少年の決意
アスキア神聖王国が炎の巨竜イグニスによって、ディレンセン帝国の魔の手から救われた日。その日を境に炎の竜を取り巻く状況は劇的に変わった。
その身を人間の姿へと転じたイグニスはアスキアの国民から英雄と讃えられ、国賓と同等の扱いを受けることとなった。長きに渡り名君と謳われる老王、ファルバラン・アスキア十世が正式に感謝の意を表し、あれよあれよと言う間に謁見までもが実現した。
奇跡の立役者となったイグニスはこの機会を好機と捉え、王国の王公貴族や有力者たちが一同に集まる前で、自身の疑いを晴らすことに成功した。
曰く、バルタニアを侵略した魔王というのは竜とは全く別の者であり、その者は既に消滅した。また、バルタニアの国王、アシエル十四世は魔王の下に従っていた何らかの魔物に身体を乗っ取られた。さらにイグニスはその偽の国王に名前を利用されただけであり、実際は無実である……。
もちろん、中には信じない者もいた。古代から伝承の残る伝説の竜とは言え、所詮は魔物。どうして魔物の言い分など信じられるのか、といった具合で。それに対して、イグニスを信じる集団と無礼なことを言って炎竜を怒らせでもしたらどうするのだと過剰に恐れる集団が反発して、その場は騒然となった。
結局、ファルバラン十世の一喝で混沌となりかけた大広間は静まり、彼が民衆や貴族、兵士たちの面前でイグニスを公式に国の英雄と認めたことで、事態は一旦の収束を見せた。また、その日中に同盟国や友好国に遣いが送られ、炎竜に対する認識は世界中で改められた。
◇◇◇◇◇
ケントラム中央大陸、アスキア神聖王国の王都アーディン。世界の中心と言える豊かな強国が誇るきらびやかな大宮殿では、過去に類を見ないほどの豪華な晩餐会が行われていた。宮殿内部の大広間はもちろんのこと、広大な庭園にまで宴の席が設けられ、人々で溢れ返っていた。今夜ばかりは身分も何も関係無く、まさに無礼講の状態だった。
大広間の最奥部に置かれた玉座にはファルバラン十世が腰を下ろし、赤ワインを次から次に呷っていた。竜騎兵を始めとした軍人たちは晴れ姿と言える軍服に身を包み、和やかに談笑中だ。そんな彼らを目当てに豪奢に着飾った貴族の令嬢たちが淑やかに近付く。いつもは互いに牽制し合うのに忙しい貴族たちもにこやかに食事の席を囲んでいた。
広い庭園にはアーディン市街に住む様々な身分の人間たちが集まり、素晴らしい料理に舌鼓を打ちながら、祖国が救われた喜びを分かち合っていた。顔触れは多様だ。国中に名を轟かせる大商人からただの街中のパン屋の店主。市街のレストランのシェフや郊外の農民。凄腕の冒険者と話しているのは、まだ学生の町娘だ。普段、酔い潰れるまで酒場に居座るような、もはや定職にも就いていない老人たちがまだ年若い兵士たちと酒を酌み交わし笑っている。そこは誰もが笑うとても幸福な空間だった。
「国王陛下。少し、お話ししてもよろしいですか?」
赤ら顔でワインを飲んでいたファルバラン十世に声がかけられた。王が背後を振り向くと、そこには燃えるような真紅の髪を伸ばした金色の瞳の青年が立っていた。その顔立ちは恐ろしく美しい。彼こそが炎竜イグニスだ。
「おぉ、イグニス殿。話とは何でございますかな?」
ファルバラン十世は皺の目立つ顔をくしゃりと歪めて、朗らかに笑った。悪意の欠片も無いその雰囲気に、イグニスも気を良くした。こういう人間がいるからこそ、彼はヒトという生き物を嫌いになれないのだ。
「陛下、私は先程、貴殿方に一つだけ嘘を吐きました。ですが、陛下にだけは話しておこうと思いまして」
「ほう? 嘘とは?」
相も変わらず、国王は柔らかな笑みを崩さない。イグニスはほんの少し罪悪感を感じながらも、はっきりと言った。
