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後悔をするな

 一階の酒場の騒々しさが嘘かと思えるほど、二階は水を打ったように静かだった。広々とした板張りの廊下は綺麗に磨かれていて、埃は見当たらない。スラム街の宿屋とは思えない雰囲気に驚きながらも、ミズガルズは前を歩くリューディアに付いて行く。一番奥の部屋の前まで来ると、水竜の少女は足を止めて振り返った。


「ミズガルズ様、お先にどうぞ」


 ミズガルズは頷き、扉の取っ手に触れる。主の緊張を知ってか知らずか、ノワールが少年の足元にそっと擦り寄った。木製の扉を開いたミズガルズの視界に映ったのは何とも懐かしい男だった。

 威圧感のある黒い肌にびっしりと彫り込まれた刺青の数々。剥き出しの上半身は筋骨隆々としていて、迫力満点。胸元に光る金色の鎖が、威圧感のある独特の雰囲気を醸し出している。何より頭に巻かれた鮮やかな赤色のバンダナを少年は忘れるわけがなかった。


「おう! やっと会えたな、ミズガルズ! 待ち遠しかったぜ」


「俺もだよ……ケネス」


 そう言って、ミズガルズは差し出された黒い手をしっかりと握り返した。赤バンダナの大男、ケネス・キャロウは白い歯を剥き出しにして、心の底から嬉しそうに笑った。その笑顔は最後に見た時と何も変わりが無いようで、少年は安心した。

 と、その時。ミズガルズの肌をぞわりと嫌な予感が走り抜けた。それとほぼ同時に部屋を二分する木の引き戸が乱暴に開け放たれた。その奥から踊り子のような露出度満点の衣服に身を包んだ女が現れる。ミズガルズを見て目を輝かせる女は言わずもがな……エルフのサネルマだった。


「ミズガルズ~! 寂しかったぞ!」


 サネルマは物凄い勢いで少年に駆け寄った。だが、ミズガルズは最初から予想していたので、焦ることなくあっさりと避けた。抱き着く対象を急に失った彼女は勢いを殺し切れず、そのまま床にダイブした。凄まじく痛そうな音を立ててから、ゆっくりとした動きで起き上がる。


「い、痛いじゃないか、ミズガルズ……。そんなに私の胸に抱かれる、のが、嫌なのか……?」


「……どっちかと言うと嫌だ」


 渋い表情のまま、彼ははっきりと言った。そうするとサネルマはわざとらしくうちひしがれ、地面に崩れ落ちた。しかし、ミズガルズは真面目に取り合わなかった。これは明白な演技だ。サネルマのことである。ここで気を抜いたら、それこそ眠り薬でも飲まされて、ベッドに連れ込まれてしまうかもしれない。彼女ならやりかねないと少年は固く信じていた。

 頬を膨らませて不貞腐れるサネルマを軽く無視して、彼はその横を抜ける。開け放たれた木戸の間を通り、向こうの部屋に入ると、そこには再会を待ちわびていた仲間がいた。男は開いた窓際に寄りかかり、真紅の長髪を風になびかせている。見目麗しい青年は優しげな黄金の瞳を細めると、一言だけ静かに言った。


「お帰り、ミズガルズ」


 白銀の少年は返事を返すことも忘れ、口元を緩めた。それほど長い間会っていなかったわけではないのに、随分と懐かしい思いがした。竜がこうして自分を待っていてくれたことが嬉しかったのだ。


「……迷惑かけたな。ごめん、イグニス」


 真紅の炎竜はそんなことを気にするな、とばかりに微笑むのだった。



◇◇◇◇◇



 窓際に置かれた小さなテーブルにイグニスが腰掛けた。ミズガルズは部屋の隅にあるベッドに座った。仕切り戸の向こうでは何やら会話が聞こえ、どたどたと慌ただしい音が上がった。サネルマを除く四人が一階に戻ったらしい。ヘレナも連れて行かれた。アレハンドロは頼りにならないだろうが、リューディアがいるから何かトラブルが起きても多分大丈夫だ。


「……実はこの町に初めて降りた日に、ここの店主を厄介事から助けてね。お礼ってことで泊めさせてもらっている。……ちなみにリューディアは今日休んだ従業員の代わりに働いてるみたい」


「そうなんだ……色々あったんだな」


 他に言うべき言葉も思い浮かばず、ミズガルズはベッドに背中から倒れ込んだ。ふかふかとした感触が心地良い。精神的にも身体的にも溜まった疲労と相まって、このまま眠ってしまいそうだった。

