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密かな因縁

 月明かりが葉と葉の間から漏れる、静かな夜の森。夜行性の鳥の鳴き声が妙に大きく響き渡る。あたかも縦笛のような優しげな音色を奏でながら。そこに夜露に濡れる下草を踏む音が混じった。足音の主は銀色の長髪を揺らして、如何にも退屈そうに歩いていた。時折立ち止まると、その真紅の双眸は黒い夜空に浮かぶ銀月に向けられた。


「……うーん、暇だ……」


 大きめの溜め息が少年の口から漏れ出る。それから彼は辺りを見回し、手近な切り株を見つけて、そこに座った。そして手持ち無沙汰な様子で頭上を見上げる。月が枝葉の向こうに見え隠れしている。綺麗だな、と、少年は感じた。けれど、その後が続かない。確かに綺麗だ。しかし綺麗な月を眺めているだけでは、あまりに退屈すぎた。


「……くそっ、トビアスの野郎。俺だけ追い出しやがって……」


 あどけない少年の姿に人化したミズガルズが憎々しげに呟いた。瞳孔は鋭く細まり、口元から牙が覗く。エルシリアのそばに居られなくなった原因である騎士を思い浮かべるなり少年は立ち上がり、苛立たしさも露わに近くの立木を蹴り付けた。静かな夜に似合わぬ大きな音が響き、やや細かった立木は根元から地面に倒れた。

 それには折った張本人も驚愕を隠せず、パチパチと両目を瞬かせながら、再び切り株に腰を落ち着けるしかなかった。そして森にもう一度静寂が戻る。これでまた振り出しだ。テレビゲームも携帯電話も存在しないこの世界では、娯楽が圧倒的に少ない。元からこの地で生きる現地人たちにとってはそれが当たり前なのだし、それで良いのだろうけれど、元々地球の住民であるミズガルズにはかなり辛いものがある。


「何話してんのかなぁ……」


 自然と溜め息が漏れる。聞けばエルシリアとトビアスはいわゆる幼馴染という関係だそう。道理で親しげなわけだ。エルシリアの方もさほど嫌そうではなかったし。と、そこまで考えたところで、ミズガルズは認めざるを得なかった。あの王女様にどうしようもなく惹かれていることを。それが分かるだけにエルシリアとトビアスが仲睦まじく話しているであろうことが気に食わない。むしゃくしゃとするし、とにかく落ち着けない。


「こんな所にいらしたのですか、ミズガルズ様」


 やけに抑揚の無い調子の声音が浴びせられた。ミズガルズが振り向けば、そこには淡い桃色の毛並みをした、耳の長い猫がいた。猫らしくほとんど足音を立てずにやって来て、少年の膝の上に飛び乗ってきた。銀髪の彼は驚いたものの、この不思議な猫の好きにさせることにした。

 ミズガルズの膝上でフィーロスは器用に体勢を安定させて、主を見上げた。視線に気付いたミズガルズはおもむろに手を伸ばし、桃色の猫の身体や頭を優しく撫で回してやった。その度にフィーロスが心地良さそうに鳴く。猫特有の甘い鳴き声だ。なかなか癒されるひと時だった。



◇◇◇◇◇



「……そう言えばミズガルズ様。バルタニアの国王に取り憑いた魔物を滅した後はどうなさるつもりなのですか?」


「んー、まだ何も考えてないけど……。フィーロス、お前、気が早くないか? 焦る必要は無いだろ」


 膝の上で丸まるフィーロスをそっと撫でてやりながら、ミズガルズは笑う。今まで何度か修羅場を乗り越えてきたためか、幼さの残る横顔には幾らか余裕が感じられた。挙句の果てにあくびまでしてみせる。


「……ま、全部終わったら、色々とやってみようと思ってるよ。もっと強い魔法の研究とか世界の名所巡りとかさ」


「それは良いですね。その時はご一緒しても?」


「もちろん、良いに決まってる」


 そう言ってミズガルズは微笑んだ。それからすぐに表情を改め、決意を新たにした。やると決めたことはやらなくてはならない。平穏を取り戻し、この地でゆっくりと生きていくためにも、王に取り憑いた魔物の征伐は絶対だ。それでようやく一区切りがつくといったところだろう。誰にも邪魔されない自由が手に入るのだ。


「なぁ、フィーロス。エルシリアから聞いたんだけど、敵はアビスパスって名乗ってるらしい。……お前、知らないか?」


「アビスパス……ですか? 残念ながら耳にしたことは無いですね。私も下界のことにはあまり興味が無かったので」


「……そっか、それなら別にそれで良いんだけど。……何だか少しだけ不安な気もする」


 怖いのですか、などと猫が聞いてくるものだから、まさかと言って少年は軽く笑い飛ばしてやった。だが、何故だろうか。大して寒くもないのに悪寒を覚えた少年は、派手なくしゃみをしたのだった。



◇◇◇◇◇



 魔物は深い憎悪の中にいた。燭台に灯された蝋燭の炎が淡く照らす部屋の中で、机に置いた両の拳を震わせている。取り憑いた国王の眉間に皺を寄せて、ギリギリと歯軋りの音を響かせた。


「……また、貴様なのですか……」


 憎しみの込められた、低い声。それは怨嗟の呟きだった。そして次の瞬間には、呟きから怒号へと変わる。


「また、貴様なのか! 私の野望の邪魔立てをするのはぁ!」


 アビスパスが机を叩き、アシエルの声で怒りの叫びを上げた。感情が高ぶったためか、その両眼は人間の目から濁った橙色の魔物のものへと変化している。普段は冷静沈着な彼にしては珍しく、はっきりと感情が剥き出しになっていた。


「……よくも、よくもディレンセンとの同盟を白紙にしてくれましたねぇ。 あの炎の竜共々、本当に貴様は憎々しい……」


 唇を噛みながら、アビスパスは過去の記憶を呼び出す。自身の凋落の原因となった、忌々しい記憶を。もう、どれくらい前の出来事だったかは正確には覚えていない。五千年……いやもっと前だっただろうか。その時のアビスパスはもっと勇ましかった。今のように人間の身体の内側に隠れなくてはいけないような脆弱な姿ではなかった。それだけでなく、彼は全てを手に入れる目前だったのだ。あの運命の日、真紅の竜と白銀の蛇に野望と肉体を打ち砕かれる瞬間までは……。


「私は蘇ったぞ、愚かなる世界蛇よ……。次に再び会う時、私が貴様に引導を渡してやる」


 かつて世界で最も覇権に近かった魔物は不気味にほくそ笑んだ。そして憎み続けてきた仇敵の名を呟いた。


「早く来い、ミズガルズ……」

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