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帝都のスラム街にて

 シャターラを出航してから一週間が経ち、ミズガルズはカラムルタ市に到着した。船を下り、航海中に仲良くなった人たちに惜しみながら別れを告げると、彼は少しの荷物を持ち漆黒の竜蛇を従えて、ある場所に向かった。馬車で人間や物を運搬する業者の所である。

 そして今、業者と交渉を重ねたミズガルズは馬車に乗っていた。カラムルタから帝都エルタラまでの短い道のり。料金はそれほど高いものでもない。あまり持ち合わせの無いミズガルズにも良心的な値段であった。


(そのうち、資金を稼ぐ方法も考えないとな……)


 ぼろい馬車の中で揺られながら、少年はそんなことを考える。じゃれつくノワールを撫でてやり、気を楽にしようとしたが、なかなか上手くいかなかった。甘える黒蛇を見つめる赤い瞳の奥底には憂いが垣間見えた。

 ミズガルズを思考の大海原に突き落として翻弄している原因は、船の上で同乗者に聞いた話だった。そのとんでもない内容に少年の心は大きく揺さぶられた。西の大国、バルタニア王国のことである。賢王とまで呼ばれたアシエル王が突如として人が変わったようになり、軍拡を進め始めたというのだ。大陸北方にある科学文明の発達したディレンセン帝国とも同盟を結んだというのだから、ますます驚きだった。

 戦争も近いかもしれない。同乗の男はそう言っていた。彼の言葉を思い出す度にミズガルズは陰鬱な気分に包まれる。何より仲間たちのことが心配だった。何せ話によれば信じられないことに、あのイグニスが魔物の軍勢の長……魔王にされていたのだから。そして、不可思議なのはそれを誰もが信じているという事態だ。そんなことは絶対に有り得ないのに……一体どうなっているのだろう?


「無事でいてくれよ……皆」


 今の少年には大切な友人たちの生存を祈ることしか出来なかった。



◇◇◇◇◇



 巨大なエルタラの町並みが見えてきた頃、馬車の業者が自身の愛馬を止めた。仮眠をとっていたミズガルズは突然の急停止に驚くも、ノワールを連れてゆっくりと下車した。少年が下りてきたのを確認すると肥満体質の業者が言った。


「お客さん、着きましたよ。あのとんでもなくでっかい街が帝都ですわ。すぐそこに大きな門があるでしょ。あそこに行けば市街に入れますよ」


 笑顔を絶やさない彼に代金を渡し、ミズガルズは再びフードを被ってから歩き出した。とは言っても、巨大な正門までは本当に近く、ミズガルズもすぐに帝都に入ろうとしている者たちの列に加わった。他人の雑談に耳を傾けていた彼だったが、ふと後ろから声をかけられた。


「あのう、もしかして竜蛇を飼ってるんですか?」


 遠慮がちな声にミズガルズは振り返った。そこにいたのは一人の少女だった。黒縁の大きな丸眼鏡を掛けていて、栗色の髪の毛を肩まで真っ直ぐに伸ばした、いかにも大人しそうな女の子だ。年齢はコリンやミリーザとさして変わらないだろう。ただ、ミリーザが持ち合わせていたような派手さは無く、ひたすらに地味な雰囲気だ。胸に抱いた古そうな本も相まって、いわゆる文学少女というものを少年は思い浮かべた。


「……こいつに興味があるのか?」


「あっ、えっと、はい。私、生き物と本が大好きで、いつか竜蛇に触ってみたいなーと思ってて……。竜蛇は珍しい生き物だから見ることもなかなか出来ないんですよ」


 名も知らぬ少女の願いを叶えてあげるべきかどうか、ミズガルズは少し迷った。これでもノワールは毒蛇である。この世界、当然のように蛇毒血清などあるはずもなく、かと言って治癒魔法も今まで使ったことも無いから、少女がノワールに咬まれた時にぶっつけ本番で上手くいくかは分からなかった。