 ミズガルズが軽く目を瞑った瞬間、木製の引き戸が開かれた。彼は本能的に危険を感じて起き上がろうとしたが、時既に遅し。飛び込んできたエルフの美女に上からのし掛かられてしまった。己の油断を悔やみ、ミズガルズは女体を引き剥がしにかかる。雪のように白い頬がたちまち朱色に染まり、甘い香りに頭がくらくらとした。


「お、おい、サネルマ! 離れろよ、やって良いことと良くないことの違いぐらい分かるだろ!」


「ふふん、断る! そっちこそ、無防備にベッドなんかに寝転がって、誘ってるみたいだったぞ」


「そんなわけあるか! この馬鹿!」


 どうやら発情したエルフには何を言っても無駄なようで、話を聞く気も無いらしい。息も荒いし、異様に興奮しているのか瞳はぎらついていた。思えば、彼女の危なっかしい衣服も最初からこういう状況を想定してのものだったのかもしれない。

 蛇神の上に馬乗りになり、今にも襲おうという暴挙に出たサネルマを見て、漆黒の竜蛇ノワールが怒りを露にし、鋭い牙を剥いて噴気音を発した。すぐにでも噛みつきそうな迫力だったが、ミズガルズがそれを強い視線で制する。ノワールは主の思惑を即座に感じ取って、素直に引き下がった。


「……サネルマ、お前は大切な仲間だけど……そろそろ本気で怒るぞ」


 漂う冷気に肌を撫でられたサネルマの動きがぎこちなく止まる。危険を察知したようで、赤らんでいた顔からもサーッと血の気が引いた。チラッと目線を合わせれば、そこには細められた鋭い血色の双眸が。

 ぶるり、とエルフは身体を震わせた。ミズガルズを本気で怒らせたら洒落にならないことくらい、サネルマもよく分かっていた。それでももしかしたら許してもらえるかも、という思いに邪魔されて、彼女はなかなかどこうとしなかった。


「…………そんなに噛み付かれたいのか?」


「ッ?! ごめんなさいっ!!」


 高い運動神経の片鱗を見せつけるようにサネルマは華麗に少年から跳ね下りた。ベッドの上から床に着地した彼女は部屋の隅まで逃げた挙句、ガタガタと震えていた。その震えっぷりは普通じゃない。異常と言っても良かった。まるで噛まれたらどうなるか知っているような。もしくは既に噛まれたことがあるような。

 ミズガルズは不思議に思い、首を傾げた。はて、この欲望に忠実などうしようもないエルフを噛んだことなどあっただろうか? 実際、あってもおかしくはなさそうだが、生憎そんなことをした覚えは無かった。


「なぁ、俺、お前に噛みついたりしたことって……無いよな?」


「!? あ、あぁ! そうだとも、そんなことあるわけ無いぞ!? 私はお前に噛まれるような行動は何一つとして! 取っていないからな!」


 どうしてこんなに焦っているのだろうと不思議になったが、追求するのも億劫なので蛇神はこれで解決とした。まぁ、少しでも毒牙で噛まれたら死ぬと分かっている以上、明日からはそうそう襲われることも無いだろう。それより本題は別の所にあった。今はそちらが優先だ。


「イグニス。再会したばかりで悪いんだけど……ティルサで何があったんだ? ここに来るまで色んな人間から話を聞いた。お前が魔族を統一して西の大陸とバルタニア王国を襲った魔王だって……全員がそう言ってたぞ」


 イグニスが溜め息をつく。難しそうに顔を歪め、額に手を当てる。


「んー、それはね……」


「ミズガルズ、それは違うぞ。イグニスは利用されたのだ!」


 炎竜の言葉尻を奪ったのはサネルマだった。美しい顔は怒りで歪んでいる。


「……何者かが、魔法を使ったんだろう。恐らく高位の集団洗脳魔法だ。誰だか知らないが、その犯人はイグニスが魔王であると、ティルサの人間たちに思い込ませたんだ。ついでに私も何故だか魔王軍の内通者扱いだったよ! わけが分からなかったが、あと少し逃げるのが遅れてたら首が飛んでいた!」


 サネルマの怒りは収まらない。彼女曰く、気付いた時にはティルサに住むありとあらゆる人間の記憶が改変されており、エルフである彼女は魔王と裏で繋がっていたスパイとして兵士たちに追われたと言う。致し方無く魔法を駆使して追っ手を蹴散らし、命からがら逃げたらしい。宿屋に泊まっていたイグニスたちと合流し、幼いリリアーヌと彼女を保護したいと言ったフェリルを魔界のバチェに送ってから飛び去ったそうだ。


