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孤島の夜

 真夜中を過ぎ、そろそろ日付も変わってくるだろうと思われる頃、アーディン郊外の草原地帯に一人の少年が佇んでいた。彼の足下には五メートルほどの黒い竜蛇がいた。上体を起こし、翼もはためかせて、飛翔の準備はほぼ万端だった。

 銀に輝く白髪の少年は、自らを落ち着かせるように一度深呼吸をした。そして、鮮血で染めたかの如く赤い双眸を静かに閉じると、ゆっくりと全身の力を抜いた。細く小さな身体が神々しい白光に包まれた。漆黒の竜蛇はその場から少し距離を取った。

 目映い光が収まった後、そこにいたのは大きな白蛇であった。体躯は漆黒の竜蛇の二倍ほど。一枚も欠けていない鱗は艶やかに煌めき、美しさに拍車を掛けていた。白銀色の胴の滑らかな側面には、青色と紫色の優美で複雑な曲線模様が描かれていた。頭から尾の先まで、丁度背骨の真上辺りに一直線に並ぶ黄金の刺も華やかな光を放っていた。

 頭部に目を向けると、青い角が四本生えている。硬質で鋭く、竜種の角をも彷彿とさせるものだ。眼光鋭い両の瞳は真紅。炎の色でも、花の色でもない。鮮やかな血の色だ。時々、チロチロと見え隠れする細長い二股の舌は揺らめく暗い炎のようだった。

 ミズガルズ。それが草原に顕現した白銀の大蛇の名だ。本来の全長は百メートルを優に超える。この世界で人間たちの文明がまだあまり発展していなかった頃から存在する、蛇の魔物である。その圧倒的な雄姿を描いた神話や伝説、幾つもの伝承によって半ば神格化され、実在する魔物というよりも、先人たちが創作した神話上の怪物と認識されていることが今では多かった。

 その力は到底人間の敵うものではない。過去の文献では、討伐に赴いた著名な冒険者や歴史上で勇者とまで呼ばれた英雄などを何人も葬り去っており、最上位の竜種にも劣らぬ強大な魔物とされた。もっとも、不死となり新たな力を手に入れ、さらに肉体に宿る精神体まで変わってしまった今、果たして過去と同じ魔物と言えるかは怪しい。


『さて……肝心の翼は……』


 伝説に謳われる蛇神は長い身体をくねらせ、その細身に宿る膨大な魔力を少しずつ放出し、操っていく。不定形のエネルギーを練り上げ、解体と再構成を繰り返して、理想の形状を探す。彼の頭の中に様々な形の翼のイメージが生まれては消えていった。蝙蝠のような薄い皮膜のついたもの、蝶の派手な羽、蜻蛉や妖精に生えている無色透明なもの、竜が持つ力強い翼……。


『……よし、こんなところだな』


 刹那、白蛇の背中に翼が現れた。ノワールと同じく、四対で計八枚。大空を舞う鷲や鷹のような猛禽類を思わせる、細かい羽毛に覆われた白い翼だ。もちろん魔力で構成した代物であるから、本当の羽毛ではないが、それでも傍目から見るといかにもふさふさとしていた。

 ミズガルズは首を曲げ、初めて作った自身の翼を凝視した。思いの外、上手くことが運んだようだが、ちゃんと飛べるのだろうかと、彼は我ながら訝しんだ。はっきり言って、それこそが一番の問題なのだ。見てくれはどうでもいい。外面が良くても飛翔出来なければ、何の意味も無いし、魔力の無駄使いだ。彼は不安げに白い羽を限界まで伸ばして、慎重に振った。すると空気を掴むかのような感覚を覚えた蛇神は、ノワールがいつもやっているように八枚の翼を少しずつ連動させながら、リズミカルに動かしていった。

 これはもしかしたらいけるかもしれない……。白蛇は水を得た魚のように滑らかに地面を滑り始めた。スピードを出して這い進む度に草原を覆う雑草が千切れていく。そして、獲物に飛び掛かるかの如く空中に身体を突き出した瞬間、背中の翼に強い魔力を込めた。

 ふわりと浮遊感に包まれる。十メートルほどもある体躯が、まるで鳥の羽みたいに軽くなったようだった。ミズガルズは余計なことは何も考えず、ただただ大空に向かって空中を駆け上った。ついには鋭利な尻尾の先端が地面から離れた。