「先に私が魔王を滅したと言いましたが……あれは真実ではありません。私がしたのは魔王軍の撃退で、魔王を倒したのは別の者……私の友人、ミズガルズという者です」
国王はきょとんとしている。そしてイグニスが黙っていると、長い白髭を指先で弄りながら、小さく笑い始めた。
「……それは、それは。そうだったのですか、ミズガルズとは。これまた、貴方に負けず劣らずの大物ですな。この世界の創成にも関わったと神話で描かれている蛇の魔物でしょう?」
「ええ、神話が真かどうかはさておき、その通りです。実は今、彼を探しているのです。一緒にこの街に来たのですが……」
そう言って、イグニスは人間だらけの大広間をきょろきょろと見回した。すると彼は、偶然にもサネルマとリューディアの姿を見つけた。前者は露出の多い橙色のドレスを、後者はあまり露出の無い、青色のドレスを身に纏っている。
リューディアはどう見てもこういった催し物に慣れていないらしく、さっきからガチガチに緊張しているのが分かった。その不慣れな様子が逆に男どもの興味を呼ぶのか、彼女はしっかり囲まれて、ますます硬くなっていた。
一方でサネルマの方はリューディアと正反対でさえあった。わざと胸や太ももが強調されるような姿勢を取り、いちいち動作も色っぽく見えるように計算している。案の定、若い軍人や貴族の男たちは彼女の色気にやられて、遠目からでも分かるほど興奮しているようだった。
色魔な変態エルフは放って置いて良いとしても、リューディアだけは後で助けてやろうとイグニスが思っていると、再びファルバラン十世が言葉を発した。イグニスは慌てて、そちらに意識を向けた。
「イグニス殿。して、そのミズガルズ殿はどうして、この宴に参加していないのかな?」
「あー、えーとですね……。陛下、実は…………」
「戦闘中に背中からうっかり落っことしてしまったから。……そうだろ、なぁ?」
急にすぐ傍で聞こえたやや高い声に、イグニスは飛び上がらんばかりに驚いた。ファルバラン十世もやはり意表を突かれたようで、目をぱちぱちと瞬かせている。王が見る先、イグニスの隣に一人の少年がいつの間にやら立っていた。少女と言っても違和感の無いほどの中性的な美貌を備えており、男色家辺りには人気を得そうだ。
少年が銀色に煌めく白髪を手で掻き上げると、鋭い光を灯した鮮血色の双眸がより一層露になった。剣呑な眼光を宿した瞳でじろりと睨め付けられたイグニスが僅かに震えた。視線を向けられていないファルバラン十世までもが背中に寒気を感じた。
「……なーんてな」
フッと少年の双眼から敵意が消えた。彼は見た目相応の優しそうな笑顔を見せると、炎の竜に向かい親しげに話し掛けた。
「良かったな、イグニス。皆、お前に感謝してるよ。もしかしてこれが狙いだったのか?」
「うーん、まぁ、否定しないけどさ。でも本気で助けたかったんだよ。竜も人間も等しくね。……それより、本気で睨まないでくれよ。結構怖かったぞ」
竜神とも呼ばれるイグニスらしからぬ台詞に、ミズガルズはついつい苦笑してしまった。
「おいおい、あれは冗談だって。もう怒ってなんかないよ。俺も油断してたしな」
お互いに破顔して笑い合うイグニスとミズガルズ。そんな二人の間にやんわりと割って入ってきたのは、老王ファルバラン十世である。
「もしや……貴方がミズガルズ殿であられるか? わしはファルバラン十世。アスキアの王でございます」
人懐こい笑顔で丁寧に挨拶をする老王。ミズガルズも崩していた表情を改めて、しっかりと居住まいを正した。それから若干緊張しながらも、普段からは想像出来ないような丁寧さをもって頭を下げた。
「初めまして、国王陛下。いかにも私がミズガルズです」
頭を下げられたファルバラン十世は逆に恐縮した。むしろ頭を下げるべきなのはこちらなのだが……などと思うが、それをおくびにも出さず、微笑みを絶やさない。
