別れと旅立ち
夜闇に包まれた魔術学院の広場はやけに静かであった。不思議なことに誰も口を開こうとしない。誰もが固唾を飲んで、眼前で起きている出来事を見守っていた。言葉を挟んではいけないという雰囲気がそこには漂っていた。
『馬鹿、な……本物だと……』
巨人の身へと自ら変貌したザムラスも声が震え、掠れていた。身体をゆっくりと締め上げる大蛇に対して半ばされるがままであり、目立った抵抗も見せなかった。見せられなかったと言った方が正しいか。彼の身体は完全に硬直してしまっていた。
ザムラスは絡み付く白蛇を何とかして引き剥がそうと試みるも、時既に遅かった。気をつけの姿勢のまま、両足も、両腕も縛られている。引き剥がしたくても彼は最早何も出来なかった。
焦るザムラス。彼の頭の中は困惑と恐怖でいっぱいだった。そもそも、未開発で辺鄙極まりないマルゴーア大陸に何故このような伝説の魔物がいるのか分からなかった。ザムラスがミズガルズ復活の噂話を小耳に挟んだのはつい最近のことだ。だが、その話によれば、神話に謳われた蛇神はここより遠い、西のオキディニス大陸で暴れたはず。この短期間でかなり距離の離れたマルゴーア大陸までどうやって来たのだろうか。何にせよ、ザムラスの運がこれ以上無いくらい悪いのは間違いなかった。
『どうしたんだよ。俺が怖いのか?』
世界最強とまで称される魔物には似つかわしくない口調で、まるでからかうかのように言うミズガルズ。ザムラスはわずかに引っかかりを感じたものの、何も言わなかった。というよりも言い出せるわけがなかった。今、自分がどのような状況に置かれているのか、自らの生殺与奪を誰が握っているのか……それが理解出来ないほど、ザムラスは馬鹿ではなかった。
『ま、待ってくれ。私を殺してはいけない……ここで私を殺すより、貴方と私とで手を組んだ方が良い。聡明な貴方なら分かるだろう?』
ミズガルズは動きを止めて、目を細めた。黙って、ザムラスに先を促す。下手に出た彼はここぞとばかりにまくし立て始めた。
『私には知識がある! 貴方の力を合わせれば、何だって手に入る! 助けてくれるならば、私は誠心誠意貴方に尽くそう。それこそ、貴方の覇道の手助けだって…………』
そこまで言って、ザムラスは固まった。ミズガルズの凍えるような冷たい視線を感じ取ってしまったからだった。直後、ザムラスは悟る。これは何を言っても無駄だ、と。この目は対等な敵ではなく、ただの獲物……あるいはそれ以下の存在に向けられるモノなのだ、と。
『で、それだけか? 言いたいことは』
『え、あ、いや。ちょっと、待って』
待ってもらえることなど、あるわけがない。ぎりぎりと締め付けられる。その信じられないほどの怪力に、ザムラスは思わず悲鳴を上げた。それでもミズガルズは止めない。規格外の力をもってして、いとも容易くザムラスを無力化させていった。
『ま、待て待て待て待て! 待ってくれぇ! 貴方の言うことを何でも聞く! だから、私を助けてくれっ!』
命乞いはまるで聞き入れられない。代わりに太くしなやかな胴がするすると蠢いて、醜い巨人となったザムラスを縛り上げていく。足首から首にまで巻き付いても、ミズガルズの長い身体はなお余った。ガチガチと歯を鳴らすほど震えているザムラスの耳の横に顔を寄せ、ミズガルズは言った。
『……何人も殺しておいて、自分だけは助けて欲しいって? 虫が良すぎる話だと思わないか?』
『そ、そんな……』
そうしてザムラスは気がついた。広場の外縁部に佇む幾人もの学生や教員、祭りの客として来ていた一般人たちが自分を睨み付けていることに。彼らの瞳には明確な怒りが浮かんでいた。身内や友人を亡くしたのか、泣いた跡が窺える者もいた。無数の視線を浴び、ザムラスは震えた。そして自棄になり、脱け出せないと分かっていながらも滅茶苦茶に暴れようとした刹那、氷のように冷たい声が響いた。
『恨むんなら、今までの自分を恨みな。これはお前が選んだ道なんだから』
