洞窟の夜
騒ぎ立てる警備兵たちを前に、いかにも面倒そうな調子でミズガルズはケネスに尋ねた。
『ケネスだっけ? あいつらは……お前の知り合いか?』
「全然違う。会いたくもねえ連中だってのは確かだ」
ケネスは苦々しい顔をしてすぐさま否定した。たかだか下っ端の警備兵たちがまさか洞窟の中まで追って来るとは彼も思ってもいなかったので、その表情にはあまり余裕が無かった。疲弊した今の調子で三人相手に勝てるだろうかと、彼の頭は既に計算を始めていた。
一方のアロンソたちも突撃するのを躊躇していた。自信過剰な彼らのことだ。ケネスに逃げられるかも……などという心配をしていたわけではもちろんない。彼らにとって問題だったのはケネスの横に鎮座する大蛇だ。いきなり姿を現した大蛇に、アロンソ以下三人は大きな動揺を見せていた。それはそうだろう。アロンソは自信過剰な男だったが、さすがの彼もあれほど巨大な相手に正面から向かっていく気は起きなかった。そもそも彼の普段の任務は王都の警備や治安維持で、魔物と戦ったことなど数えるくらいしかない。そんな彼が見上げるほど大きいミズガルズと戦えるわけがなかった。
「アロンソ! どうすんだよ、あんな馬鹿でけぇ化け物がいるなんて俺は聞いてねぇぞ!」
「知るか! 黙れよ、イニゴ。今考えてんだよ、見れば分かんだろ! あと三分待って!」
「三分ももたついてたら俺ら殺されちまうよ!」
アロンソとイニゴがぼそぼそと非難の応酬を始め出した。長いこと同僚のはずだが、てんで息が合っていない。二人よりも歳の若いフォンスに至っては、構ってもらえず放置されている。途中途中で会話に加わろうとして、その都度綺麗に無視される姿が見る者の哀愁を誘った。
ケネスはどうしていいか分からずに遠くから三人の言い争いを見ている。ミズガルズの方は、もっと分からない。珍客たちが勝手にやって来て、よく分からないが内輪揉めを始めたのだ。どうしていいか分からないのは仕方ない。そのうち何を勘違いしたのか、アロンソがミズガルズたちに向かって声を張り上げた。
「やいやいやいやい、そこのデカブツ! その男は俺達の獲物だ。横取りするんじゃない! 今すぐ引っ込みやがれ!」
威勢だけは良いが、やはり手は震えていた。イニゴもフォンスも、突然のリーダーの暴走に顔を青くした。そして数秒も経たないうちにイニゴが走って逃げだした。まるで、食われるならお前一人で食われてろ、とでも言わんばかりの逃走っぷりだ。それに気付いたフォンスも踵を返そうとしたが、いかんせん遅かった。優柔不断な性格が災いしてしまったらしい。
アロンソの右手がフォンスの腕をがっちり掴む。もう、既にその時点でフォンスは泣きそうな顔をしていた。若い兵士の眼には絶望の色が広がっている。
「フォンス君。聞きたまえ、作戦を伝える。俺がケネスを捕まえる。だから、その間に君はあの蛇を引き付けて、時間を稼ぐんだ。何も心配することはない。ケネスを捕えた暁には多額の褒賞金が出る。先輩の俺が責任をもって君専用の立派な墓を作っといてやる」
まるで人々を正しい方向に導く神の如き柔和な表情を作り、誰もが安心できるような声でアロンソは言葉を紡ぐ。その笑顔ときたら背後に後光が射しているかと錯覚してしまうほどだった。言わずもがな光っているのは後光ではなく、洞窟の壁に生えた苔だ。
「嫌ですよ! そんな作戦は絶対に無理!」
途端、アロンソが変貌する。
「てめぇ! この間、飯おごってやっただろうが!」
無茶苦茶な理由だった。どう考えても、飯と命は同じ天秤には掛けられないだろう。ただ、褒賞金のおかげで完全に目が眩んでいるアロンソの前では、フォンスはあまりにも無力だった。
「……お前が王都の売春宿の一番人気の娼婦と恋仲なこと、広められるだけ広めてやろうか? 一体どうなっちまうんだろうな」
