決戦へ
異常な光景だった。地面には黒い影が無数に浮かび上がり、そこから泥人形を筆頭とした魔物の群れが現れる。どれもこれも不気味なものばかりであった。表情は持たず、何か声も発しない。突如出現したと思ったら、ただ機械のように、ただ誰かに造られたものであるかのように動き、周囲の人間を殺戮し始めるだけ。彼らに感情というものは無かった。少なくともミズガルズにはそう見えた。
「ひ、酷いよ……何が起きてるの……?」
呆然として、よろめくミリーザをコリンが支えた。彼も突然の惨劇に言葉を失っていた。冷静に思考出来ているかも怪しい。けれど、ミズガルズだけは違った。この状況が何を意味しているのか、蛇神となった少年には分かっていた。
これは単なる魔物の襲撃ではない。ミズガルズはそう確かな確信を持った。魔王に率いられた魔物たちと実際に相対したことがある彼だからこそ分かった。この襲撃には奴らの、魔物どもの感情が感じられなかった。本来なら少なからず感じ取れるはずなのだ。人間を殺した時に魔物たちから生まれる……喜び、優越感、それに征服感といった邪悪ながらも豊かな感情が。
だが、今ここにはそれが無い。全く感じられない。ならば、一体どういうことなのか。少年の頭が敏速に回転し、瞬時に解答を導き出した。
(……もしかしたら、こいつらは誰かに創造された魔物なのか?)
仮に魔術の知識にずば抜けて長けている者がいるとしたら。もし、そいつが人工的に自らの手で魔物の軍団を生み出したのだとすれば。今、眼前で巻き起こっている事態の説明はつく。そして、実際にそれは有り得ないと言い切れることではない。単なる異世界の人間だった少年が蛇の神となったのだ。絶対の不可能はきっと存在しない。
「ミリーザ! 早く立って!」
コリンが幼なじみを叱咤し、杖を取り出した。鈍く光る剣を振りかざし、襲いかかって来ていた泥人形に向けて魔法を放った。赤い炎が飛び出し、人形を飲み込む。その間にコリンはもたついていたミリーザを立たせ、自分の後ろへと匿った。一方で高熱に炙られた泥人形はぐずぐずと崩れ去った。
「皆! 怯むな! 火で対抗するんだ!」
周囲にいた学院生たちはコリンが叫んだのを聞いて、逃げることを止めた。各々が杖や魔導書を手に取って、戦い始める。夜闇に包まれた中、魔法によって生み出された炎がばんばん飛び交う様は圧巻だった。さすがは魔術師を養成する学院だとミズガルズは状況を忘れて感心していた。
コリンは杖を構えて魔物と対峙しつつ、傍で戦況を見守っていたミズガルズにも大声で言った。恐らくミリーザと一緒に銀髪の少年のことも守るつもりなのだろう。端から見れば、ぼんやりとしているようにしか見えなかったに違いないミズガルズに対して、切迫した表情をしていた。
「リンさん! 何やってるんだ? ここは僕に任せて、ミリーザを連れて逃げてください!」
焦るコリンに向かって、ミズガルズは微かに笑った。コリンの男気は見事だ。たった十六の少年がそう簡単に言い切れる言葉ではない。だが、勇気があるだけでは駄目なのだ。コリンに全く実力が伴っていないわけではないが、如何せん無謀過ぎた。この魔物どもは所詮いくらでも代わりがいるただの兵隊。操っている何者かを潰さなければ、それこそ際限無く湧いて出てくるだろう。
「コリン、こいつらは自然に生まれた魔物なんかじゃない! 多分、誰かが人工的に造ったんだ!」
「は? 何で、そんなことが分かるんですか!?」
苛立ち紛れにミズガルズは泥人形の一体を自ら真っ二つにした。使ったのは、氷で生み出した一振りの刀だ。今も白く煙立つ冷気が刀身から迸っていた。
「俺は本物の生きた魔物の軍勢と戦ったことがあるから分かるんだよ! こいつらからは……何も感じ取れない。恐らく人工物だ!」
