辺境の裏賭博場
少しばかり、国内の状況を見て行きたい。
エルシリアのそんな一言が事態の始まりだった。彼女とミズガルズ、そしてノワールとフィーロスは広い街道の上を歩いていた。彼らが今いるのはバルタニア王国の最北部の辺りだった。だが正式な手続きを経て、ディレンセンとの国境を越えたわけではなかった。国境では確実に検問があることが分かっていたし、そこでエルシリアの素性が露見してしまうのを避ける為だ。いつものようにミズガルズが遥か上空を飛び、適当な森を見つけて舞い降りたのだ。
時折、街道から外れた草原の上に物々しい戦車が走っている。その様は無骨であり、この世界にはやはり似合わない。命を消す為に存在する鉄の兵器と命溢れる風景は相反するものだった。
だが、そんな戦車が走り抜ける横でも、街道はそれなりに賑わいを見せていた。幾人もの人々が徒歩や馬車で移動していた。町が近いのだろうか、南に向けて歩くにつれ、流れる人の数は次第に多くなった。エルシリアも行商人の一人から、鍔の広い帽子と薄い生地で出来た上着、それと安物のズボンを買いたがったが、生憎持ち合わせがなかったため断念した。
「……はぁ、せめて顔だけでも隠したいんだがな」
「そうだな、何とかしないと……」
エルシリアは胸にフィーロスを抱きかかえ、なるべく顔を見られないよう下を向きながら歩いていた。気持ちはよく分かる。幸いなのは、道行く人が誰もエルシリアの正体に気付いていないらしいことだ。もっとも見目麗しいために誰かとすれ違う度、少なからず注目を受けていたが。
そうしていると、街道沿いに発展した宿場町に近付いてきた。大き過ぎず、かと言って小さ過ぎることもない、それなりの規模の町のようだ。遠目から見ても賑わっている様子が分かる。とりあえず、寄ってみても損は無いだろう。
「エルシリア、あの町を見て行こう?」
「ああ……そうしよう」
◇◇◇◇◇
その宿場町の名はアルサレスと言った。様々な人が行き交う街道沿いにあるためか、市場がよく発達していた。大通りに沿って沢山の露店や茣蓙を敷いた商売人が並んでいた。品物を売る側が張り上げる大声や食料品の発する匂いに彩られた市場は、一見すると戦争や混沌とはかけ離れているように見えた。
上辺は平和に思える市場の中をミズガルズたちは歩いた。ノワールだけは自身の身体の大きさを考慮してか、少年の上空をゆったりと飛んでいるが。そんなこんなで何も買えぬまま、物見客とならざるを得ない彼ら。エルシリアに至っては髪留めすら買えない今の状況が悔しいのか、明らかにしょぼくれている。
まったく格好悪い奴だな……。王女様に暗い顔をさせてしまう自分を情けなく感じていたミズガルズ。そんな彼の耳に、とある男の大声が届いた。その言葉の内容に少年は反射的に反応した。
「どうだい、皆さん! 長旅の疲れをカジノで癒さないかい? 何でも揃ってるよ! 皆さんの腕と運次第で稼ぎ放題でさぁ!」
通りの真ん中で叫ぶ若い男。首から看板をぶら下げた彼は、賭博場の客引きだ。何人もの人々が足を止め、チラシやら案内状やらを受け取っている。ミズガルズは考えた。これに乗っからない手は無い、と。戸惑うエルシリアを説き伏せて、客引きのところへと彼は走った。
「チラシ、一枚くれない?」
話しかけられた客引きの男は驚いたようにミズガルズを見た。それから無言のまま、少年とエルシリアをまじまじと見つめる。二人がギャンブルをやるような大人には見えなかったからだろうか。
「ん〜、あげるのは別に良いし、君らみたいな子供が賭け事をするってのも、僕個人の考えとしては特別問題無いと思うんだけどさ……」
じゃあ、何が問題なのだ。何故、そこで言い淀む?