『……おぉ……!』


 ミズガルズはいたく感動して、意味も無い呟きを漏らした。それから少しの間、作り上げた翼の具合を確かめるべく、そこらの空を飛び回った。どうやら魔力の翼は気を抜いたりしなければ保たれ続けるようで、自由な方向転換や急停止、急旋回、それにホバリングまで簡単に行えるようだった。まるで生まれた時から背にあったかのように、白い翼はミズガルズに馴染んでいた。


『……それじゃー、ミズガルズ様。そろそろ行きますか?』


 初の自力飛行を大いに楽しんでいたミズガルズの傍にノワールがやって来て、声をかけた。上機嫌で返事を返そうとしたミズガルズが驚きの声を上げたのは言うまでもない……。



◇◇◇◇◇



 まだ暗い夜空の下、穏やかな洋上を二匹の蛇が飛んでいる。片方は闇のような漆黒の蛇、もう一方は対照的な白銀の蛇だ。体色が全く似つかわしくないことを除けば、並んで飛行する二匹の姿は親子か或いは兄弟のようでもあった。


『ノワール。お前、話せたのか? 物凄く驚いたんだが……』


 白蛇の方、ミズガルズがすぐ隣を飛ぶノワールの方をちらっと見た。


『そうですよ、ノワールは話せるんです。ただ、まだ幼獣なのでミズガルズ様が本来のお姿に戻られた時だけ、意思疎通が出来ちゃいます』


 想像していたキャラと何だかかけ離れているな……とミズガルズは感じた。しかも本人から聞いたところによると、性別は雌だという。てっきり雄だろうと思っていたものだから、ミズガルズは登っていた梯子を外されたような思いだった。

 今まで何気無く傍にいた黒い竜蛇の秘密には驚かされていたが、ミズガルズは取り乱すこともなく案外落ち着いていた。この短い期間に色々な出来事を経験したのだ。それも怒涛の勢いで。ミズガルズは自分が急激に老成してしまったかのような気分さえ味わっていた。素直に成長したと喜ぶべきなのかどうかも彼は分からなかった。


『……まっ、道中の話し相手も出来たし、良しとするか……』


『そうそう、前向きに生きましょう! ノワールもミズガルズ様の旅の御供が出来て感激です。これから頑張っちゃいますよ!』


 すかさず明るく返してくるノワールに、ミズガルズは気分を良くした。沈みがちな旅路にこんな明るい相棒がいてくれて良かったと、彼はノワールの存在の有り難みを噛み締めていた。



 それから暫しの時間が経ち、ミズガルズとノワールはある小島に降り立った。さすがにたった一日で、大陸と大陸の間に横たわる海を渡り切れるとは彼らも思っていない。時間を無駄にすることは厳禁だが、限界というものもある。ミズガルズはノワールの体力や食事の必要性なども考えて、島の中心に広がる深い森林に着地した。

 上空から見た限り、島の面積は大したものではない。ほぼ円形で全体的に起伏が小さく、一番外側に白い砂浜が広がり、僅かな低木林の層を経て、中心部に鬱蒼とした熱帯林が広がっていた。川や大きな湖は見当たらない。唯一、熱帯林の真っ只中に小さな沼が一つあるだけだ。

 少しの間、滞在する分にはほとんど問題の無い小島だと思われたが、不安要素が無いわけでもなかった。ミズガルズもノワールも、小島の砂浜に設けられた明らかに人工の港に二隻の軍艦が停泊しているのを空から見つけていた。帆船ではない。鈍い灰色の堂々たる姿は、寧ろ地球に存在するイージス艦に近い。間違っても木製ではない戦艦の舳先には国旗と思われるものが揺らめいていた。三色旗だ。上から順に濃い赤、黒、紫紺という代物であった。


『間違いない……きっと、あれがディレンセン帝国だ……』


 ミズガルズはディレンセン帝国の国旗がどのようなものなのかは知らない。けれども、この世界で今、あのような金属製の巨大戦艦を造船出来るのはディレンセン帝国しかないはずだ。魔法を見切り、科学の発展をひたすら追い求めてきた彼ら以外に、あんなものを誰が造ることが出来ると言うのだろう。