「これは、これは。わざわざ、ご丁寧に……。ところでお二方はどうしてアスキアに来られたのですか?」
王の問いにはイグニスでなく、ミズガルズが答えた。
「実は俺の意向でバルタニアに向かっていた途中なんです。彼は俺に協力してくれていて……。俺、バルタニアに助けたい人がいるんです」
「それが一目惚れした相手なのですよ、陛下」
少し俯きながら話したミズガルズの横から、イグニスが思わぬ茶々を入れてきた。一目惚れという単語に反応して、たちまちミズガルズが頬をうっすらと赤く染める。叩き込もうとした肘はあっさり避けられてしまった。
そんな二人の魔物たちを前に、ファルバラン十世はクスッと笑い声を漏らす。優しげな表情はまるで孫を見守る老人のようでもあった。
「成る程、一目惚れとは。ミズガルズ殿、よろしければどのような女性の方なのか、教えていただけないか?」
「えっ、ちょっと待ってくださいよ、国王……」
「……陛下、なんとそれがバルタニア王国のエルシリア姫なんです。我が相棒が心を奪われてしまったのは!」
笑って誤魔化そうとしたのに、隣のドラゴンに全部暴露された……。少年はゆっくり首を回して、横を見る。すると、赤髪の好青年が悪戯っぽい顔で、非常ににこやかに笑っていた。最強の竜は案外、お調子者だったらしい。事実を理解すると同時にミズガルズが今度は蹴りを入れてやろうと動いた時だった。ファルバラン十世の低く唸るような声が蛇神を押し止めた。
「エルシリア姫……と言いましたか」
「そうですけど、それがどうかしたのですか、国王」
訝しげに聞くミズガルズ。次に老王から放たれた一言が少年を硬直させた。
「ミズガルズ殿。今、エルシリア姫はバルタニアにはいないと思いますぞ」
どういうこと……とミズガルズが聞き返す前に、ファルバラン十世が静かに続ける。
「つい先日、全世界に向けてバルタニアのアシエル十四世とディレンセンのアルトゥーロ十八世が共同声明を出したのです。両国の繋がりをより深めるために、エルシリア姫をディレンセン皇室に嫁入りさせる……という旨のものを」
それはあまりに寝耳に水な事態だった。ミズガルズは喉を詰まらせて、一言も喋れない。イグニスにも予想外のことだったようで、竜は呆気に取られていた。続くファルバラン十世の台詞が酷く遠いもののように、ミズガルズには聞こえた。
「ですから、姫を助けに行くと言われるのならば、ディレンセン帝国の都……ダルバレスクに向かわれるべきであろうな……」
◇◇◇◇◇
広々とした庭園の隅の方に築かれた、小さな建造物。白亜の大理石で出来た神殿風の休憩所だ。ミズガルズは屋根の下、冷たい木製の椅子に腰掛け、ただじっと夜風を感じていた。椅子の足下には漆黒の竜蛇ノワールがとぐろを巻いて、舟を漕いでいる。
遠くから聞こえてくる宴席の喧騒にも、少年の心は動かされることがなかった。この小神殿の脇を控えめに流れる人口の小川のせせらぎの音も、今は何となく空虚に響くだけだ。
「……ミズガルズ、これからどうする? 俺がディレンセンまで飛んで連れて行こうか?」
向かい側に腰を落ち着けるイグニスが、そんなことを言った。ミズガルズは閉じていた目をそっと開ける。そして、赤髪の美青年の心配そうな顔をしばらく眺めた後、微笑を浮かべた。
「いや、必要ない。俺が一人で行く」
途端、イグニスは何を言われたか分からないという顔をした。ミズガルズは構わずに続けた。
「エルシリアを助けたいっていうのはさ……俺の願いであって、俺の我が儘でもあるんだ。わざわざ皆を巻き込む必要は無い。……これは俺が一人でやるべきことだと思うんだ」
明らかに困っている様子の相棒に向けて、ミズガルズは再び笑いかけた。
