わざわざ撃たれたくはないから、少年は仕方なく止まる。けれども、彼はそこで黙って俯き続けるような性格でもなかった。
「……どうぞ? 殺れるもんなら殺ってみせてくれよ」
彼はニヤリと笑う。それから身体をふっと前の方に押し出した。兵士たちが思わず銃口を向けたものの、ミズガルズは彼らが視認出来ないほどの速さで、その間をするすると走り抜けた。あっさりと抜き去られた兵士たちの手に握られた長銃がバラバラと崩れ落ちる。呆然とする者、恐怖の悲鳴を上げる者など、反応は様々だった。
「お、お前、お前、はもしや……」
「は?」
何やら尋常ではない様子で震え出した兵士の様子にミズガルズは少なからず疑問を抱いた。それだけではない。何故だろう。何だかとても嫌な予感がする。
「ぎ、銀髪に真紅色の目! おまけに背の低い、女のような容姿! ま、間違いねえ! お前が巷で噂される世界蛇ミズガルズだな!?」
「…………はい?」
何故だ。わけが分からない。どうしてこんな末端の兵士にまで正体が露見しているのだ。教えたつもりはないはずだ。
「……なんで知ってるんだ?」
「え、やっぱ当たってたのか……じゃない、えと、元騎士団長のトビアス・トラショーラス氏を始めとした複数の目撃情報を総合した結果だ! 文句があるか!」
「いや、文句はないけどさ……」
文句があるとすれば、トビアスに対してだった。本当に余計なことばかりやらかしてくれる男だ。やはりあの邪魔者はどさくさに紛れて消してしまった方が後々のためになるだろうか。本気でそう思えてしまうから、少年はますますげんなりとした。
兵士の言葉を聞いた群衆がざわつき始める。それもそうだろう。噂にしていた魔物が今目の前にいる少年なのかもしれないのだから。好奇と期待の視線を彼らから、そして恐怖の視線を兵士たちから受ける中、ミズガルズは小さく溜め息を吐いた。
「まあ、何だ。とりあえずここは……先に行かせてもらうからな!」
言い終わるなり少年はその身を白き大蛇へと変貌させた。さらには翼を生やし、一気に空中へ向けて飛翔する。眼下では小さくなった町の人間たちがこれ以上ないくらい騒ぎ立てていた。お調子者なのか、手を振る輩までいる始末だ。そんな光景に少し気持ち良さを感じた後、ミズガルズはエルシリアの下へと向かう。そうだった、迷うことはない。彼女と共に行く目的地は最初から決まっていたのだから。先延ばしは無しだ。今こそ全てを終わらせに行こう。
◇◇◇◇◇
自らに向けての口説き文句を聞き流しながら、エルシリアは窓際に寄り添い、外の青空を見ていた。時折、白い雲が風に乗って流れていく。そこだけ一見すると平和な風景だ。けれども実際に彼女を取り巻く状況は良くない。国を治める王である父は魔物に身体を乗っ取られ、国政は滅茶苦茶な状態。彼女も一度はディレンセンへと追いやられた。
問題は他にも山積みだ。国の中枢が上手く機能せず、おかしなことになれば、地方に対する支配力、影響力は確実に弱まる。そうなれば、地方の大貴族たちは黙っていないだろう。彼らの中には当然ながら王国に反感を持つ者たちがいる。このままでは、いずれ酷い内戦は避けられない。何とかしなくてはいけなかった。
「王女様、王女様、聞いてますか?」
女遊びが大好きな幼馴染の騎士がしつこく聞いてくる。エルシリアはうんざりして、内心で深い溜め息を漏らしたくなった。この男、トビアスが何を欲しているのか、彼女はちゃんと分かっていた。それは彼女自身だ。トビアスは明らかにエルシリアを自らのものにしたがっていた。だから、こうして積極的に近付いて来るのだろう。エルシリアの方はそんな気は無いというのに。
「……どうかしたか、トビアス」
「ええ、王女様。思ったんですが……俺たち二人だけで何処か遠くへ逃げませんか?」
「…………何だって……?」
王女は信じられないという思いを込めて、トビアスの爽やかな笑顔を凝視する。晴れやかな表情を見てしまうと冗談を言っているようには思えない。だが、逃げるだと? どこへ逃げると言うのだ。そもそも、どうして逃げなければならない?