『ノワールも見たことありますよ、あの旗。昔、ミリーザがやってた地理の宿題に載ってました。ミズガルズ様の推測通り、あれはディレンセンの船ですよー』


『やっぱりそうか。奴ら、低木林を切り開いて何か建物を建てたみたいだ。あれは……基地かな。どうも、この島はディレンセン領らしいな』


『……みたいですねー。まぁ、取りあえず食事を摂りましょう! 基地には必要以上に近付かなければ大丈夫ですよ』



 そんな会話を交わしながら密林の真ん中に降りた二匹である。互いに獲物を探しているため、今は静かだ。狩りの時に五月蝿い音を立てる蛇などいない。二匹の目は真剣そのものだ。血の色をした凶暴な双眼が薄暗い森の中で爛々と光る。


『…………おかしいな、獲物が全然いないぞ』


 長い沈黙を経てついにミズガルズが呟いた。食料を求めて島に降りてから随分と時間が経ったが、彼は未だに何も口にしていない。獣たちはどこに行ったのだろう。捕食者の到来を肌で感じ取り、巧みに身を隠してしまったのか。それとも、島に基地を建てた帝国兵たちによって駆逐されてしまったのか。どちらも有り得そうだ。


『さすがに何も食わないってのはなぁ……』


 腹を空かせたミズガルズは弱々しい口調で漏らす。不死であり、肉体は再生すると言えども、疲労や空腹感は感じる。それをそのまま放置しておくのは良くない。早いところ、胃を満たしておきたいのだが……さて、どうしようか。


『……あっ、そうだ! そうです! この島には丁度良い獲物がわんさかいるじゃないですか! ノワールは天才ですね~』


 その時ノワールが突然、嬉々として騒ぎ出した。丁度良い獲物とは、一体何を指しているのだろうか。嫌な予感を覚えながらも、ミズガルズは恐る恐る聞いてみた。すると。


『決まってるでしょう、ミズガルズ様。人間ですよ、人間! 大きさも手頃だし、弱いし、襲い易い。いやぁ、ノワールも今までミリーザの手前、抑えてたけど……人間の味、結構気になってたりするんです』


 ……精神的に幼くても、捕食者は捕食者だな。言っていることが怖い、物凄く怖い。仮にも雌……女の子が「人間は弱くて、襲い易い」だなんて。ミズガルズはほんの少し恐怖心を抱いた。

 ミズガルズの返事も待たず、ノワールは勝手にするすると先へ進んでしまう。仕方ないのでミズガルズもついて行ったが、向かう先の方から確かに人間の匂いがした。どうやら、ノワールは本気で帝国兵を襲って腹を満たすつもりのようだ。ミズガルズは人間を食い殺すことに大きな抵抗感を持っていた。だがそんなことをノワールに言っても、大いに不審がられるだけだ。『蛇のくせに、何を言っているんですか?』で終わりだろう。

 一度、辺りを伺う。が、やはり、腹ぺこ状態の竜蛇を満足させるような獲物の気配はしない。ミズガルズは目を閉じ、やれやれとばかりに長い首を振った。まさか、ノワールに草を食えとは言えない。蛇は肉食生物なのだから。


(……あぁ、参ったな)


 恐らくノワールは、帝国兵の身体に躊躇無く毒牙を突き立てるだろう。それが本来の彼女、竜蛇としての自然な姿で、下手に責めていいものでもない。それに空腹状態の時、目の前に無防備な人間がいたら、ミズガルズだって多分食い付く。人食いの経験は無いが、その時になったら勢いに任せてやってしまうだろう。


『……ミズガルズ様ー? どうしたんですか、早く行きましょうよ』


 少し離れたところからノワールが不思議そうに言ってきた。ミズガルズは弾かれたように動き出し、漆黒の竜蛇の後を追った。ついに人間としての一線を超えるんだな……と思いつつ。



◇◇◇◇◇



 少し前までバルタニア王国とディレンセン帝国に挟まれる形で存在していた、海沿いの小国、メアルタ王国。今や、その小さな国土のほぼ全域はディレンセン帝国によって支配されている。首都のメレキアを始めとした数々の港町には帝国の軍艦が何隻も停まり、出航を待っている状態だ。