「それにイグニスだって、ここでするべきことがあるだろ? 皆、お前が戦いに協力してくれるのを望んでる。イグニス自身も……もう、そのつもりなんじゃないのか?」
「んー、いや。まぁ、そうなんだけどさぁ……」
どうにも歯切れが悪いイグニスだったが、しばらく唸った後、諦めたように苦笑いするのだった。
「……ふぅ、分かったよ、ミズガルズ。うん、全部オマエに任せた! 考えてみれば、不死のオマエが誰かに殺される心配は無いしな。よし、行って来い! 必ず姫様を助けて帰って来い!」
イグニスはそれまでの表情を一転させた。問題は全て解決とばかりに勢い良く立ち上がり、祝宴の喧騒に戻ろうとしたが、最後に思い出したようにミズガルズに尋ねた。
「だけど、どうやってダルバレスクまで行くんだ? オマエのその様子だと……サネルマとリューディアにも告げないで行く気だろう?」
「舐めるなよ、イグニス。ちゃんと考えはある。ノワールの真似事をするのさ」
首を傾げる炎の竜。ミズガルズはやや得意気に説明した。
「蛇の姿に戻った後、魔力で翼を構成してから、飛んでみる。それが上手く行かなかったら、限界まで小さくなって、ノワールに乗せてもらうさ」
イグニスは少しの間、考えた後、「悪くないな」と言って笑った。
◇◇◇◇◇
イグニスが踵を返して宴の人混みの中へと消えた後、ミズガルズはしばらくノワールの頭を撫でながら、考え事をしていた。すぐに王宮から姿を消して人知れず旅に出ていてもよかったのに、そうしなかったのは、もう一人、尋ね人がやって来るのを本能が予感していたからなのかもしれない。
微かな足音を耳に拾い、ミズガルズはふと顔を上げた。二、三歩離れた所に立っていたのは、深緑色の髪と瞳を持った女騎士であった。今は金色に輝く鎧ではなく、明るい山吹色のドレスを身に着けていた。
「ミネルバ、何か用か?」
すると、ミネルバ・セルフォードは気まずそうに目を逸らし、身体をもじもじと動かした。エラーティエ帝国の首都衛兵隊の副隊長を務める彼女にはあまり似合わない仕草だった。
「……その、あれだ。うやむやになる前にお礼を言っておこうと思って」
お礼と聞いて、ミズガルズの片眉が僅かに上がる。少し間隔を置いてから、彼はようやく気付いた。ミネルバは海で海賊の魔の手から助けてもらったことを言っているのだろう。礼を言われるようなことと言えば、それくらいしか思い浮かばなかった。
「それから、昼間に同じエラーティエの派遣兵たちとも合流出来た。全部、お前のお陰だ。ありがとう」
ミネルバが頭を下げた。思わずミズガルズは驚いてしまった。この強気な女騎士が他人に頭を下げる場面など、想像出来なかったから。
ミズガルズが驚いているのも気にせず、ミネルバは悠々と近付いてきて、あろうことか少年の隣の席に座った。あまりに自然過ぎて、何か言う暇も無かったほどだ。
「……なぁ、ミズガルズ。明日から私は連盟軍の一員としてミグラシア奪還の任に就く。戦場の最前線に行くんだ。その前に一つ……昔話を聞いてくれないか?」
「あ、あぁ。聞くよ」
多少、困惑の色を見せながらも頷くミズガルズ。そんな彼を見て、ミネルバも小さく笑った。彼女の唇が動き、とある昔話が語られ始めた。
……十一年前、少女は十三歳だった。両親との三人暮らしで、父はエラーティエ帝国陸軍の一員、母は宮廷で王族に仕える侍女であった。どちらも要職には就いていなかった。ただの一兵卒である。二人の娘である少女は、いつも疑問に思っていた。特に、優秀なはずの父が何故いつまでも出世して偉い立場になれないのか……ということに。
少女の父は単なる一兵士だったが、その能力は明らかに一兵士に留まらないものだった。彼は剣術の天才だった。当時、帝国では一、二を争うほどの腕前だった……そう言っても過言では決してないだろう。事実、同じ陸軍の中でも彼に剣で勝てる者はほとんどいなかったのだから。