 困ったなと思っていた時、ミズガルズとノワールの目が合った。寧ろ、ノワールの方から合わせてきたと言った方が良いかもしれない。漆黒の竜蛇は何かを目で訴えていた。まるで、「絶対に咬んだりしません!」とでも言っているかのようであった。訝しげに見つめるミズガルズ。だが、ノワールも負けていない。彼も目の前の黒縁眼鏡少女という遊び相手を見つけて燃えているのだ。結局、蛇神は幼い竜蛇に根負けした。


「はぁ……仕方ないな。大人しくしてろよ?」


 承知したとばかりにノワールは頷いた。眼鏡の少女も借りてきた猫のように大人しい竜蛇の姿に頬を緩め、たちまち破顔してノワールの頭を撫で始めた。そんな彼女の姿を見ていると、ミズガルズの心も何だか暖かくなってきた。


「あのぅ、この子の名前は何て言うんですか?」


「ん? あぁ、ノワールだよ。シャターラっていう町で知り合った人から譲り受けたんだ。凄く懐かれちゃってさ」


 シャターラという単語を耳にした少女の顔色が僅かに変わった。


「シャターラ……じゃあ、海を渡って来られたんですか。もしかしてあなたも帝都には出稼ぎに?」


「いや、ただの旅人だよ。君は出稼ぎに来たの?」


「あっ、いえ、私は出稼ぎというより新しい生活を始めようと思って来たんです。故郷の村で母が亡くなって、肉親も親戚もいなくなっちゃいました。だから、いっそのこと、まるっきり新しい零からの生活をしたくて……」


 俯きながら話す彼女を見て、ミズガルズは彼女に素朴な愛らしさを感じた。きらびやかな派手さは無いものの、却って健気な感じが目立ち、何故か守ってあげたくなる。そんな雰囲気を醸し出す少女だった。


 と、丁度その時。閉ざされていた巨大な正門前に幾人もの兵士たちが現れた。そのうちの一人がよく通る声を大きく張り上げ始めた。そして、彼の言葉を聞いた群衆が次第に騒ぎ出した。


「帝都エルタラへの入場を望む者は入市料として、エルト銀貨三枚、ルティア金貨五枚を支払うべし! なお、帝都の住民であれば住民証を見せよ! その者たちは直ちに通す!」


 ミズガルズは思わずぽかんとなった。町に入るためだけに金が必要になるなんてことは聞いていなかった。しかも、その値段たるや法外も良いところだった。

 エラーティエ帝国では何種類かの貨幣が流通している。価値の高いものから順にエルト金貨、エルト銀貨、エルト銅貨があり、それより劣るものとしてルティア金貨、ルティア銀貨、ルティア銅貨も存在する。庶民に馴染み深いのは主にルティア貨幣とその下にあるペドラ青銅貨ぐらいだ。余程の金持ちでなければ、エルト貨幣とは縁が無い。特に田舎ではその傾向が顕著であった。


 ミズガルズの頬を嫌な汗が流れた。そっと確認してみれば、所持金は全く足りなかった。ルーファスから受け取った餞別の中にはルティア銀貨はあったものの、エルト銀貨は無い。それも一枚も無い。もう、その時点で彼は帝都に入れないことが決まっていた。

 恐る恐る後ろを振り返ると、やはりと言うべきか、黒縁眼鏡の少女も同じような顔をしていた。まるで鳩が豆鉄砲を食らったようである。どうやら彼女も帝都に入るのに金銭を支払う必要があることを知らなかったらしい。

 そこでミズガルズは気付いた。自分たちの周りで列を作っている者たちは皆、裕福そうな雰囲気の人間ばかりである。色が褪せ、所々が擦りきれた衣服に身を包むミズガルズと少女とは違う。その証拠に兵士の言うことを聞いても、全く動じていなかった。持ち合わせに余裕があり、なおかつエルタラに入るには金がかかることも知っていたのだろう。