「ぶっちゃけ聞くけど、君ら、元手のお金は持ってる? いや、長いことやってるとさ、分かってくんだよね。カネ持ってる客と無一文の奴の違いが、さ」
元手が無いと賭け事は出来ないよ。そう言ってくる客引きの声は、ミズガルズに届いていなかった。なるほど、たかが客引きと思って舐めていたが、世の中そう上手くは行かないらしい。けれど、ここですごすごと引き下がるわけにはいかなかった。
「……あんたの言う通り、元手は無い。俺たちは無一文だ。でも、それでも金銭が必要なんだ。助けてくれないか?」
笑われて一蹴されるだろう。少年はそう思った。しかし彼の予想に反して、客引きの男は笑っていた。不敵と言うか不気味と言うか、何となくだが不穏なものを感じさせる笑みだった。
「……そこの黒い蛇と猫ちゃんは君らのペットかな? 大切なんだろ?」
「? あ、ああ」
「その子らを命の危険に晒しても良いってんなら、方法はあるよ。たんまり稼ぐための手段がね」
「……それはどういう……?」
困惑する少年たちに客引きの男は再び笑いかける。そうして、「ついて来な」と言ったと思えば背中を向けて、スタスタと歩き始めたではないか。ミズガルズたちはわけが分からなかったものの、その後ろに続いた。
◇◇◇◇◇
薄暗い空間、埃っぽい空気、人間の囁き声。そんな中でエルシリアは緊張から硬直していた。フィーロスを抱く腕に力が入る。縮こまっていた彼女の視界を照らすように、複数の燭台に火が灯った。空間の全貌が明らかになる。そこは地下に築かれた巨大なコロシアム……闘技場だった。
エルシリアの細い身体が微かに震えた。市井をよく知らない彼女とて賭博場というものの存在は知っていたし、その中には裏賭博と言われるような違法性の高いものもあるという話は聞いていた。けれど、実際にその裏賭博の現場に当事者として立つと、何だか怖いものがある。金銭を賭けて外側から楽しむ方なら、まだ良い。しかし、エルシリアは金銭を求めてギャンブルに挑む方なのだ。逃げ場が無かった。
エルシリアが挑むのは、使役する魔物を戦わせるルール無用のギャンブル。勝つためならば、どのようなことをしても構わない。勝てば相手からカネを巻き上げ、逆に負ければ財産を相手に差し出すことになる。払うカネが無くなってしまった時は……その命を奪われることさえある。人命を何とも思っていない狂気に満ちたゲームだ。
だが、王女には確かな勝算があった。何故なら今から戦うのは隣にいるノワールと……ミズガルズだったから。やる気に溢れる二匹の蛇の横で、王女は闘技場全体を見上げた。そこは擂り鉢状になっており、数え切れない人々が観客として集まっていた。汚らしい野次が飛びかっていた。まだ試合は始まってもいないというのに。
「よう、姉ちゃん。怖いのかい? 震えてんぜ」
横から声がかかる。しゃがれた声の持ち主は髭面で肥満体質の大男だった。大剣を手にしており、粗暴な印象を抱かせる人間だ。そんな彼がエルシリアの横でにやけた笑いを浮かべていた。雰囲気から考えると、この男は今回が初めての出場ではないだろう。そしてもう一つ、こちら側の同じ控え室に待機しているということは、暫くは敵対しないということだ。
「少しは怖いさ。……ところで、あなたの魔物は?」
エルシリアが会話に応じてきたことが意外だったのだろう。大男は驚いた顔をしたが、すぐに楽しそうな表情を見せた。
「ああ、俺のダチか。こいつらだよ。ゴブリンがトゥート、オークの方がエンテだ」
大男のそばで呑気に会話を交わしていた小柄なゴブリンと大柄なオークがエルシリアの方を向いた。どちらもくすんだ緑色の肌をしていて、顔面を含め、身体のあちこちに古傷を負っていた。ずる賢そうなトゥートはにんまりと笑い、「よろしく」と言って、片手を上げてみせた。エンテの方は恐縮したかのように、控えめな会釈をした。
「わりぃな、姉ちゃん。トゥートは社交的なんだが、エンテは引っ込み思案なんだわ。オークにしちゃ珍しくな」
「は、はあ……。そうみたいですね……」
「姉ちゃんの相棒はそっちの二匹の竜蛇かい? 白と黒なんて、なかなか良い組み合わせじゃねぇか」
人間は必ずしも見た目通りというわけではない。よく、そのように言われるが、この大男もそれに当てはまるのだろうか。さっきから馴れ馴れしいというか変に友好的だった。その風貌からは粗野な印象しか受けないのだが。
「……あの、あなたはこういうことはかなり長くやっておられるので?」
「おう、随分な常連さんだぜ。でも、今回が最後の出場になるな」
どうして、という疑問をエルシリアが口に出す前に、大男が勝手にペラペラと喋り始めた。どうも、誰かに聞いてもらいたかったらしい。
「この町からそろそろ出ようと思ってな。ここに流れ着いて、もう何年だろうな……。平たく言うと飽きちまったのよ。聞いた話じゃ、北の帝国が急に戦争をやめちまって、バルタニアとの同盟も消えたみてぇだしよ。何だか、色々面白くなりそうだろ?」
セルジ・ラーゴだ。そう名乗った大男はその後も妙に友好的で、エルシリアは自分たちが戦う番になるまで彼と話し続けたのだった。もっとも、蛇体に戻ったミズガルズだけは何となく不満そうだったが。
◇◇◇◇◇