思わずコリンはたじろいだ。元々実戦経験などほとんど無い上での、この状況だ。複雑なことを言われて、ますます混乱しているのだろう。それも無理も無い。
「なら、どうすれば……?」
「こいつらを造った奴……術者を殺らなきゃ、いつまでも終わらない! でないと、こいつらは無限に増え続けるぞ。学院祭に集まった全員を殺すまでな!」
みるみる内にコリンの顔から血の気が失われていく。ミズガルズは決意を固め、一肌脱ぐことにした。
「任せろ、コリン。俺が何とかしてみせる……!」
◇◇◇◇◇
いくら説得しても、残って皆と戦うと言って耳を貸さなかったコリンを置いていき、ミズガルズはひたすら学院の屋根の上を駆け、時に跳躍する。彼の大きいとは言えない背中にしがみつくのはミリーザだった。結局、彼女を隠れさせておける安全な避難場所が無かったのだ。それほど学院は隅から隅まで無機質な魔物で溢れていた。
ミズガルズの背にしがみついているミリーザは驚きの連続だった。あまりに信じられない事態が立て続けに起こったせいで、ろくに口も開けないでいる。彼女にとって一連の出来事はまさに今まで甘んじて受け入れてきた常識の範疇外にあった。
まず、第一に人間が密集するシャターラのど真ん中に鎮座する巨大な魔術学院、そんな場に魔物が何の前触れも無く出現したことが信じられなかった。それに何故、実力ある学院の教員たちまでも、この事態の勃発に直前まで気付けなかったのだろう。未熟な学生ならともかく教員にしてみても予想外だったなんて……。
(それに、どうして、リンちゃんがこんな)
ミリーザから見れば、ちゃん付けしたくなるほど可憐な容姿をしたか細い少年に、何故こんな芸当が出来るのか分からなかった。こうして背負われている今だって、まだ夢を見ているような気分でいた。何らかの魔法を使って身体能力を上昇させているのかもしれない。もし、そうでなかったら、明らかに人間業ではない。少女一人背負って建物の屋根の上を駆け巡るなんて、とてもじゃないがただの人間には成し得ないだろう。
「……ねえ、リンちゃんてさ。もしかしたら……本当に人間じゃなかったり、するの?」
返ってくるのは沈黙。答えてもらえないか。ミリーザはそう思った。
「もし、そうだとしたら、俺は何だと思う?」
「……魔物かな? それとも神様の使い? ……よく分かんないや……」
「そうだな、それは正解でもないし不正解でもない。今の俺は自分でもいまいち分からないような……曖昧な存在だよ。……まあ、ミリーザの言う通り、人間じゃない。肉体は魔物、でも人間の精神が混ざってる。で、最近は色々あって、何だかそれ以上のモノになった。本当、俺は何なんだろうって、時々分からなくなる……」
「ただの、旅人だっていう話は嘘だったんだね」
「驚かないのか? それに、よくそんな簡単に信じられるな。俺は絶対馬鹿にされると思ってたけど……」
そこで会話が途切れる。今の話を耳にしても、ミリーザは大して動揺しなかった。やっぱりね、という思いの方が強かったからだ。一目見た時から、彼女はリン――ミズガルズ――に違和感に近い、人間離れした印象を抱いていた。銀色に輝く長い白髪や血のように紅い瞳はもちろん、纏う雰囲気はどこか常人とは違っていた。妖艶で底知れなく、邪悪さと神聖さが入り混じったような、一言では言い表すことの出来ない空気が漂っているのをミリーザは感じ取ったのだ。
不思議な人だ。人ではなく魔物らしいが。それでも、ミリーザやコリン、それに学院の人々を傷付けるような真似もしないし、そもそもそんな素振りも見せていない。人外じみた美しさを備えているが、その中身は完全に人間のものだ。心優しい、普通の少年のものだ。だが、だからこそミリーザは心配していた。と言うよりも、恐れていた。この不思議な少年は自らを人間ではないと言った。確かに魔物だと言った。彼は……誰か人間を殺したことがあるのだろうか。きっと、あるのだろう。そして今から起こる事態の成り行き次第では、ミリーザの目の前で人を殺めるかもしれない。けれど、少女にそんなことを聞く勇気は無かった。