「もしかして君たち、他所から来た者は金を取られるようになったって知らなかったのかい?」


 挙動不審になり始めた二人に、ある商人風の男が声をかけた。ミズガルズは黙って頷く。すると、男はこんなことを言うのだった。


「あぁ、そりゃ気の毒に。入市料が払えなきゃ入れてもらえないことに最近決まっちゃったようだよ。何でも帝都への流入者が激増しちゃって治安が悪くなってるみたいだから、それを減らそうってことらしい。……まぁ、少し強引なやり方だけどねぇ」


 のんびり話す男に向かって、少年は内心で反論する。少しどころか、酷く強引だ。貧乏人に対する明白な差別と言えよう。だが、目の前の商人にそんな不平不満をぶつけても意味が無い。そして、ミズガルズは男から町の外でもどこか宿を取れるような場所は無いのか聞くのだった……。



◇◇◇◇◇



「……はぁ、信じられない。まさか、街に入るだけで料金を取られるなんて思ってもなかったよ。ここの皇帝は結構がめつい奴なんだな……」


「ま、まあまあ。落ち着いてください。怒っても良いことなんか無いですよぅ」


 怒りながら文句を垂れ流すミズガルズの隣を黒縁眼鏡の文学少女が歩いている。少女は白銀の長髪をした少年を宥めるのに必死な様子だ。

 彼ら二人は結局、壁で外界から隔てられたエルタラ内部には入れなかった。それもこれも、皇帝ザカライアスや宰相のレドモンなどが決めた定めのせいだった。彼らは日々増え続ける帝都への流入者に頭を抱えていた。そういった者たちは故郷を捨てて帝都での暮らしを求めたり、出稼ぎに来たりするのだが、それがまた問題だった。

 流入者の数が多すぎたのだ。帝都は大都市とは言え、彼ら全員の住居や仕事、日々の食料をいきなり提供することなど出来ない。仕事に就けず、金も得られないため、毎日の生活さえままならない者が当然ながら自然と増えていく。そうすると彼らは流されるまま路上で寝起きしたり、犯罪に走るので、帝都は衛生的な視点からも悪化し、治安もどんどん悪くなった。

 新たな流入者と元から帝都に住む住人との間で大きないさかいや深刻な抗争が勃発し始めると、遂に皇帝は苦渋の決断をした。新たにエルタラに入ることを望む者から金銭を徴収することに決めたのである。凡そ二週間前から試験的に導入したばかりのものだが、効果は上がっていた。町に入るだけで金銭が取られるとあっては、田舎から定住目的でやって来る者にとってはたまったものではない。こうして貧相な身なりの御上りさんたちは数を減らした。ここで重要なのは異国や国内から来た観光目的の者には、全く料金がかからないということである。

 ちなみに観光や商業目的の者とそれ以外の流入者たちとを区別する時に使われるのが、入国時などに発行してもらう帝都観光許可証や帝都商用許可証だ。ミズガルズも眼鏡の少女もそれを持っていなかった。少女は恐らく発行してもらうこと自体を忘れたのだろう。もしかすると生まれ故郷が辺境すぎたために、許可証の存在すら知らなかったのかもしれない。当然、エラーティエ帝国民ではないミズガルズは、そんなものがあるとは思ってもいなかった。つまり許可証を持っていない二人には追い返される以外、道は無かったのだ。

 酷く単純で露骨だが、利益を落としてくれるお客様には優しくし、市民税を払う能力すら無いような厄介な田舎者たちは最初からお断りというわけだった。理屈は分かるが酷いものだと、歩きながらミズガルズは憤慨していた。


 そうして少年と少女が歩いている場所……そこは俗に言う貧民窟だった。エルタラを取り囲む防壁の外に存在するため、本当は帝都の一部ではないのだが、事実上は広大な市街の一地区と化してしまっている。ここは先程言ったように帝都内に入れなかった流民たちが集まって形成していた。この地区はエルタラの南東に広がっていた。帝都の入り口である四つの大正門のうち、さっきの南門と東門の間だ。どちらかというと、南門よりも東門に近い。