剣の腕だけではなかった。彼は馬術、戦術にも優れ、とにかく優秀だった。幾度も仲間を危機から救い、数々の武勲を打ち立てていた。少女は父が誇りだった。自慢の父親だった。だが、だからこそ彼女は常々思っていたのだ。何故、これほど優秀な父なのに、未だに軍の上の方に行けず、燻り続けているのだろう、と。
翌年、少女は帝国の騎士養成学院に入学した。父親と同じ道を歩むことにしたのだ。学院で優秀な成績を残し、陸軍に入隊する。そして、憧れの父と同じ戦場に立つ。それが彼女の願いだった。
少女はひたすら努力した。彼女はちゃんと分かっていたのだ。父は天才であり、恐らく彼女自身は……そうでないことを。だから、必死で頑張った。尊敬する父親に追い付けるように。いつか肩を並べられるように。
気付けば、彼女は学院で一番優秀な生徒になっていた。剣術、馬術、格闘技、それから座学……。率先して集団の上に立つカリスマのような存在ではなかったものの、教員たちからの評価はすこぶる高く、それなりに友人も出来た。
順風満帆だ。彼女はそう思っていた。これで大丈夫。そう頑なに信じていた。いつの日か、偉くなった父親と一緒に戦場を駆けるんだ。そんな華やかで確かな夢を描けていた。横たわる現実にぶつかるまでは。
十六歳になった頃、彼女は相変わらず学院一の成績を修めていた。もちろん彼女にも才能はあったのだろう。だが、そのほとんどは彼女が積み上げてきた努力の賜物だった。他の誰も彼女を超えられないでいた。友人たちは素直にそのことを誉め、称賛した。しかし、そこには当然ながら、少女をやっかみ、目の敵にする者たちもいたのだ。
……調子に乗るなよ。お前みたいなしょぼくれた平民女が俺たちより上に行けると思ってんのか? お前もお前の親父も、所詮は目障りなだけの平民なんだよ!
そんな風に罵倒された日があった。相手は王族に近い、大貴族の一人息子。周りには彼ほどではないが、名のある貴族の子息たちがいた。皆、ニヤニヤと笑っていた。その日、少女は眠れずに夜を過ごした。
翌日から、仲良くしていた友人たちがあからさまに距離を置き始めた。話しかけようとしても無視され、避けられる。誰も声をかけてくれない。私物もぽつぽつ無くなり始め、教員も気まずそうに黙り込むだけだった。その年の終わり、父が隣国との大規模な戦闘で戦死すると、嫌がらせはますます酷くなった。
家柄、身分、金、そして有力者との特別な縁故。出世していくのは貴族とその取り巻き連中だけ。本当に能力があったはずの父は不当に蹴落とされた。最前線でこき使われ、そして死んだ。無能で媚びへつらった笑いしか作れない、糞みたいな貴族の上官どもが安全な場所でワインを飲んでいる間に。
それまでの彼女はそこまで気丈ではなかった。寧ろ、地味で控えめな性格だった。だからだろうか、彼女は誰にも見られない自室で一人で泣いた。冷たい現実は少女の何かを壊してしまった。
あれよあれよという間に少女は変わった。大人しい性格はどこかに消え去り、誰に対しても勝ち気で強気なものに変貌した。元々友人だった者にも見下すような態度を取り、口調も尊大で偉そうな雰囲気に変化した。思想も、どんな手を使ってでも成り上がってやるというものに変わり、次第に言動も暴力性を増した。実技の試合では、相手が貴族の子息だろうが何だろうが、血塗れになるまで叩き潰した。
誰も彼女に寄り付かなくなった。平民の子はもちろん、彼女を酷く苛めていた貴族の子息たちでさえも。少女の方も誰一人として寄せ付けようとしなかった。少しでも近付く者がいれば、殺気を込めた深緑色の瞳で睨み付けてやった。
少女は結局、一度も首席を他人に譲らないまま、学院を卒業した。しかし、彼女の抱いた夢は未だに叶っていない……。
「どうだ? とんだ馬鹿だろ、私という奴は」