結果的にそれがザムラスの最後に聞いた言葉となった。次の瞬間には大蛇が素早く動き、しっかりと老魔術師の身体に巻き付いた。その上で、いよいよ本気の力で締め上げた。丸太のように太く、滑らかな白銀の胴体は無尽蔵の力を秘めている。その証拠にザムラスは悲鳴を上げることも出来ず、ただただ口や鼻から鮮血を噴き出すのみ。目も虚ろで、もはや意識が飛びかけているらしい。辺りには身体中のありとあらゆる骨が砕ける音だけが響き渡った。
目の前に広がる圧倒的な情景を、その場にいた人間たちは呆然として見ていた。一人残らず畏怖の念を胸の内に抱き、突如現れた白蛇に見とれていた。夜空に漂っていた雲の群れは消え、白い月が姿を見せた。月光は地上に降り注ぎ、世界蛇を照らすのだった。
◇◇◇◇◇
本来ならば、シャターラ魔術学院の学院祭の二日目となるはずだった日。その日は祭りが中止となり、学院は事後処理を行う学生や教員たちで溢れていた。町の住民たちも総出で片付けを手伝っている。さらに校舎の中では怪我人の治療が今も行われている途中だ。近隣からやって来た貴族などの中には帰路に就く者もいたが、大抵の一般人は手伝いに協力していた。
魔物を操り、指示を出していたザムラスが死んだせいなのか、学院の中で人間を無差別に襲っていた泥人形たちは全てが機能を停止した。彼らは怒った学生たちにより一つ残らず叩き壊された。
「……兄さん、きっと神様はあなたの罪を許さないだろうけど……僕だけは許すよ」
汗水垂らして悲劇の後片付けをする学友たちの姿を遠くから見つめながら、領主スチュワートの息子、ウィリアム・ウェザリントンはポツリと呟いた。彼の手にはペンダントが握られている。桃色の瑪瑙を加工して作ったものだ。それが二個ある。一つはウィリアム自身のもの、もう一つは今は亡きジョナサンの形見だ。昨晩、あの醜悪な巨人を簡単に絞め殺した白銀の大蛇が集団の中からウィリアムを呼び出し、直接渡してくれたのだ。
ウィリアムは大蛇からかけられた言葉を忘れていない。ジョナサンは安らかな最期だった、と。そして、己の犯した罪を悔い、弟の名を逝く直前に言っていたと言う。それを聞いた時、ウィリアムは涙を流した。同時に自分の鈍さを悔いた。邪悪な者に唆される前に兄を救えなかったから。
「……蛇の神……ミズガルズ、か……」
あの広場で、人間の姿に戻った大蛇はこうも言っていた。ジョナサンを裏切り、盾として使い、見殺しにしたのはザムラスだが、直接的に殺害したのは自分だ。だから、もし望むのなら気が済むまで殴ってくれ、と。
そう言われた時、確かにウィリアムは眼前の少年を殴りたい衝動に襲われた。けれども、その気持ちを押し留めた。どうしても殴れなかったのだ。もちろん、人智を超えた存在を殴るという行為自体に恐怖も感じたのだろう。だが、それを抜きにしても、ウィリアムはミズガルズを殴れなかったのだ。
「ごめんよ、兄さん。どうか安らかに……」
朝日に照らされた少年は一人祈り続けた。
◇◇◇◇◇
ほぼ全ての学生が教員や町の住民と一緒に作業を続けている中、二人の学生が学院を密かに抜け出していた。薄茶色の髪に青い瞳の男子はコリン。黒い髪をポニーテールにしている女子はミリーザだ。二人とも紺色の制服に身を包み、何やら言い合いながら、朝日で白く輝くシャターラの町中を走っていた。
「ねぇ、コリン! あなたの家にもいなかったんだよ? あと、どこを探すつもりなの?」
「……分からない。分からないけど、見つけるしかないだろ!? まだ言いたいことがあるんだ!」
彼らが探しているのは当然ミズガルズだ。昨晩の大立ち回りを演じた後、彼は忽然と姿を消してしまった。ファリアス学院長を始めとした教員一同が学院中をくまなく見て回ったものの、結局見つからずに終わった。お礼をしなければならないのに、と項垂れていた学院長の横顔が、コリンの記憶には新しかった。
かく言うコリンもミズガルズに礼を言いたかった。彼は単に立ち寄っただけのシャターラを救ってくれたのだ。今では近海や鉱山に出没していた魔物もぱったりといなくなってしまった。コリンは半ば確信していた。ミズガルズこそが母の予言した救世主だったのだ、と。