「いやぁ、本当に大変だったよ。町の雰囲気に混乱していたケネスたちを探したりしてさ。皆、無事だったけど……ただ姫様が、ね」


 竜はちらりとサネルマを見る。彼女の表情も険しい。


「うむ、エルシリア君と彼女の侍女も助けたかったんだが……追っ手が激しすぎて途中ではぐれたんだ。第一に生きていてくれると良いのだが……」


 そこでサネルマが荷袋から何かを取り出した。掲げられたのは四方にヒビの入った水晶球であった。どのような用途であれ、もう使えそうにない。


「間の悪いことに酷使し過ぎたせいで水晶が破損した。エルシリア君の生死を見ることも出来ん……」


 動揺するミズガルズを見つめていたイグニスが突然、窓際から離れた。彼はサネルマに留守番を頼み、佇む少年を促して宿の外に向かうのだった。



◇◇◇◇◇



 眩しい陽光に熱せられたスラム街は暑かった。そこかしこに溢れる恵まれない人々の喧騒が絶えず響く。イグニスとミズガルズはその中を目的地も無く、ただ歩いていた。


「あそこの木の下で休もう」


 見ればそこはスラム街の子供たちにとっての公園だった。もちろん、遊具などあるはずもない。ただ周囲の土地との境界に今にも朽ち果てそうな柵が設けられているだけだ。芝生は無く、剥き出しの土の地面ばかりが広がる。所々、大きな樹木が植わっており、イグニスが指したのはそのうちの一際大きい一本だった。

 ちょっとした木立の中に入り、太い根本に腰を下ろす。暑苦しい太陽光は完璧に遮られた。心地よいそよ風と木の香りに身を任せる。目の前を元気の良い子供たちが過ぎ去って行く。不意にヘレナ・カーソンのことを思い出したミズガルズはぽつぽつと話し始めていた。


「イグニス。お前らに会う前、奴隷商から偶然アレハンドロを助けた……。でも俺はその時、一緒にいた優しい女の子を失いそうになったんだ。永遠に死なない身体になって、馬鹿みたいに強い力を手に入れたのに……俺はか弱い女の子を危険に晒してしまった」


 絞り出すようなミズガルズの声にイグニスは押し黙る。たっぷり間を置いてから唇を濡らし、彼はゆっくりと言葉を吐いた。


「……ミズガルズ。その失敗を忘れろとか、これ以上気にするなとは言わない。でもオマエは、人間の心を宿したオマエは……あまりにも優し過ぎる。それではこの先はいけないんだよ」


 無言の少年に言い聞かせるようにイグニスは優しく語りかける。金色の瞳はどこか遠くを見ていた。


「女神の思いを引き継いで永遠の身となったんだろう? なら、オマエは確実に誰よりも長く生き続けることになる。長い時間の中で今みたいに辛かったり、難しい経験も何度もするだろうよ」


 焦らないで自分を大切にしろ、と竜の青年は言った。そうでなければ壊れてしまうぞ、とも。白銀の少年は、その言葉で偉大なる蛇の神が以前に与えてくれた助言を思い出した。やはり悠久の時を生きた者同士、どちらも自然とそういう思考に行き着くのか。それとも長年友人関係であったから、同じような考え方をしているのか。いずれにせよ、重く沈んでいた少年の心は少しばかり軽くなった。

 オマエは一人なんかじゃない。そのことを決して忘れるな。イグニスが放った一言のおかげでミズガルズの目も徐々に覚めた。そう、考えるまでもなく、彼は一人などではないのだ。今を全力で生き抜き、共に笑い、怒り、悲しんでくれる者たちがいる。いつまでも落ち込んでいたら、周りの彼らまで悲しませてしまう。そのことに彼はようやく気付いた。


「……オマエはいつまでも優しいままでいられるし、どこまでも強くなれる。道を間違えなければな。オレが生きている間は何でも教えてやろう。共に歩いてやる。……だから、今はまず、辛いことでも一緒に乗り越えよう」


 それを聞いてミズガルズは顔を上げた。そして、憂いも迷いも無い、晴れやかな表情を見せた。炎竜の真っ直ぐな言葉に救われたような気がしたのだ。

 唐突にミズガルズは立ち上がり、凝り固まった小さな身体を伸ばした。銀色の輝きを放つ白髪がさらさらと風に揺れる。鮮血の色を宿した双眸は、前方に広がる果てしない虚空を見据えていた。