「意味が分からないぞ、トビアス……。お前、祖国を見捨てるのか? 家族だっているのに……」
エルシリアが呆然として呟く。しかし、相対するトビアスは全く動揺らしい動揺を見せない。余裕が端々から感じられる態度だった。
「……もう、この国は駄目でしょう。王は魔物に取って代わられ、大臣や貴族たちはそれにペコペコと追従する。民からは税ばかり取り、彼らの生活は何ら顧みない。おまけに軍事侵攻も止めない始末だ。これじゃ、近い内に他国に攻め込まれるだろうし、内乱も起きる。……バルタニアは崩壊する」
王女は絶句して何も言えなかった。トビアスの言うことは確かに正論だろう。だが、何故だ。正論なのに、他人事であるかのように話している風に聞こえてしまう。彼は国の騎士ではなかったのか。
「た、確かにそうかもしれない……けど、お前にだって大切な家族がいるんじゃ」
大切な家族。そう言った瞬間、エルシリアはトビアスの笑い声を聞いた。何だろう。それはとても嫌な感じのする笑い声だった。
「家族、ね。違うよ、王女様。俺とあいつらは世間体を維持するためだけに繋がってるようなもの。家族だなんて、とても呼べないね」
「トビアス……お前……嘘だろ……?」
何を言えば良いのか分からずに呆然としていると、視界の中のトビアスが急に動いた。そして、あっという間にエルシリアは床に組み伏せられた。瞬時に状況を理解した彼女の頭に血が上る。当然ながら、上にのしかかる騎士を押し飛ばそうとした。だが、力の差は歴然としていて、全く動かない。
「トビアスッ! 何をしているのか、分かってるのか!? お前が押し倒しているのは王女だぞっ!」
王女は怒りも露わに頬を赤くして叫ぶ。しかし、トビアスは涼しげに笑っているだけ。エルシリアもこれにはさすがに焦りと恐怖を感じざるを得ない。馬鹿でもないし、世間知らずでもないのだ。この状況が何なのか、分からないはずがない。
……襲われる……。
怖くて、怖くて、今にも震え出しそうだった。本当は泣いてしまいたいくらいだった。でも、そんなのあまりにも格好悪い。本当に情けない。
「この卑怯者!」
そう叫んでトビアスに不意に飛び掛かった小さな影。それは今の今まで眠っていたはずのフィーロスだった。淡い桃色の猫は勇敢にもトビアスの背に飛び乗ると、そこに爪を立てて、強く引っ掻いた。
「ぎゃあっ! 何をする、畜生が!」
悲鳴を上げた青年が慌てて飛び退く。そして、その異様にギラついた瞳がフィーロスを捉えた。逃げて! エルシリアが大声を出す前にトビアスによって、猫は思い切り蹴り飛ばされた。
「ふにゃあっ!」
可愛らしくも痛々しい叫びが上がった。そのままフィーロスは壁に激突し、動かなくなる。エルシリアは震えていた。恐怖と怒りによって。
「トビアス……私は恥ずかしいよ。お前みたいな男と幼馴染であることが。お前は、お前はとんでもない愚か者だぞ……っ!」
「好きに言ってくれよ、王女様。俺はやりたいことをやって、欲しいものを手に入れる。これからはそうすることにしたのさ。そうだな……手始めに王女様、いやエルシリア。俺はずっとお前が欲しかったんだ、ガキの頃からな。こいつらを殺した後で、俺と一緒に楽しもうぜ?」
涼しい顔で言ってのけ、かつて勇者や英雄と呼ばれた若い騎士は剣を抜いた。切っ先にいるのは漆黒の竜蛇、ノワール。こんな状況にあるというのに、未だに呑気に眠りこけている有り様だ。このままだと、間違いなく叩き切られてしまう。もうやめて。エルシリアが涙声を出しそうになった瞬間だった。
『…………おい、これは一体どういうことなんだ?』
窓の外に目をやると、そこには真紅の双眸を細めた、白銀の世界蛇がいたのだった。




