救国の英雄
小鳥の鳴き声とほのかな暖かさに包まれながら、ミネルバ・セルフォードは目を覚ました。彼女は辺りを見回して、自分がまだ生きていることを知った。どこかの質素な小屋の中に寝かされていたようで、起こした身体の上には毛布が掛けられている。
と、そこでミネルバは自身の格好に改めて気付いた。お気に入りの金色の鎧は脱がされており、今の彼女の身体を覆うのは僅かな下着だけであった。自分でやったわけではない。海中で気絶してからずっと眠っていたのだから。……では、一体誰が?
そこまで思考が辿り着くと、急に羞恥心が湧いて出てきた。誰とも知れない者に裸を見られたのだ。女か男かも分からない相手に。もしかしたら裸体をじろじろと見られる以上のこともされてしまったのかもしれない。そう思い、微かに震えている時だった。小屋の扉が開く。ミネルバは瞬時に飛び起き、傍らの剣を手に取った。
「……あ、あの。その剣は仕舞ってくれませんか? 私は味方ですよ」
拍子抜けしたと言っても良い。ミネルバは小屋の中に入って来た人物を見て、首を傾げながら呟いた。
「子供……?」
「なっ……無礼な! 子供扱いするな! 私は水竜だぞ、お前の何倍も生きて……」
藍色の大きな瞳が愛らしい水色の髪の少女はそこまで言うと、ハッと口を手で押さえた。「しまった」という心の声が聞こえてきそうだった。その場で可哀想なぐらいおろおろし始める少女を優しく押し退けて、別の誰かが現れた。
ミネルバは絶句せざるを得なかった。そこにいたのは、彼女も見覚えのある少年だったからだ。少女と見紛うほどの中性的な整った顔。陽光に当たると銀色に煌めく、長い白髪、鮮やかな血色の双眸。印象深いその姿を忘れるはずがなかった。
「お前はエルタラで会った……何故こんな所に……」
豆鉄砲を食らった鳩のような顔で、女騎士は呆気に取られていた。信じられないものを見ているかのように、未だにこの状況が把握出来ていないようだった。彼女の目には恐怖と混乱の色が浮かんでいた。
「そんな顔するなよ。俺は冷たい海の中からお前を助けたんだぞ?」
「……助けた? 私を助けたのは、もっとがっしりした黒髪の男だったと思うが、お前は…………」
最後まで言い終える前にミネルバの喉は詰まった。彼女の頬に汗が一筋流れる。小刻みに身体を震わせながら、騎士はジリジリと後ろへ下がった。ただ、深緑色の瞳だけは鋭い眼差しのまま、白髪の少年に油断無く向けられていた。
「冗談だろう……お前、あの蛇なのか」
「ははあ、やっぱり鋭いな」
それはまさしく肯定の返事だった。ミネルバは警戒心を隠さずに少年を睨んだ。だが、少年の方は睨まれたことを意にも介していない。微かに笑うと、彼はそのまま身を翻した。
「悪いけど代えの服なんて無いから、もう一回その鎧を着てくれ。もう乾いてるはずだから。なるべく早く頼む。……俺たちも急いでいるからな」
白髪の少年と自身を水竜だと言った少女が小屋から出て行き、ミネルバは一人残された。彼女はまだわけが分からなかったものの、慌てて金色の鎧を手に取る。慣れた手つきで装備を終えると、剣を右手に小屋を飛び出した。そして、女騎士は眼前の光景に息を飲んだ。
『……準備は出来たようだな、騎士。ならば背に乗れ。今すぐに飛ぶぞ』
そこにいたのは、黄金の瞳を持った、灼熱の炎の竜であった。
◇◇◇◇◇
「はーん、成る程……ミネルバは戦争に参加するつもりだったのか。しかも自分の出世のために? 酔狂だなぁ……俺には分からない」
「ふん、分からなくて結構。出世欲を持つのは人間として当然だ。……それより、お前は魔物だったんだな。道理で強い魔力を有していたわけだ」
真の姿へと変わったイグニスの背に乗りながら、ミネルバは短く鼻を鳴らした。初めは伝説の巨竜を目の前にして、酷く動揺している様子だったが、今の彼女からはそんな印象は抱けない。いつも通り強気で飄々とした兵士の顔を見せていた。
「……俺やイグニスの名前を聞いても全く怖がらないんだな、お前。随分としっかりしてるな」
人間よりも格上の魔物らしく舐められないような態度を取ろうと、ミズガルズは気をつけた。かなり余裕ぶっている風に見えたが、実際のところ内心で彼は緊張で心臓が破裂しそうだった。気が強くて野心深い騎士とは言え、後ろから女に抱き着かれているのだ。当のミネルバは気にもしていないらしいが、ミズガルズはそうはいかない。
