逆襲へ
場所は変わり、学院内の特別来賓室前。丸腰の領主スチュワートに冷徹な人形の白刃が襲いかかった。息子のウィリアムが何かを叫ぶが遅い、間に合わない。彼らに打つ手は残されていなかった。死を覚悟し、スチュワートがギュッと目を瞑った。
「……! ……?」
斬撃が来ない。何の衝撃も無い。肩透かしを食らったような、そんな気持ちのまま、スチュワートは恐る恐る目を開いた。目の前には相変わらず不気味な泥人形が立っていた。無表情で感情の読み取れない顔をスチュワートに向けたまま。
そして次の瞬間、泥人形は振り上げていた剣を落とし、上半身を真っ二つに切断されて、力無く床に崩れ落ちた。わけも分からず、父と子は立ち尽くすのみ。二人の意識を覚醒させたのは、泥人形の向こう側から現れた男だった。
「いよう、大丈夫か? そこのお二人さん」
身につけた衣服は良く言えば質素、悪く言えば粗末。頭には黒のバンダナを巻き、金褐色の髪が目にかからないようにしていた。身分は平民か、もしくはそれ以下か。恐らく学院関係者ではないだろう。現役の学生であるウィリアムも見たことの無い顔だったし、何より纏う空気が異質だった。
「き、君は一体、誰だね?」
未だ固まっているスチュワートが男に言った。男は剣に付着した汚れを布切れで丁寧に拭き取っているところだった。彫りの深い、野性的な顔立ちが歪んだ。どうやら笑ったらしい。
「俺か? ……名前はルーファス。落ちぶれた、ただの悪党さ。……んなこたぁ、どうでも良いけどよぉ。ここはあぶねぇ。あんたらも一緒に逃げようや」
「あ、あぁ。無論、そのつもりだよ」
ルーファスと名乗った男に慌ててついていく父親の後を追いかけながら、ウィリアムは小さな引っかかりを覚えた。ルーファスという名前に聞き覚えがあったからだ。どこで聞いた名前だったか思い出そうとしていると、ふと一人の学友の顔が浮かんできた。
(……そういえば、コリンが教えてくれたことがあったな。父親は海賊で、乗っていた船の船長の名が……)
まさかな、と思う。単なる偶然に違いない。それに海賊が人助けをするものだろうか。彼らは自由気ままで己の欲望にのみ忠実な人種だ。もし、自分が海賊で、こんな状況に遭遇したら。きっと、殺されそうな他人など一切放っておいて、自分だけ逃げるだろう。自らの身の安全を最優先にするだろう。ウィリアムはそう思った。
(……こんなことを考えているのは失礼だな。とんだ偏見だ)
ウィリアムは延々と続きそうな思考を頭から捨て去り、とにかく走ることに集中した。色々考えるのは後からだって出来た。今はこの男が誰だって良いのだ。彼がスチュワートとウィリアムの命の恩人であることは間違いないのだから。
◇◇◇◇◇
魔術学院の上空を一人の老人が俊敏に駆け抜けていた。誰なのかなど、いちいち言うまでもない。魔術師、ザムラス・リーワードだ。かなりの高齢であるはずだが、それが嘘に思えるほど彼の走りは速かった。恐らく常人にはその動きを目で捉えることも出来なかっただろう。
(……参ったのう。成り行きとはいえ、後ろ楯を自分から殺してしまったな。もうここには居られぬな……)
眼下には今も惨劇が繰り広げられ、無数の悲鳴が上がっていた。だが、ザムラスは自らが引き起こした悲惨な騒ぎには全く目もくれず、考え事をしながらただにやついていた。邪悪な老魔術師の頭の中では、既に次の実験の構想が練られているところだった。
(……ま、潮時だったということか……)
その時、ザムラスは視界の端に何やら白っぽいものを見たような気がした。それが何だったのかは分からなかった。だが、次の瞬間にはもう消えていた。軽く不安を感じたザムラスだったが、無視して先に進もうとした。けれど、それは間違いだった。
突然、横っ面に強い衝撃を感じたと思ったら、老魔術師は地面に叩き落とされていた。墜落直前に魔法を行使したおかげで致命傷は避けたものの、やはり痛い。老体に鞭を入れ、顔をしかめつつ立ち上がる。すると、そこは学院の中庭であることが分かった。普段なら学生や教員たちで盛り上がる、皆の憩いの場だ。そのだだっ広い広場の真ん中にザムラスは立っていた。魔物たちとの戦いの中で傷付いた学生、教員、一般人たちが呆然とザムラスを見ていた。
「……全く。頑丈な奴だな、老いぼれのくせに」
周囲を取り巻く人間たちと同じく唖然としていたザムラスの意識が急に目覚めた。いや、強制的に目覚めさせられたと言った方が良いかもしれない。静寂の中、静かに響いた声の冷たさに、じわじわと濃度の上がる凄まじい魔力に、そして鮮血で染めたかのような紅い双眸から放たれる鋭利すぎる殺気に。
ふわり、と、音もなくかの者は地に足を着けた。地面が、大気が震えた。ザムラスの身体を痛いほどの威圧感が襲った。常人ならば、それだけで地面に膝をつけるだろう。老魔術師が相対したのは、それほどの相手だった。
「……学院長の爺さんがお前に追跡の魔法だか何だかを掛けてたらしいぜ。気付かないなんて、随分油断していたようだな」
「ちっ……!」