「なんで、それを!? ……ぜひ、やらせてください! 囮をやらせてください!」
叫びを上げ両目を涙で濡らし、フォンスは突撃を敢行した。玉砕覚悟で腰の剣を抜き放ち、ミズガルズに向き直る。剣を握る手は汗で濡れ、腕も足もガクガク震えている。そよ風が吹けば折れそうだった。それでもフォンスは諦めない。逃げない。アロンソに囁かれた秘密が街中に流れたら大変なことになるからだ。彼と恋仲になっている娼婦には、幾人もの熱心な常連が付いているのだ。もしタチの悪い常連客に知られてしまったら、フォンスは場合によっては命の危険まで考えなくてはいけないだろう。
「ち、畜生! この野郎、かかって来い! こ、来ないんなら俺から行くぞ!」
もう既に色々と疲れ果てていたミズガルズに向かって、フォンスは剣を振り上げた。実に頼りない構えで、隙だらけだった。
そしてフォンスが懸命に振り下ろした剣はミズガルズに……刺さらなかった。鱗の一枚も斬れず、それどころか掠り傷もつけられない。目に見えて焦り始めるフォンス。彼はもはや無茶苦茶に剣をぶつけたが、逆に刃の方がぼろぼろと欠けてきた。
『あー……。特に痛くないんだけど、やめてほしいかな……』
必死な様子の警備兵を見下ろして、遠慮がちに求めるミズガルズ。フォンスは動きを止め、諦めた様に剣を捨てた。カラン……という音が妙に物悲しく響き渡った。
「くそ! 食えばいいじゃないか! 好きにしろってんだ!」
『何なんだよ……』
手があったならば、頭を抱えていただろう。目の前で半泣きになりながらじたばたとしているフォンスに、ミズガルズはうんざりする。もう、全部放っといて端の方で寝ていてもいいんじゃないだろうか。げんなりとした大蛇は溜息を漏らし、もう関わり合いになりたくないとさえ思い始めていた。
『言いたくないけど、勝てると思ったのか?』
「……お、思ってるわけないだろ! たかが王都の警備兵だぞ、警備兵!」
縮こまっているフォンスを見下ろしながら、ミズガルズは呆れた様に言う。彼としては、なるべく早くこの珍客たちに帰ってもらいたかった。騒々しいのも、面倒事もお断りだった。
「ぐふぉあっ!」
おかしな声が辺りに響き、剣を地に取り落とす音が洞穴に染み渡る。何事かとフォンスと蛇神が見てみれば、地面に片膝をついているアロンソがいた。すぐ傍にはケネスが立っていたが、何故か物凄く困惑した様な表情だった。
「……弱すぎだろ。お前、本当に国の警備兵かよ?」
「うるせぇ! こ、この悪党め……!」
アロンソは鬼の形相で悪態をつくが、どうにも立てない様だった。よほど疲労が積もったのか、荒い息づかいがミズガルズのところにまで聞こえてきた。
無傷の蛇神と、へたり込むフォンス。そして、こちらも無傷のケネスと、立ち上がれないアロンソ。勝負は決まった様なものだった。
◇◇◇◇◇
湖岸にとぐろを巻く規格外の大蛇。その前に座り込む男が三人。右から順に、フォンス、アロンソ、ケネスの順番だ。ミズガルズの名誉の為に言うが、これは決して捕食の場面ではない。
「……命だけは、助けてください」
今にも失神しそうな程に身体を震わせているアロンソに代わって口を開いたのはフォンスだった。先輩が最早頼りにならないと判断したのだろう。アロンソのことなど一瞥もせずに一人で話を進めていく。
「アロンソさんも悪気はないんです。ちょっと、お金の話になると先が見えなくなるだけで……。どうか、お許しを」
ミズガルズは特に何もする気はなかったので、そう言われても逆に困ってしまった。別に怒ってはいないし、そんなことはどうでもいいから早く帰ってくれればそれで良かったのだ。それでも、フォンスたちを一旦留めたのは経緯と外の情報を知りたかったからだ。
『森の外には、お前たちが住んでいる街があるのか?』