 帝都の上流階級の人間たちから、「ゴミ捨て場」と揶揄される貧民地区だが、活気はそれなりにあった。もちろん、治安の悪さは論じるまでもないが、ここに根を下ろした人間たちは腐らずに毎日を生き抜こうとしていた。様々な文化の入り交じった町並みは乱雑で美しいとは言えなかったけれど、それだけでも辺境生まれの少女にとっては何もかもが真新しく映った。


「おいおい、嬉しそうにすんなよ。田舎者ってだけで門前払いされたんだぞ?」


「あっ、は、はい! ごめんなさいです……」


 慌てて謝る少女。彼女の横ではノワールが羽を動かしながら、ゆったりと飛んでいる。


「そういえば、名前を聞いてなかったな。何て言うの?」


「あっ、私はヘレナ・カーソンと言います。えっと、あなたは?」


「……俺はリンだ。女みたいだけど、れっきとした男だよ」


 リン。その名前にミズガルズは何だか不思議な感じを覚えていた。捨てたはずなのに未だに忘れられない、人間であった頃の本名だ。思えば、あの頃も懐かしい。電線や機械、灰色のコンクリートに彩られた街を歩いていた日々が。良い思い出などほとんど無かったし、今更戻りたいとも思わないが、それでも懐かしいことに変わりはなかった。様々なことを経験した今となっては尚更である。

 そうやって思考に没頭していた時、ふと知らない男から声がかけられた。少年が顔を上げると性格の悪そうな若い男が日に焼けた顔に営業スマイルを浮かべて立っていた。黒々とした髪は油か何かで後ろへ撫で付けられており、はだけた胸板には首に掛けられた金色のチェーンが光っていた。どぎついピンク色の派手なシャツも手伝って、放たれる胡散臭さは相当なものだった。


「やあ、お二人さん! この町は初めてかな?」


「あぁ、そうだけど?」


「宿は決まってるのかい? あんまり財布事情が良さそうにも見えないけど。もし良かったらウチの宿屋に宿泊しない? めっちゃ安くしとくよ!」


「……いくらだ?」


 長い船旅のせいもあって、知らず知らずのうちに疲労が蓄積していたのだろう。とにかくミズガルズはどこかで休みたかったのだ。だから、怪しい男の話でもついつい聞いてしまった。


「一人につき、一泊でたったのペドラ青銅貨二枚! 破格じゃないか!?」


 料金の悪魔的な安さに誘惑されて、ミズガルズは二つ返事で頷いた。よく分かっていないのはノワールだけで、ヘレナも一も二も無く、男の提案に食い付いた。


 この後、深く後悔するとは夢にも思わずに、少年は男の後に付いていった。



◇◇◇◇◇



 帝都エルタラに隣接するスラム街にも夜は来る。気付けば真夜中だ。大方の住人は眠りの世界に誘われている時間だ。ミズガルズも質素で狭い部屋の中に置かれた、簡素なベッドの上にいた。ただ空気が湿っぽいせいか上手く寝付けず、完全には睡魔に支配されていない。ノワールが部屋の隅でとぐろを巻き、爆睡しているのにも関わらず、その主はまだまだ意識を保っていた。


(……イグニス、元気かな? 魔王なんかに仕立てられちまって……討伐なんかされてないよな……)


 溶け行く意識の中に勇壮な炎竜の姿が浮かんだ。彼だけではない。エルシリアの美しい横顔、サネルマの自信たっぷりな表情、愛らしい水竜のリューディア、幼い淫魔のリリアーヌ。それにケネスの黒い顔やらアレハンドロのアホ面、酔っ払ったカルロスの姿なんかも浮かんでくる。一人たりとも欠けないで欲しいな……などと思いながら、いよいよ眠りにつこうとした時。扉を開ける音を少年は聞いたような気がした。


「……ヘレナか……? ここはお前の部屋じゃ…………むぐっ!??」


 何者かが素早く少年に飛び掛かり、その小さな身体を強く押さえ付ける。この体格、この力……ヘレナではない。そう少年が思った時には口元に何やら布が押し付けられていた。そこから漂う香りを嗅ぎながら、少年の意識は急激に遠退いていく。


 そして、全てが真っ暗になった。

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