最後に、別れる前にもう一度だけ会いたい。その気持ちがコリンを突き動かした。普段からの運動不足が祟り、息は既に上がりかけていたが、それでも諦められなかった。このまま終わるなんて、そんなことは望んでいない。
「そうだ! 港だよ、港にまだ行ってないじゃん!」
ミリーザの一言にコリンの足が止まる。港……そういえば、もうそろそろ大陸の本国に向かう連絡船が出航する時刻だ。なら、もしかしたら。
「……ミリーザ! 君の言う通りだ!」
二人は再び駆け出した。目指すは船舶の立ち並ぶ港だ。
◇◇◇◇◇
朝の港に一隻の巨大な船が停泊している。回りには数え切れないほどの人が群れていた。皆、これから海を渡って大陸に行こうとしている者たちである。近海を荒らし回っていた魔物もどこかへと消え去り、ようやくティラヴェリア地方とエラーティエ帝国の本土が連絡船で結ばれるようになったのだ。乗船する客の中には本土出身の者もいるらしく、帰郷出来ることを嬉しそうに話していた。
誰もがやっと訪れた束の間の平和を喜んでいる中に、とある二人の姿があった。ダブダブの服を着込み、腰布に剣を差した黒バンダナの男はルーファス・ファシアータ。かつては大物の海賊として海で名を轟かせた男だ。
その彼が対面する人物に手荷物を渡した。何の変哲もない麻布で作った袋である。中には質素な古着が数着とよく磨かれた短刀、それに多少の金銀や貨幣が入っていた。全てルーファスがかき集めた餞別である。受け取る側の人物はありがたく受け取った。そして、別れを言う前に今まで被っていた焦げ茶色のローブのフードを取った。
「……ありがとう、ルーファス。あんたみたいな良い人に出会えて良かった。俺の正体を知った今も、こうして見送ってくれるしな……。この先もどうか元気で」
潮風に白銀の長髪をなびかせる少年の真っ直ぐな目に、ルーファスは照れ臭そうに小さく笑った。
「へへっ、あんな強い魔物に礼を言われちまうとはねぇ……。夢ん中にいるみてぇだよ」
丁度その時だ。向こうの空から何かが飛んでくる。鳥だろうかとミズガルズは思ったが、それは間違いだった。鳥などよりもずっと大きい、その生き物の正体はなんと竜蛇であったのだ。それも見覚えのある漆黒の個体……ミリーザの飼い蛇のノワールだ。
「ノワール! 何で来ちゃったんだよ、お前は!」
困り顔になったミズガルズをますます困らせるかのように、ノワールは彼にじゃれついた。蛇神の回りを飛びながらローブを噛んで軽く引っ張ったりしている様子は、まるで「行かないで。もし行くなら連れてって」とでも言っているみたいに見えた。
「馬鹿、お前を勝手に連れてくことなんか出来ねぇよ。ミリーザのところに戻って……」
言いかけたまさにその瞬間、港に集まった人混みを掻き分けて、当のミリーザ本人が顔を出した。彼女の後ろからはコリンまでもが現れた。ミズガルズは思わず面食らって、口を開いたまま固まった。
「……良かったぁ、間に合って。ノワールもこんな場所にいたんだね……。すっかりリンちゃんになついちゃって」
「ミ、ミリーザ……それにコリンも……一体どうして」
何も言わないままシャターラを出ようとしていたミズガルズはついつい狼狽えた。コリンがクスッと微笑み、蛇神に言う。
「さよならと、ありがとうを言いたかったんです。皆の代表として、それに僕個人としても、シャターラの救世主になってくれたあなたに」
「……ふふ。もう、リンちゃんなんて軽々しく呼べないね。私なんか圧倒されちゃって、なーんにも言えなかったもん」
それはそうと、と、一呼吸置いてからミリーザはノワールを見た。少女の瞳には何とも言えない悲しみの色が浮かんでいた。それはノワールの方も一緒だ。
「……ノワール、もしかして彼と一緒に行きたいのかな?」
寂しげな彼女の声を聞いたノワールは飛ぶのを止めて、石畳の上に降りた。チロチロと舌を出し入れしながら、優しい飼い主を暫しの間見つめて……こくりと控え目に頷いた。それを見て、ミリーザは辛そうな顔になった。
「……ねぇ、ノワールは私が嫌いだから離れたいっていうわけじゃ……ないんだよね?」
それを聞き、ノワールは再び同じように頷いた。今度は間を置かずに即答であった。ミリーザは微かに笑った。そして、改めてミズガルズの方を向いた。