 王国の北部、ディレンセン帝国との元の国境線近くの沖合に浮かぶ、イトゥア島も例外ではなかった。何の変哲も無い凡庸な小島であるものの、帝国軍は放って置かなかった。いずれはこの島にも巨大な軍事施設が造られる予定だった。役割としては戦艦の燃料の補給所、ミグラシアなど付近の島嶼国侵略の拠点などである。


 煌々と人工の光を放つ、帝国の仮設基地。そこから少し離れた森林の中に、数人の男たちがいた。全員、暗褐色の軍服を着た屈強な肉体を持った若い男たちであった。

 さて、もう少し詳しく状況を見てみよう。こんな夜更けに森の中で、若い軍人たちが何をしているのか。彼らは筋骨隆々な肉体を反らし、大笑いをしていた。嘲笑が浴びせられる先には、ある男がいた。同じ軍人だ。暗褐色の軍服に身を包んだ、年若い眼鏡の青年であった。軍人であるからには、当然それ相応の筋肉はついているだろうが、着痩せするようで、あまり強そうには見えない。顔立ちも地味で、いかにも気弱そうであった。


「……僕が何をしたっていうんだよ」


 眼鏡の青年が弱々しく呟いた。見た目通りと言っては悪いが、ぼそぼそとして聞き取り辛く、他人に暗い印象を抱かせるような声だった。


「あぁ!? とぼけんな、このグズ! 俺らが隠れて酒飲んでたのを上官の野郎にチクったのは、テメーだろうが!」


 眼鏡の青年は怒鳴りつけられる。へたり込む彼を見下ろしているのは、金色の髪をツンツンと逆立たせた若者だ。体格は非常に良く、背丈も二メートル近くある。周囲にいる他の者たちが控えめにしていることからも、恐らく彼がリーダー的存在なのであろう。

 眼鏡の青年はおずおずとしながらも、馬鹿の一つ覚えのように首を横に振り続けた。当然ではあるが、金髪のリーダーは苛立ちを隠せなかった。すぐに沸点を突破したらしく、青年の顔面を蹴り飛ばした。銀縁の眼鏡が宙を舞った。


「良いぞ、ミハイル! やっちまおうぜ、そんなヤツ!」


「ミハイル! ロマンなんか、ぶっ殺しちまえ!」


 たちまち物騒な声援が飛ぶ。金髪のリーダー……ミハイル・セマロフはすっかり気を良くして、ふんぞり返った。一方、木に激突して、まともに動けない眼鏡の青年……ロマン・レカシェンコは腫れた顔を上げて、ミハイルを睨んだ。そして、止せば良いのに余計なことを言ってしまうのだった。


「こ……この、野蛮人めっ……!」


「何だと、この雑魚が!」


 当のミハイルが怒り出す前に、彼の取り巻きが怒気を露にした。長髪でニキビ面の若者が大股の一歩を踏み出そうとする。が、まさにその瞬間、事態は大きく急転した。


「……いっ……たあああああああ!」


 ニキビ面はすぐに地面に崩れ落ちた。仲間たちがにわかに騒ぎ出す。足首を押さえ、尋常じゃなく痛がっているニキビ面の様子を見て、彼らはすぐさまロマンと呼ばれた眼鏡の青年を非難し始めた。


「おいっ、糞眼鏡! エゴールに何しやがった!?」


「な、何もしてない! 僕は何にもしてないよ!」


 止めどなく流れ出る鼻血を押さえていたロマンが慌てて否定した。場の流れは完全に彼がエゴールを傷付けた方向に向かっていた。ミハイルが再びロマンを痛め付けてやろうと動いた。


「蛇だ! 蛇がいる!」

 

 集団の一人が叫んだ。それを合図とばかりに、一匹の黒い蛇が木の枝から飛び立った。ミハイルが腰から携帯用の電灯を引き抜き、蛇の姿を照らす。宙に浮く蛇の背には、八枚もの翼があった。ぎらつく赤い双眸が獰猛な性格を如実に表していた。

 若者たちは軍人らしからぬ恐慌状態に陥った。腰に差した拳銃を抜き放ち、蛇に向けて無闇矢鱈に撃ちまくる。銃声が何発も響き渡るが、どれも当たらない。標的たる漆黒の竜蛇は人間たちを嘲笑うかのように弾丸を避け、空に舞う。そして、弾切れを起こした一人の兵士に向かい、紅く輝く炎を吐き出した。