「イグニス。俺はお前のこと、別れが来るまで信じ続ける。例え、この世界に何が起こったとしても」


「……ああ、そうしてくれ」


 二人は笑う。スラム街を覆う空はどこまでも青かった。



◇◇◇◇◇



 時間は流れ、日付が変わるまで残り二時間ほどとなった頃。店仕舞い間近の酒場には客など誰もいなかった。ただ一人、思い詰めた顔をした少年以外には。

 白銀の長髪を伸ばした不死の蛇神ミズガルズは、冷えた茶の入ったグラスを片手に持って、思考を巡らせていた。昼間にイグニスから聞いた一連の話が頭の中を駆け回っていたのだ。

 エルシリアの祖国、バルタニア王国が突如として隣国ザラフェに侵攻し、勢いのまま占領。その上、国を襲った魔族の王を炎竜イグニスであると世界中に宣言して、再び悲劇を繰り返さないためにという理由を建前にした挙句、軍事力の増強に努め始めた、だなんて。

 バルタニアの国王……つまりはエルシリアの父親は今までの国政方針を次々と改めて、ついには人間族以外の異種族たちを出入国禁止令の下に拘束し始めたと言う。彼らのその後の動向は分からない。イグニスに言わせれば、恐らく兵器等の製造工場に強制労働者として配属されるか、領土内の鉱山に送られるらしい。


 かつて賢王とまで謳われた彼は人が変わってしまったようになってしまい、国内の混乱は大きい。郊外の農家などはそれが顕著だった。何しろ、納める税金が跳ね上がり、かかる負担が激増したのだ。税が払えずに死を選んだり、夜逃げする者も出始めたという。

 何より極めつけはオキディニス大陸の北方に存在する、ディレンセン帝国との軍事同盟だ。ディレンセン帝国は世界有数の大国で、魔法を一切捨て去った、この世界では極めて珍しい国でもある。今日、帝国内で魔法を使える者はほとんど皆無と言って良く、他国よりも圧倒的に科学的な機械文明が進んでいる。話によると、バルタニアやアスキア、エラーティエの軍隊が所有する軍艦は木製なのに対し、ディレンセン帝国は鉄製の戦艦を複数所有しているようだ。そこからも明らかに帝国の力は飛び抜けていることが分かった。


(そんな国に勝てるのか……?)


 帝国の科学技術がどれほど進んでいるのかは分からないが、鉄製の軍艦を造れると言う話が本当ならば、相当なものだ。恐らく戦車や銃器の役割を果たすような代物だって開発されているだろう。彼らを止められるような国など、この世界には無いのではないかと思えてしまうのだ。抜きん出た科学技術を持った大国の暴虐を止められる存在があるとすれば、それこそ。


(……イグニスや俺のような、最上位の魔物ぐらい、か……)


 グラスの中の氷はとっくに溶けていた。けれど、ミズガルズはそのことにも気付かないほど思考の海に沈んでいた。頭の奥にイグニスが言ったことが貼り付いている。人間の国家同士の戦争には介入したくないという、炎竜の言葉。それは正しいのかもしれない。彼の言う通り、戦争に首を突っ込む真似はしないで、遠くから静観しているのが、魔物としては正しい対応なのだろう。

 だが、ミズガルズはただの魔物ではなかった。今の彼は人間の精神を身に宿している。その人間の心が単に傍観することを強く拒否していた。より正確に言うならば、あの美しい王女を見捨ててしまうのが嫌だった。

 エルシリア・アルメンダリス。きらびやかな金髪とエメラルド色の瞳が鮮やかな、バルタニア王国の姫君だ。こんなにも彼女のことを気にしてしまうのは、やはり彼女がこの世界で一番最初に出会った人間だからなのかもしれなかった。どうしても初めて見た時の光景がミズガルズの頭から離れてくれなかった。


 サネルマから聞いたところ、魔法による記憶の改変が城内で行われていなかったのは彼女自身とエルシリア、それから侍女のセレスティナ・ベルティだけだったと言う。残りの者は皆、意図的に記憶に手が加えられており、炎竜と裏で深く繋がっていたと事実を歪曲されたエルシリアは捕縛の対象になってしまったと言う。彼女とセレスティナの生死がどうなのか、それすらも今は分からない。だから、ミズガルズは心が全く落ち着かず、こうして眠れないでいた。


「よぉ、悩んでるな。姫様のことを考えてたんだろ?」


「……ケネスか」


 野太い声に顔を上げれば、そこには黒い肌の大男が立っていた。出で立ちは薄い生地の長ズボンと真っ白いタンクトップのシャツだけというもので、身体中に刻まれた数々の刺青がよく目立った。