ついにその時が来た。エルシリアが戦う番である。尋常ではない熱気が彼女を出迎えた。同時に耳が潰れるかと思うほどの大歓声も。思わず顔を顰めたエルシリアの視界に一人の男と巨大な魔物の姿が映った。三つの頭を持ち、それぞれに三つの眼、合わせて九つの眼を持った巨大な猛犬の魔物だった。真ん中の頭の牙と牙の間からは何かの足が飛び出していた。夥しい量の血も滴り落ちている。魔物の前の地面には誰かが血塗れで倒れていた。恐らく女性だろう。そして次の瞬間、猛犬の魔物は彼女を思い切り踏み潰した。群衆が沸く。エルシリアは息を呑んだ。
「おいっ、彼女は初出場だぞ! いきなり、あいつと戦わせるのかっ!?」
後ろの方でセルジの怒鳴り声が聞こえる。この裏カジノの従業員に食って掛かっているようだ。どうして彼がそこまでエルシリアを心配してくれるのかは分からない。ただ一つ確かなことは、対戦する男はかなりの強者であるらしいということ。
「……ふふっ。まったく、物事は上手く運ばないものだな……。ミズガルズ、あの犬に勝てそうか?」
自分から聞いたにも関わらず、エルシリアはなんて可笑しなことを言っているのだろうと、笑ってしまった。聞かれたミズガルズの方も同じ気持ちだったようだ。
『エルシリア、それ……面白い冗談だな。……俺を誰だと思ってるのさ?』
「竜より強い、蛇の神様」
王女は悪戯っぽく笑い、首元に巻き付いたノワールの頭を撫でる。彼女はもう震えていなかった。
◇◇◇◇◇
結論から言うと、それは戦いにすらならなかった。最初こそ、猛犬の魔物は牙を剥き出しにして、エルシリアを噛み砕かんとばかりに襲い掛かって来たが、それを予見していた王女は素早く回避行動を取って避けてみせた。それから間髪入れずに犬の顔面目掛けて炎の魔法を放った。ルール無用なのだから、何をしたって構わないのである。
攻撃を受け、痛みに吠える魔犬。もちろん、その程度の炎はすぐに振り払われた。けれども、エルシリアたちにとっては、一瞬でも隙が出来てしまえば、もうそれで良かったのである。
隙だらけになり、その上怒りでエルシリアにしか目が向かなくなっていた魔犬は、上空から襲い来る蛇たちに気が付かなかった。白と黒の蛇は素早い動きで飛び回り、何度も何度も魔犬の身体に毒牙を突き立てては飛び去るのを繰り返した。巨体を振り回すものの、魔犬に成す術は無かった。蛇たちは鮮やかに避けて、襲撃を続けていく。結局、魔犬はそれほど時間を置かずに地面に倒れ込み、そのまま絶命した。男が対戦相手から奪いまくってきた大金はあっさりと王女様のものになったのだ。
『ミズガルズ様、まだ降りないんですか?』
『ん、もう降りたいか、ノワール? まだ初戦が終わったばっかだぞ?』
闘技場のど真ん中、エルシリアの足元でノワールは問うてきた。それにミズガルズが応じると、漆黒の竜蛇は少し考えてから言った。どこか、楽しそうな調子で。
『いいえ、御冗談を。ミズガルズ様と一緒なら、ノワールはどんな敵でも勝てちゃう気がしますよぉ』
『確かにそうだな。俺とお前ならどこまでも行ける気がするよ』
そうしている内にも、次の対戦相手が現れたようだった。向こうの控え室から出て来たのは意地悪そうな女と数十、或いは百匹に近いほどの妖精の集団。そのどれもが手に鋭利な得物を所持している。先の魔犬よりも倒すのに骨が折れそうな相手だった。
「む……あれは面倒だな」
王女様も同感だったらしい。難しそうに唸っている。
「なぁ、ミズガルズ。ノワールを一時的に大きくすることなんて出来ないかな?」
『……どうだろう、たぶん出来るとは思うけど』
「なら、頼む。ああいう小さくて数の多いのは、大きな攻撃で一気に叩き潰した方が良い」
『ん、やってみよう』
開始の鐘が鳴り響く。いかれた観衆たちの声は沸き上がり、異様な熱気が闘技場を包んだ。邪悪な妖精たちが一気に襲い掛かって来る。二匹の蛇を守るため、エルシリアが魔法で防壁を張った。すかさずミズガルズがノワールの首筋に噛み付いた。一瞬、苦悶の声を漏らした竜蛇の身体に起こった変化は明白だった。
たちまち、漆黒の竜蛇が巨大化を果たす。先の魔犬と大きさは殆ど変わらない。それに呼応してミズガルズも一瞬で身体を大きくした。そこにエルシリアが飛び乗り、飛翔の指示を出す。舞い上がった二匹の空飛ぶ大蛇にまとわりつこうと、先程より数が増えたように見える妖精たちが襲いかかった。耳障りな奇声を響かせながら。
それでもミズガルズとノワールが焦ることはない。ずっと昔から共に戦ってきたかのような連携で飛び回り、妖精の集団を面白いように翻弄する。わんわんと羽音を立てて妖精たちも飛び回るが、二匹の敵を捉えることが出来ない。攻撃しても流れるように避けられてしまう。
不意に二匹の大蛇が二手に分かれた。突然の動きに妖精たちは対応出来ず、空中で見事にまごついた。ほんの一瞬だったが彼らは闘技場の真上で一つの塊となって停止した。時間としては本当に数秒。けれども、エルシリアはその瞬間を見逃さなかった。
「今だっ、燃やして!」
漆黒の竜蛇と白銀の蛇神の口腔から強烈な炎が放射された。二つの火炎は真っ直ぐに妖精の集団へと飛来し、やかましい彼らを一匹残らず灰燼に帰した。まさに瞬殺。圧倒的な強さを見せつけて、王女と二匹の蛇は裏賭博場を黙らせたのだった。