それにフォンスは頷いた。バルタニアが誇る王都ティルサは、セルペンスの森を出て平原をしばらく進んだ場所にある城下町だ。王都と言うだけあって、政治・経済・文化の中心地である。また、大陸中から様々な種族が集う賑やかな場所でもあった。
それを聞いて、ミズガルズは一抹の寂しさを覚えた。あまり自分には関係ない場所だな、と。どのみち、この巨体である。のこのこと人里に出れば、間違いなく討伐されてしまうだろう。
『……そうだ。全く関係ない話なんだけど、お前たちは不老不死の秘草について何か知らないか? 訳があって探しているんだ』
ミズガルズの問いにフォンスたちはポカンとする。何か変なことでも聞いてしまったのかとミズガルズは心配になり始めた。
「不老不死の秘草……。俺の昔の知り合いも探してたよ。今じゃ行方は分からねぇけどな」
ケネスがしんみりと呟けば、後にフォンスが付け加える。
「不老不死の秘草は、この世界に生きる人間たちの夢ですよ。金をつぎ込んで探し出そうとしている貴族は沢山いるけど、誰も見つけてない。遥か昔、この世界の神が育てていたものがまだどこかにひっそりと咲いているとか……そんな伝承や噂話があちこちに言い伝えられてますね」
依然として固まっているアロンソは放っておいたまま、ミズガルズは考え込んだ。真相は定かではないが、探している人間がいるということは秘草があるという可能性だって確かに存在する。無いと決まったわけではない。見つけられることも、あるかもしれないのだ。
「……そんなに秘草のことを気にするなんて、もしかして寿命が近いのか?」
『ん? あぁ、あと五千年くらいだよ』
無遠慮に尋ねてきたケネスにミズガルズは即答した。そうすると、唖然とした大男はそれ以上質問せず、後は何も聞こえてこなくなった。
◇◇◇◇◇
『おいおい……なんで、お前は残っているんだ?』
憮然とする蛇神の前には、得意気な様子のケネスがいた。他の二人は話が終わるやいなや、とっとと帰ってしまった。捜索対象のエルシリア姫が既にティルサに戻ったことをミズガルズとケネスに教えられたからだ。ちなみに薄情者のイニゴは行方不明だ。恐らく、今頃はティルサの酒場にいるのだろう。
『もう一度聞くけどな。どうして、残っているんだ、ケネス?』
警備兵たちは早々に退散したのに、一方のケネスは帰る素振りを見せないのだ。彼は岩に座ってゆったりとくつろいでいた。外は既に夜。真っ暗だろう。今更、森の中に戻るのは危険だなとミズガルズはようやく合点がいった。
ミズガルズは疲れた様に瞳を閉じた。彼にとっては問題ないだろうが、ケネスにはこの洞窟は寒いはずだ。これで出来なかったら恥ずかしいなと思いながらも、大蛇は意識を集中させる。
洞窟の壁際に人骨や枯れ枝、それからコウモリの糞などが溜まった窪みがあった。まるで天然の薪のようになっているその窪みに向けて、ミズガルズは静かに息を吹きかけた。肺から喉の奥を通らせて吐息を押し出す際に、彼の身体を熱が巡った。
そして大蛇は目を開ける。そうすれば、ミズガルズが思った通り真紅の炎が眼前で揺れていた。想像していたよりも楽に炎を吹けたことに、ミズガルズは自分のことながら安心と驚嘆の念を覚えていた。
『上手く……出来るものなんだな』
「すげぇ! これはあったけぇや!」
神に祈るかの様な勢いで、火に近づいては手をかざすケネス。今まではやはり寒かったのだろう。一心不乱に両の手の平をさすっていた。その様子を見る限り、ここから出て行くつもりはまるで無いらしい。
『……お前、怖くないのかよ』
「そりゃ怖いさ。だが魔物だろうが何だろうが、俺を助けてくれたことに変わりはねぇ。そんな相手を疑うのは俺の性分じゃない」
それにあの二人が待ち伏せてるかもしれないしな、と付け加えて、ケネスは静かになる。ミズガルズも何か聞こうとしたが、何となく躊躇ってしまった。
そうして、静かに静かに洞窟の夜は過ぎていく。