 バルタニア王国の王都を一手に纏めていた悪党の親玉、ケネス・キャロウはまるで当然の如くミズガルズの目の前の向かい席に座った。がっしりした体格のせいで、椅子がやけに小さく見えた。褐色の酒瓶を開け、豪快にぐびぐびと飲み始める。その横顔はどことなく疲れているように見えた。


「……好きな女が危ない目に合ってりゃ、そんな風にもなるよなあ。魔物も人間も変わらねえってこった」


「いや、俺は彼女を好きっていうか、なんていうか……」


 ついつい、ミズガルズはしどろもどろになった。傍から見れば、ただの恋する奥手な少年だ。とてもではないが、竜と並ぶ魔物には見えない。年下の者をからかうような気分になって、ケネスは笑う。度の強い酒を一気に飲んだためか、彼の意識は少し朦朧としていた。だが、それにも関わらず彼は酒をもう一度煽った。


「いっそのこと、あの馬鹿な国から奪っちまえよ。お前に喧嘩を吹っ掛けられるような奴なんざ、この世に何人もいねえんだから」


「馬鹿言うなよ。俺はそんなこと望んでない」


 すっかり空になった酒瓶を机上に転がし、手持ち無沙汰な様子を見せるケネス。一体、彼は何をしに来たのだろうかと、ミズガルズが訝しみ始めた時だった。


「……俺にも好きな女がいた。まあ、好きっつっても、恋人のことじゃない。四歳下の妹がいたんだよ、俺にはな」


 唐突に始まったケネスの話。そろそろ席を立とうかと思っていたミズガルズはそのまま固まる。何となく、この話は聞いておいた方が良いと感じたのだ。根拠も何も無かったが、聞かなければいけないとも思った。そうこうしている間にもケネスの口は動き続ける。彼の目は天井に向けられていた。


「二十七年前、俺はティルサの貧しい地区に生まれた。丁度、この町みてぇなとこだ。親父の顔は覚えてねえ。俺が五歳、妹が一歳の時にくたばっちまったからな。で、俺が九歳になった頃、お袋も病で死んじまいやがった……妹はまだ五歳だぜ? 途方に暮れたよ、あの時は」


 ミズガルズは黙って続きを促した。ケネスもいちいち確認を取るような真似はせず、昔語りは滔々と流れていく。


「俺は自分と同じように路上に溢れていた奴らを集めて、犯罪に手を染めていった。仲間には途中までカルロスもいてよ……盗みやスリに何でもやった。俺らみたいなガキが生きていくにはそれしか無かったし、案外楽しかったんだ。俺が十五の時、妹が殺されるまではな……」


 昔の物語がどういう結末を辿るのか、途中から察しがついていたとは言え、ミズガルズは押し黙った。何も言えなかった。沈黙が降りる。


「俺は死ぬほど後悔した。カネを稼ぐのにかまけて、妹を助けられなかったんだ。スラムで若い女を一人にするってことが、どれだけ危険なのか分かっていたのに……。けど、今となってはもう遅い。何をしようが、あいつは帰って来ねえんだからな」


 中身の入っていない酒瓶を握り、大柄な身体を揺らしながら、ケネスは席から立ち上がった。もう話は終わりということだろう。それに店仕舞いの時間も近い。きっと背中の向こうにいる酒場の店主は迷惑そうな顔でこちらを見ているに違いない。ミズガルズもそのことは理解していたから、同じく立ち上がって席を離れた。少年の隣を体格の良いケネスが歩く。酒場を出て階段を上がり、部屋に入っても彼らは無言だった。灯りはすっかり消えて薄暗くなった部屋の中を、眠る仲間たちを踏みつけないようにしながら歩いて、静かに寝床につく。そうして、ミズガルズも目を閉じようとした、刹那。


「……なあ、ミズガルズ。たかだか人間が何を偉そうにって思ってるかもしれねえが……後でずっと後悔するような選択だけはするなよな……」


 少年は思わず身体を起こした。視線の先には大きな背中を向けるケネスの姿。だが、彼は何も言わない。寝てしまったのだろうか、それとも単に狸寝入りを決め込んでいるだけなのか。どっちにしろ、これ以上は何も言ってくれないような気がした。


「ああ、分かったよ、ケネス。お前のおかげで……迷いが消えた」


 物言わぬ大男の背中に感謝の意を投げかけてから、少年は夢の中に身を委ねた。



 その夜から五日後、ミズガルズはイグニスの背に乗り、サネルマとリューディアと共にバルタニア王国へと向かうことになるのだった。

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