 聴くに耐えない悲鳴が上がった。もたついていた兵士は顔面や胸を火炎に炙られ、堪らずに無骨な銃を取り落とした。人間の肉が焼ける嫌な匂いが漂う。そして、竜蛇はとことん容赦が無かった。猛獣は排したはずの小島で、見たことも無い凶暴な大蛇に襲われて、何が何だか分からないまま次々と毒牙に掛けられていく。兵士たちはまるで動きに付いていけず、地に倒れるばかりだった。


「こ、この化け物がぁ!」


 もはや丸腰の兵士の首を長い身体で締め上げながら、その肌に牙を突き立てようとしていた竜蛇に、ミハイルが飛び掛かる。手には大型のナイフが握られていた。このまま行けば、獲物に夢中な竜蛇は刃の餌食となるだろう。


『シャアアアアアアーッ!!』


 突如として響き渡った激しい噴気音。思わず震え上がるような大音量と共に姿を表したのは、漆黒の竜蛇よりも更に大きい、白い大蛇であった。

 ミハイルは反射的に飛び退いた。科学を信じる帝国人の彼がミズガルズのことを知るはずなどないのだが、きっと本能で危険を感じ取ったのだろう。もっとも、十メートル近い大蛇を目の前にして恐怖しない人間など、まず存在しないが。


『……お前に恨みは無いんだが、こっちは酷く空腹なんだ。すまないな』


 蛇が言葉を話すという有り得ない事態に混乱していたミハイルにミズガルズは襲い掛かった。恐らくミハイルは視認出来なかっただろう。瞬く間に彼は白い大蛇に巻き付かれて、締め上げられていた。ぎりぎりと締め付けられ、ミハイルは白目を剥きながら気絶している。かなりの抵抗感を覚えつつも空腹には勝てず、さっさと飲み込んでしまおうとした時だった。


「うわあああああ! やばい、やばいって、これは! 報告……報告に行かなきゃあ!」


 眼鏡のロマン・レカシェンコを除き、ただ一人生き残っていたニキビ面の男、エゴールが大声を上げながら、よたよたとした足取りで逃げ出そうとしている。ミズガルズは彼を逃がさないよう、ノワールに頼もうとしたが、肝心のノワールは食事の真っ最中だった。


「いっぎゃああああああああああああああああ! やめでぇ、やめでぐれぇええ!」


 凄惨な断末魔が木霊する。屈強な肉体を持つ兵士が鋭い毒牙に何度も何度も肉体を貫かれ……止めよう、ミズガルズは何も見なかったことにした。ちらっと視界に入った若い兵士たちの口の端からは泡が吹き出ていた。間違いなく蛇毒の作用だ。ミリーザはよくノワールを飼えていたものだと、ミズガルズは寒気を覚えた……。

 やれやれとでも言いたげに首を振り、白蛇は森の奥に逃げようとするエゴール目掛けて毒液を飛ばした。皮膚からも容易に浸透する、即効性の高い神経毒だ。狙い通り、エゴールはその場で少しよろめくと、声一つ上げることも叶わずに倒れた。今頃はもう虫の息だろう。それから、ようやくミズガルズは久方ぶりの食事に入ることにした。本日の献立は既にあの世に旅立った人間の男だ。正直なところ、食べたくない。最悪、途中で吐くかもしれないし。


(はぁ……取りあえず、蛇は獲物を頭から飲むんだったかな、確か……)


 再び嘆息する。いつだったか、映画の中で見たようなことを自分がやろうとしているとは……。大蛇の魔物に生まれ変わった以上、いずれは避けて通れぬ通過儀礼とは言え、気分の良いものではなかった。



◇◇◇◇◇



『……はぁ~、満腹です。もう、これ以上は入らないや』


 それからしばらくして、ノワールがそんなことを呟いた。幸せそうに喉をクルルルと鳴らし、舌をチロチロと出し入れしながら寝転がっている。それだけなら可愛いかもしれないが、口の周りが何やら赤いもので汚れているのと、細身の胴がまるでツチノコのように膨れているのは、かなり恐ろしい。何が起きたかは想像しない方がよろしいだろう。