そうこうしているうちに、ミズガルズがふと学院の屋根上で立ち止まった。今まで彼の傍らを飛行していたノワールも空中で動きを止め、翼をはためかせた。少年の背中越しにミリーザが見たものは、学院の中心に聳え立つ職員棟だった。教員や事務職員などが主に出入りする棟で、学院の中でも最も立派な建造物の一つだが一般生徒にはあまり縁が無い。生徒会所属の優秀な学生や、教員に職員室まで呼び出された者は別として。
その巨大な職員棟から、さらに天空に向けて伸ばされたかのような細い塔が存在した。そこには、魔術学院の総責任者である学院長が頂上に私室を構えていたはずだ。ミズガルズは何故かそこを見続けている。ミリーザは少年の背中からそっと降りて、彼の横に立った。かなりの高さと下から吹き上げてくる冷たい風が恐怖心を煽ったが、気取られないようにしっかりと前を見据えた。そして彼女が言葉を発する前に、少年が口を開いた。
「俺は人間より感覚が鋭敏なんだ。ついでに直感もよく働くみたいでさ……。気付けば、ここに足が向かってた」
ミリーザは何も言わなかった。彼女が何を言ったところで、どうにもならない。今はこの底知れない白髪の少年に賭けるしか、いや彼を信じるしかないのだから。
「それに騒ぎを起こす馬鹿の立場に立って考えてみりゃ分かる。これが略奪でもない、何の目的も無い単なる破壊行動だとしたら? 犯人がただ単に自分の力で学院を蹂躙して、無差別に人間を殺したいだけのヤツだったら? きっと、そいつは現場にいるぜ。自分の力で全てをぶっ壊すのが楽しくて仕方ないんだからな……恐らく高みから見物でもしてるだろ」
極めて冷静に、静かに言う少年の顔を見ずに、ミリーザはついに尋ねた。あるいは、それは質問というよりは確認だったのかもしれないが。
「……リンちゃんは昔、そういう相手と戦ったことがあるんだね?」
「まあ、割と最近の話だけどあるよ。……それにこの先もずっとそういうのには巻き込まれると思ってる……それこそ永遠にね」
その時、ミリーザは何となく悟ってしまった。この少年は心は人間のものなのだろうが、人間から遥か遠くにある存在なんだ、と。それが少しだけ寂しかったからか、それとも決戦の前に落ち着きを取り戻したかったからか、とにもかくにも彼女はあえて話題を変えた。
「もしかして、リンっていうのも偽名なの? そうなんでしょー?」
からかうような少女に、少年は笑って応えを返す。
「うーん、大昔は違ったけど。今じゃ、立派な偽名になっちゃったかな」
また、よく分からない回答が返ってきた。これも正解でもなく、だからと言って不正解でもないということだろうか。それって一体どっちなのだろう。考えると思考がこんがらがってしまうので、ミリーザはいっそ考えることを放棄した。そうしてから、何故だかすっきりとした表情になって、横に立つ少年に言うのだった。
「勝てるんでしょ? 例え、相手がどんな奴でも」
「……負けることはあるが、生憎俺は死なない身体でね。つまり結局、最後には俺が勝つってことさ」
星が煌めく夜に、一陣の風が吹き抜けた。冷たくて、鋭い。でも何故か、ミリーザにはその冷風が心地良く感じられた。
「安心して良いよ、ミリーザ。……こんな俺でも、魔王だって倒せたんだからな」
唐突な言葉の意味を理解して、目を見開いたミリーザ。彼女を真っ直ぐと見つめる双眸は、獰猛に、好戦的に、全く輝きを失わずに、赤く、紅く、夜の闇の中で燃え上がっていた。