ザムラスが舌打ちした。確かに背後まで気が回らなかった。よりによって追跡魔法などを掛けられていたとは。このまま悠々と逃げるつもりだったが、そう上手くは行かないらしい。
ならば、先制して一発で仕留めるまでのこと。跡形も残らぬほど破壊してやってから、ゆっくりと逃げれば良い。ザムラスは凄絶な笑みを浮かべ、杖をかざした。
「死ぬと良い! どこの馬の骨とも知れぬ若造があああああああ!」
構えの一つすら取っていなかった銀髪の少年を包み込むように大爆発が起きた。それも一度では終わらない。何度も何度も鼓膜を破るような爆発音が響く。耳を押さえ、凄まじい閃光に思わず目を閉じる学生たち。笑っているのはただ一人、ザムラスだけであった。だが。
「…………殺したつもりか? 糞ジジイ!」
永遠に続くはずだった爆発の魔法が消し飛ばされた。目を見開くザムラスの前で巨大な魔力の塊が渦巻いた。まるで竜巻だ。ビリビリと空気が揺すられる。中から現れた少年がザムラスを真っ直ぐ睨んだ。ゆらゆらと揺れる白銀の長髪は彼の怒りを表しているかのようだった。ぞっとするほど鋭い紅の瞳に射抜かれて、老魔術師は本能的に恐怖を覚えた。
「き、貴様、何者なのだ? 私の魔法を無効化しておいて、ただの人間だとでも言うか? な、名を名乗れ!」
老魔術師は威厳を保とうと必死だ。もはや滑稽でさえある。声まで震えているのだから。少年は短く笑った。
「……そうだな、冥土の土産だ。教えてやるよ」
ザムラスが唾を飲み込む。しわがれた肌に汗が浮かぶ。その時だけ、やけに静かであった。
「ミズガルズ。俺はそう呼ばれてるただの魔物さ」
大して大きいわけでもない。怒鳴ったわけでもない。なのに、その高い声は妙によく通った。他に雑音はほとんど無く、赤眼の少年の言葉は広場にいた大方の者の耳に届いただろう。当然、ザムラスの耳にも。
「う、う、嘘を言うなああああああ! この小わっぱがあああああああああああああああ!!」
咆哮とともに魔術師が内包していた魔力が一気に溢れ出した。急激に濃度が上がり、どす黒い魔力の波が渦を巻いた。広場の石畳は抉れて、破片が宙へと舞い飛ぶ。いつの間にか距離を取って避難した観衆が、広場の外縁部からその様子を見守っていた。
濃密な魔力が噴き出し、老魔術師ザムラスは徐々にその姿を変貌させていく。着ていたローブは焼け落ちて、狂気のこもった瞳の色も濃い紫色に変わる。それだけでは終わらなかった。静かに見つめるミズガルズの前で、ザムラスの肉体がどんどん大きくなっていったのだ。気付けば見上げるほどの高さにまで伸びていた。ミズガルズがザラフェで殺した巨人どもと同等か、もしくはそれ以上だろう。
遥か高みから、少年はぎろりと見下ろされた。ぎらついた瞳と言い、毒々しい深赤色に染まった肌と言い、それはもはや人間の姿ではなかった。何せ、額からは一本の太い角が生えていたし、開いた口には鋭い牙がいくつも覗いていたのだから。化け物、そう言っても、全く言い過ぎでなかった。
『人間の肉体は実に脆弱だ。だが、魔物はそうじゃない! 魔物の肉体を手に入れることが出来れば、それだけで飛躍的に基礎能力が上がる! ……こうやって貴様を簡単に踏み潰せるぐらいにな!』
醜悪な巨人と化したザムラスが吼えた。そして、いきなりの跳躍。着地地点はミズガルズの真上だ。少年は短く呻き、力の限り横に飛んだ。ほぼ同時に全体重を乗せて着地したザムラスが地震を引き起こした。石畳は完全に抉り取られて、無数の大きな破片が大量に空気中を舞った。何人もの学生たちが尻餅をついた。
揺れる視界の中、ミズガルズは広場の外縁部の人だかりの真ん中にコリンを見つけて安堵した。彼が生きていることが分かって、心底嬉しかった。けれど、その一瞬の気の緩みがミズガルズにとって致命傷となった。
不意に何かに身体を思い切り強く掴まれた。そう感じた時には既にミズガルズの足は地面から離れていた。彼は巨大化したザムラスに鷲掴みにされ、丁度顔の高さほどまで持ち上げられていたのである。ザムラスの力は強く、この握り拳の内からは逃げられそうにない。奮闘するミズガルズを見て、ザムラスは嘲りの笑いを浴びせた。
『小僧! 無駄なことをするな! これでお別れだ!』
高らかに笑った巨人ザムラスはそのまま強く、強く拳を握り締めた。もちろん、ミズガルズを掴んでいる方の拳だ。ぐちゃぐちゃに潰れた少年の姿を思い浮かべて、彼は大笑いした。期待に胸を躍らせて、握っていた拳を開く。だが。
『……な、に……?』
手の平には何も乗っていなかった。人間の残骸も血液も……何一つ無い。そんな馬鹿な、と、ザムラスは混乱に陥った。確かに掴んだはずだった。この手の中にいたはずだったのだ。なのに、何故。
『悪いが、お前の負けだよ』
ハッとなったザムラスの視界に細い蛇が映った。丸太の如く変貌を遂げた腕に乗っかっていたのだ。その小さな白い蛇がこちらを向いて鋭く睨んできた。ザムラスにはその時、そう思えた。
目映い光がその場を包む。広場にいた者たちの視界が一時的に奪われた。そして彼らが目を開けた時、そこには驚愕の光景が広がっていた。とてつもなく長大な白蛇が邪悪な巨人に巻き付いていたのである。