 旅のお供である竜蛇から目を逸らし、ミズガルズは眼前の男を見た。完全に腰が抜けていて立つことも出来ず、大木の根元に寄りかかっている……ロマン・レカシェンコを。


「ひっ、く、くそぉ……! 何なんだよ、これ……僕のことも喰う気なのか? そうだ、そうなんだろ!」


 ロマンは可哀想なぐらい震えていた。割れた眼鏡の影響もあって、漂う悲壮感が半端じゃない。本当に軍人なのだろうか……と疑問が噴出するほどだ。


「……うぅ、もう嫌だ! だから軍隊になんか入りたくなかったのに……父さんの馬鹿野郎! 僕はここで死ぬんだあ!」


 何もかも諦めて開き直ったのかどうかは分からないが、ロマンは急に喚きだし、バタバタと暴れ始めた。その姿はかなり哀れだ。どう見ても軍人向きの気質ではあるまい。言い方は悪いが、こういうのをヘタレと言うんだろう。


『五月蝿い、少し黙ってろ』


 ミズガルズがドスの利いた低い声を出すと、ロマンはピタリと静かになった。涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃの顔を恐る恐る上げて、彼はミズガルズを見る。これでようやく話が出来るだろう。


『良いか、これから幾つか質問するから、ちゃんと答えろ。従わなかったらどうなるか分かるよな? 絞め殺して、頭から丸飲みにしてやる』


 鋭い噴気音を交えながら脅しつける。ロマンは面白いぐらいに何度も頷いた。


『……じゃあ、まず。この島は何と言う場所なんだ。帝国領なのか?』


「そっ、そうです! ここはイトゥア島と言って、元々はメアルタ王国領で、今はディレンセン帝国が実効支配してます」


『ふぅん、なるほど。じゃ、次だ。ここから帝都まではどれくらい時間がかかる?』


「それは……北西に向けて船を走らせると、三日程度でラニアプルグ港に到着して……そこから更に鉄道に乗って二日もすれば、帝都ダルバレスクです」


 ロマンの言葉を受け、ミズガルズは頭の中で考えていた。つまり人間の足だと、最低でも五日は要するらしい。ハイペースで飛べば、同じく五日、或いはそれより早く着けるかもしれない。


『そうか、助かった。……ところでお前の名前は?』


「えと、僕はロマン。ロマン・レカシェンコです……」


『ロマン、最後に一つ聞きたい。帝国の皇太子にバルタニア王国の姫君が嫁入りに来た話は、お前も知ってるのか?』


 ミズガルズの一番聞きたかったことだ。蛇神はじっとロマンのことを見据えている。


「も、もちろん、知ってますよ。帝国と王国の友好の証だ、って。ただ僕は僻地に飛ばされたから、詳しいことはちょっと……」


『分かった。教えてくれてありがとう。すまなかったな、脅したりして』


 ミズガルズがそう言うと、ロマンは怪訝そうな視線を向けてきた。てっきり殺されて喰われるとでも思っていたに違いない。


「あ、あの、殺さないんですか? 見逃してくれるの……?」


『ん? 何だ、喰われたかったのか?』


 すると、ロマンは激しく首を左右に振った。首が引き千切れて、どこかに飛んで行きそうだ。ミズガルズは堪えられず、思わず笑ってしまった。


『……冗談だ。けど、記憶は消させてもらうからな』


 ロマンが間の抜けた声を発する前に、ミズガルズの真紅の双眸がぎらりと光った。眼鏡の奥の青年の瞳はトロンとなり、数秒も経たない内に、彼は気絶してしまった。呼吸の音だけが聞こえる。

 一応、ロマンの身体に防寒の魔法をかけてやってから、ミズガルズも大きなとぐろを巻き、眠る態勢に入ろうとした。彼が目を閉じる前に傍で寝そべるノワールが不思議そうに言った。


『ミズガルズ様って……変な所で優しいんですねぇ? 食べもしないで記憶を消すだけに留めたり、終いには寒さから守ってあげるなんて』


『……変かな、やっぱり』


 すると、ノワールはゆっくりと首を振って否定した。


『いいえ、そんなこと無いですよ。優しいミズガルズ様、格好良いです。それにミズガルズ様のお考えにノワールごときがどうこう言える問題じゃないですからねぇ……』


 それきり会話は無くなる。何度か呼び掛けてもノワールは答えない。どうやら眠ったらしい。


 優しいミズガルズ様、格好良いです……か。その一言を思い返すと、少し嬉しく思ってしまう蛇神がそこにいた。こうして夜は更けていった。

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