それに加えて、先ほどからサネルマが凄まじい殺気を放っているのも問題だった。大方、ミズガルズに密着しているのが自分でなく、ぽっと出の女であることに我慢ならないのだろう。ミズガルズにとっては迷惑極まりない話だった。居心地悪そうなリューディアが大人しくしてくれていることだけが唯一の救いか。
「……イグニス、アーディンまでどのくらいかな?」
見えない圧力から逃れるべく、ミズガルズは自分たちを乗せて飛んでいる竜に会話を振った。少年の気持ちを鋭敏に察したのかどうかは分からないが、イグニスは快く会話に応じた。
『そうだな、もうそろそろ見えてくるんじゃないか? これでもかなり速く飛んでるからね。場合によるけど、エラーティエ軍の兵たちが乗った船よりも早く着くかもしれない』
普段と同じ柔らかくおどけたような調子でイグニスは返した。ミズガルズは竜の言葉で緊張が解けたような気がした。この炎の竜がそう言うのならばそうなのだろう。少年はイグニスのことを全面的に信頼していた。イグニスも少年のことを信頼してくれているのだ。互いに信じられないわけがない。
ふと、ミズガルズは周囲に浮かぶ雲の群れが薄くなってきているのに気付いた。同時に微かに響き渡る不可解な音も。生物の立てる羽音とは思えない。鳥や竜の鳴き声とも違う。まるで、何かの機械が発する稼働音のような……。
『ちっ、不味いな』
その時、イグニスが苦々しげに呟いた。ミズガルズには何のことだか理解出来なかったが、図ったかの如く雲が晴れ、青い空が現れたその刹那。少年は全てを悟った。眼下にアスキア神聖王国の首都、アーディンが存在していることも忘れて、彼は周りの大空を見回した。
『……こんなに早くお目にかかるとは思わなかったな。ミズガルズ、こいつらがディレンセンの飛行船艦隊だ。少々やり合うから……しっかり掴まっていろ!』
言うが早いが、イグニスはその巨躯を素早く傾ける。先ほどまで彼らが飛んでいた場所を砲弾が掠めた。今や、炎竜を取り囲んでいるディレンセン帝国の飛行船は十隻近くいた。決して誘い込まれたわけではない。飛行船は最初からアーディンの上空にいたというだけだ。ミズガルズが目を凝らすと、眼下のアーディンを舞台に激しい空中戦が繰り広げられていた。交戦しているのは黄飛竜の群れと飛行船の部隊だった。
「馬鹿なっ! 何故、アーディンで戦いが起きてる! ミグラシアが落ちたと言うのか!?」
ミネルバの絶望に満ちた叫び声が木霊した。彼女の思いはミズガルズにも理解出来た。そう、アスキアの本土にディレンセン帝国の攻撃が加えられているという事実は、絶対防衛線であるミグラシア王国の陥落にそのまま繋がるのだから。
背に乗る者たちが絶望や憤怒、悔しさに心を彩られている間も、イグニスはひたすら危機を切り抜けることだけを考えていた。ミズガルズたちを振り落とさないようにしながら、素早い動きで砲撃を避け続ける。だが、彼の巨体は格好の標的にも成り得た。本人もそれは分かっていたから、一気に勝負を決めることにした。
真正面から猛烈な勢いで急接近して来る飛行船。イグニスは臆すること無く相対し、魔力を込めた瞳で睨み付けた。瞬間、迫っていた飛行船は何の前触れも見せずに空中で突然激しく燃え上がった。荒れ狂う火炎のうねりが船体を飲み込む。やがて燃料に引火すると、強烈な爆音を轟かせて飛行船は四散してしまった。
今にも味方を援護しようと構えていた他の飛行船は思わず動きを止めた。そして、イグニスがみすみすその隙を逃すはずがない。巨大な翼で大気を切り裂き、驚異的な速度で竜は一隻の飛行船に迫った。船の操縦士たちは全く反応出来ず、眼前に迫り来る巨竜の姿を呆然と見つめるばかりであった。
激しい炎の奔流が放たれた。放射された火炎はとてつもない速さで空を駆け抜け、そのまま飛行船を襲った。無残な姿になった飛行船はみるみる内に落ちて行く。兵士たちも当然焦り出したのだろう。砲弾の雨がイグニスに降り注ぐ。
だが、炎竜は飛んで来る無数の砲弾をわざわざ避けようとはしなかった。急停止すると、大きな翼を思い切り羽ばたかせて弾き飛ばしたのである。飛行船に乗っているディレンセン兵たちを驚嘆させる動きだった。と、同時に背中に乗る者たちのことを配慮し忘れた行動でもあった。
「こ、この馬鹿竜! 死ぬかと思ったぞ! ていうか、ミズガルズが落っこちてるしぃ!」
文句を言ったのはサネルマである。イグニスとしては、まぁ何か言われるだろうと予め予想していたので、軽く無視して次の行動に移ろうとしたのだが。
『……なに? ミズガルズが落ちただって!?』
◇◇◇◇◇