「お願いします、ノワールも連れて行ってあげてくれない、かな? この子はそれを望んでるみたい」
「ミリーザ……本当に良いのか?」
首を縦に振ったミリーザの傍にノワールが近寄った。そして、身体を伸ばすと、少女の頬にツンと鼻先を軽く押し付けた。驚いたミリーザの目尻に涙の玉が浮かぶ。
「……ありがとう、ノワール。どうか、いつまでも元気でいてね……」
ミズガルズは女の子が泣く姿を見るのは嫌いだった。それ以前に湿っぽい雰囲気は苦手だ。だから、ここらで終わらせようと彼は思った。コリンを、ミリーザを、そしてルーファスを順々に見てから、ミズガルズは精一杯の明るい笑顔を見せて、別れの挨拶を言うことにした。
「三人とも、本当にありがとう。コリンには泊めてもらったし、祭りにも呼んでくれた。ルーファスにも随分良くしてもらった。餞別も大切に使う。……それにミリーザの踊りも素敵だったよ。もちろん、ノワールは大切にするし、絶対に守ってみせる」
あぁ、何だか涙が出そうだ。いつの間に自分はこんなに涙腺が緩くなってしまったのだろう。
「……どのくらい先になるかは分からない。だけど、またいつかこの町を訪ねるよ。だから、その時は今と同じように歓迎してくれるかな?」
問われた三人はそれぞれが力強く頷き、屈託無く笑った。それを見たミズガルズも笑う。もう大丈夫だ。何も心配など要らない。また、旅に出かけよう。仲間が待っているのだから。
◇◇◇◇◇
竜蛇ノワールを連れたミズガルズが船に乗り込み、やがてその大きな船体も沖の向こうに遠ざかってしまった後、港には人間がほとんど残っていなかった。一気に静かになり、波の音ばかりがはっきりと聞こえた。
最後まで海の向こうを眺めていたコリンが踵を返して、学院に戻ろうとした。その時に彼は今更ながらも、ルーファスに気付いた。うっすらと微笑みを浮かべる野性味溢れる男を前に、コリンはついに疑問をぶつけた。
「……僕は、ずっとあなたのことが気になってました。どこかで会ったことがあるような気がするんです。……それとも、僕の単なる人違いですか?」
やけに澄んだ目をしたコリン。彼の隣でハラハラしているミリーザ。そんな二人を見つめていた男が不意に口を開いた。
「……人違いじゃあねぇよ、コリン。俺ぁ、小さい頃のお前さんとよく遊んでやってたんだぜ? 覚えてねぇかい、ルーファスお兄さんだよ」
コリンの目が大きく見開いた。彼の記憶の中で、ある海賊の顔が鮮明に蘇った。そうだ、父さんと仲の良かった若い海賊の船長……彼の名は確か。
「ルーファス……ルーファス・ファシアータ船長……生きてたんですか……」
「……すまねぇ。今まで恨まれてると思ってたんだ。お前さんの親父は亡くなっちまったのに、俺だけが…………」
ルーファスの言葉は半ばで遮られた。彼の細い身体にコリンが抱き着いてきたからだ。海賊の胸に顔を埋める少年は僅かに震えていた。
「恨んでなんかない……! どうして早く言ってくれなかったんですか……」
「……ごめん、コリン。俺が悪かった」
馬鹿な奴だと、ルーファスは己を嘲った。親友の息子を泣かせてしまうとは。全く、かつての大海賊が聞いて呆れてしまう。もしデレクが生きていたら殴られても文句は言えないなと、彼は寂しげに口元を曲げた。
「コリンから聞いたことあるけど……ファシアータ船長って、随分な大物だったよね、確か。それにコリンの母さんとも知り合いだったっけ? 今から教会にでも行っちゃう?」
邪気の無いミリーザの言葉にルーファスは突然慌て始めた。
「な! 嬢ちゃん、それぁダメだ! 俺はなエイリーンがかなり苦手で……ほら弱味を握られてんだよ! あいつ、意外と腹黒くってなあ……」
いつの間にかコリンもミリーザも笑っていた。ルーファスも嫌だ嫌だと喚きながらも、顔は笑っていた。一度は廃人同然にまで成り下がった海賊も、ようやく失われた時間を取り戻し始めたようだった。
朝日に包まれたシャターラの港に賑やかで楽しげな笑い声が響き渡る。そこには確かに幸せの種が芽吹いていた。