長い長い昔話を語り終えてから、開口一番、ミネルバが言った言葉はそれだった。彼女はミズガルズを見ていない。ミズガルズも同様だ。見れるわけがなかった。
「もし、あの頃の私がお前に出会っていたら……きっと頼んだろうな。この国を影も形も残さず滅ぼしてくれって」
まだ虚空を見つめているミネルバの横顔をミズガルズは見た。儚げで壊れ物のようだ。その時、少年は彼女の本質を見た気がした。
「……今もそれを望んでるのか? もし、俺がやってやろうと言ったら、お前は頷くのか?」
「さぁ……? どうなのかな……?」
ミネルバの口角が微かに上がった。硝子のような微笑みだった。
「なぁ、ミズガルズ。お前は神話にも登場するような、物凄い長生きの魔物なんだろ? そんなお前から見てしまえば、私の人生はやはり……下らないものなのか?」
ミネルバが顔を向けてきた時、ミズガルズは胸が痛むのを感じた。彼女が答えを欲しているのは、数万年と生きてきたミズガルズの方だ。元々は人間だった自分の方ではない。そう分かっていたから、彼は返答に窮した。果たして自分などが答えてしまっていいのか、と。
「下らない人生なんて……どこにも存在しないだろ」
気付けば、彼の口は動いていた。
「……俺は人間じゃない。だから、人間の考え方を完璧に理解することは出来ない。お前に上から目線であれこれ言える立場でもないし、知ったような口を聞くなって、お前は思うかもしれない。……それでもお前の人生は下らなくなんかない」
ミネルバは黙って聞いている。一言一句たりとも聞き逃すまいとでも言いたげに。
「ミネルバ、お前は途中で他人から歪められて道をほんの少し外れただけなんだ。昔に抱いた純粋な夢を忘れてないなら、もう一度正しい道に戻れば良いだけの話だよ。まだ時間はある。お前の生き方は決して間違っちゃいないし、下らなくもないよ」
ミネルバはポカンとしていた。ミズガルズも少し焦った。良いことを言っているのか、悪いことを言っているのか、自分でもよく分からなかった。次の言葉を探していると顔が赤くなってきた。
「えーと、だから、何て言えば良いかな……つまりは」
「もう良い、もう分かった」
突然の制止。ミズガルズの顔が歪んだ。やはりまずいことを言ったかと、彼は青ざめた。
「……ありがとう、ミズガルズ……」
ミズガルズは息を飲み、押し黙った。こちらを見つめるミネルバは大輪の花のような笑顔を咲かせていた。目尻から美しい雫を溢しながら。深緑色の瞳は宝石のよう。同色の髪は夜風に揺れている。綺麗だ。素直にミズガルズは思った。危うく言葉にするところだった。初めの頃、彼女に抱いていた苦手意識が次第に消えていく。同時に戦場などに行って欲しくないなどと彼は思ってしまった。
「じゃ、じゃあ! 話は終わりだ! すまなかったな、こんな下らない話を聞かせてしまって!」
泣く姿を見られたのが余程恥ずかしかったのだろうか。ミネルバは妙に甲高い声と共に立ち上がった。そして、逃げるように駆けて行く。別れの言葉を残しながら。
「ま、また会えると良いな。今度も私の部下として勧誘してやるからな!」
ドレスの裾を摘まみ、すたすたと早足で逃げるミネルバ。その後ろ姿を見つめながら、ミズガルズは頭の中から偉大なる先代が遺してくれた魔法の知識を引っ張り出し、小声で唱えて、遠ざかるミネルバの背中にかけた。彼女を死の運命から守りますように。そう願いを込めて。
「……怒るかな? でも、たまには神様らしいこともしてみたいしね」
いつの間にか起きていたノワールの頭を優しく撫でる。竜蛇はクルルル……と小さく鳴いた。
「ま、勧誘だけはお断りだけど。なぁ、ノワール」
黒い竜蛇もこくこくと首を振る。ミズガルズはそっと笑いかけ、夜空の下、決意を固めるのだった。