砲弾の飛び交う空中をミズガルズは見事に落下中だった。勇壮な炎竜の巨躯は遥か頭上だ。ちらりと下を見れば、アーディンの市街地が迫っていた。ディレンセン帝国の飛行船からかなり被害を受けているようで、あちこちから火の手が上がっている。そして帝国軍の非道の行いを阻止するべくアスキアの飛竜部隊が必死で攻撃を繰り返していた。まだ空中戦だけで市街での陸戦は行われていないとは言え、状況が刻々と悪くなっているのは明確だった。
「……竜に乗るのは慣れてたはずだったけど……油断禁物だな」
うっかり振り落とされたというのにミズガルズは随分と余裕があった。もっとも、死なない身であることを考えれば何事も怖いと思えなくなってしまうのも無理は無いかもしれないが。
地上に着いたらどうしようかと少年は考えていたが、その最中、上空から懸命に翼をはためかせて追いかけてくる、黒い生き物に気付いた。ノワールである。
漆黒の鱗に包まれた幼い竜蛇は何とかして落下する主人のもとに追い付くと、何を思ったか、その細い腕に噛み付いた。鋭い牙が食い込み、途端に激痛が走った。不死身ではあるが、痛覚までもが消えたわけではないのでそれも当然だ。涙が出そうなのを堪えて注意しようとした時、ミズガルズはあることに気付いた。
「お前……俺を助けようとしてくれてるのか?」
事実、ノワールは少しずつ下がりながらも懸命に羽ばたいている。そのおかげでミズガルズは何とか空中に浮かんでいる状態だ。なんて良い奴なんだろうと彼は感動すら覚えた。
「……でもな、ノワール。正直、滅茶苦茶痛いから、とりあえずどこかに降りようか? な?」
主の目尻に涙が浮いていることに気付いて、ノワールは目に見えて慌て始めた。辛いのを我慢してパタパタと飛ぶと、一番近くに聳えていた高い建物に直行し、そこで少年を降ろした。
ミズガルズとノワールが降りた場所。そこは巨大な時計塔であった。端まで行ってミズガルズが下を覗いてみると、アーディンの市街地の大部分が見渡せた。眼下には青みがかった石畳で出来た円形の広場が広がっており、その広場に隣接して堅固な防壁に囲まれた王族の宮殿があった。
「おいおい、あれはやばいぞ……」
呟くミズガルズの視線の先、そこには王宮目掛けて接近を試みる尋常でなく大きな飛行船がいた。空飛ぶ巨大戦艦とでも表現するべきか。恐らくディレンセン帝国自慢の兵器なのだろう。攻撃を繰り返す黄飛竜たちが次々と情け容赦無く撃ち落とされていった。
オキディニス大陸の各諸国、そしてミグラシア王国に続いて、アスキア神聖王国までもがこうも呆気なく陥落してしまうのか。ミズガルズを含め、恐らくアーディンにいた誰もがそう思っただろう。帝国の飛行戦艦がまさに王宮に無慈悲な爆撃を加えんとした刹那。
『ぐおおおおおおおおおおっ!』
大気を震わせる凄絶な咆哮。雲を切り裂き、突如飛来してきた巨大な竜は飛行戦艦に向けて正面から体当たりを食らわせた。衝撃に耐えきれず、戦艦は王宮と黄飛竜の群れから僅かに離れた。態勢を立て直そうと焦燥感に駆られた操縦士たちが見たもの、それは文字通り紅蓮の炎を纏った炎竜の姿だった。
呆気に取られる黄飛竜と彼らに乗る竜騎兵たち、更には王宮から空を見上げる王族や兵士たち。誰一人として動けない中、炎竜は優雅に、そして力強く躯体をぐるりと回転させた。鞭のような長い尾が炎を帯びたまま、強烈な勢いで戦艦に打撃を加えた。凄まじい音が響き、ディレンセン帝国が誇る巨大飛行戦艦は吹き飛ばされた。王都の上空を突っ切り、郊外の山岳地帯に激突する。そして爆発音と共に木っ端微塵になった。
一瞬、アーディン全体がしん……と静まった。しかし、次の瞬間には王宮や市街地のあちこちから人が溢れ出て来て、轟音とも言える大歓声が生まれた。一番の主戦力であり、帝国空軍の象徴とも呼べる飛行戦艦をあっという間に失ったディレンセン帝国の飛行船部隊は、それまでの勢いが嘘であったかのように逃亡を始めた。それはまさしく敗走だった。
「……はぁ、結局参戦しちゃってるじゃないか。なぁ、ノワール?」
時計塔から見ていたミズガルズは呆れたとばかりに漏らした。けれども、その顔は決して怒ってはおらず、むしろ笑っていた。どちらかと言うと、こうなって良かったのではないか。ミズガルズは密かにそうも思っていた。
人々の喜びの歓声は鳴り止まない。王都を救った強大な竜に感謝していない者などいなかった。騎士を背に乗せた黄飛竜たちは空中で頭を低くして、偉大なる巨竜に畏敬の念を示している。それは、アスキア神聖王国において炎竜イグニスが救国の英雄となった瞬間であった。




