蹂躙される王都
中央のケントラム大陸から見て西に浮かぶ、オキディニス大陸。南北に長いこの大陸の南東部、そこにバルタニア王国は位置する。軍事、経済、教育と、あらゆる面で優れた大国だが、王国は今、未曾有の危機に陥っていた。
それは王都ティルサへの、魔族たちの襲撃だ。既に城下町は火の海と化し、上空にはおぞましい奇怪な城が浮遊している。王族であるアルメンダリス家の一族が住まう王城からも黒煙が天に向かい、立ち上っていた。
「助けてくれっ!」
炎が赤く照らす石畳の上を逃げ惑う群衆の群れ。今や街のほぼ全域に、魔王が放った魔物の軍団が溢れ返っていた。店は襲われ、商品は叩き潰される。必死で逃げていた人間がゴミのようになぶり殺される光景は目を背けたくなる。ある女は裸に剥かれ、彼女の恋人である青年は骨が砕ける程の暴行を受けていた。
老人や子供の扱いは更に酷かった。わざと殺さず、両手足だけを折って楽しんだり、暇潰しのために凄惨な拷問にかけるのだ。どの魔族たちも笑っていた。異形の者たちは異様な笑い声をあげながら、この状況を心の底から楽しんでいた。
「やっぱりよォ! 魔王様について良かったよなァ! あの方こそが、世界の支配者だァ!」
赤い肌に緑色の目をした小鬼が言う。その手には人間から奪った宝石が山と収まっていた。
「い~や。俺はそうとは……思わねぇけどなぁ! 糞野郎!!」
驚いて振り返った小鬼の顔面を鉄製の棍棒が直撃した。そのまま彼は吹き飛ばされ、地面に身体を強くぶつけた後、ピクリとも動かなくなった。
固まる周囲の小鬼たち。彼らの目に映ったのは、一人の大柄な男。鈍く輝く得物を振り回し、思い切り突っ込んで来る。
「俺様のティルサにようこそ! これは俺からの贈り物だ! ありがたく受け取りやがれっ」
猪突猛進。そんな言葉が相応しい。棍棒の扱い方も、まるで滅茶苦茶だ。それでも、小鬼たちは次々と薙ぎ倒され、地に沈んでいった。堪らなくなって、残党たちが逃げ出した。
額の汗を拭う、黒い肌の大男。ティルサの地下街を仕切る顔役、ケネス・キャロウだ。その彼に向かって駆け寄って来る青年が一人。くすんだ金髪に灰色の瞳。なかなかの美男子で、血濡れた細身のサーベルを携えている。心なしか、疲れている様子だ。息も途切れ途切れだった。
「おう、エルストンド家の坊っちゃん。大丈夫か? 無理すんなよな」
「だ、大丈夫だ! あまり、なめないでもらいたい……!」
呼吸も荒く、あまり説得力は無かったものの、貴族の青年アレハンドロ・エルストンドの瞳に宿る光は力強かった。ケネスもからかってはいたが、痩せた青年のことを頼もしく思っていた。
彼ら二人の周りに、様々な武器を手にした市民たちが集まった。自分たちの街を守ろうと立ち上がった有志の集団だ。そして、そこにティルサの警備兵の一部も加わった。その中には例の三馬鹿軍団である、アロンソ・ダリ、フォンス・アグアージョ、イニゴ・コルドバも混じっていた。だが、常日頃の頼りなさは見受けられない。三人とも真剣な顔付きだった。
「……な~んか、俺がリーダーみたいになっちまってんなぁ。これで良いのかね?」
毛の無い頭を掻き、ケネスが苦笑いを見せる。
「良いに決まってるじゃないか。ボクたちの街は、ボクたちしか守れないだろう? 今は貴族も悪人も、普通の市民でも……皆が一つにならなきゃいけない時なんだ。誰がどうかなんて関係ないよ」
「…………ほぉ」
アレハンドロの思いもよらない強い台詞に、ケネスは感嘆した。彼は白い歯を見せて、ニヤリと笑い、宣言した。
「良いね、相棒! 最高だぜ! ……皆でティルサを取り返そうじゃねぇか!!」
群衆の咆哮。今、反撃の狼煙がはっきりと上がり始めた。
◇◇◇◇◇
魔王が付けた傷跡だけが残された、バチェの城内の中庭。真紅の炎竜イグニスは変わらず昏睡状態に入っている。すぐ脇でへたり込んでいるのは、エルフのサネルマだ。血と汗で橙色の髪は額に張り付き、今の彼女の暗い雰囲気に拍車を掛けていた。涙でぼやけた視界には、恐らく何も映ってはいまい。
「イグニス……」
竜は呟きに応えを返さない。当たり前だ、眠っているのだから。
ぐずぐずと鼻を啜るサネルマの目の前に少女がふわりと降り立った。天使が竜を迎えにやって来たわけではない。むしろ、天使とは全く正反対の存在、淫魔の少女だった。
活発さを感じさせる翡翠色の大きな瞳に艶やかなワインレッドの髪。露出度の高い服装や頭の角、長く伸びた尾、それに漆黒の翼が、幼いながらも彼女が悪魔であることを示していた。
「ねぇ、いつまでそうしてるつもりなの?」
淫魔の少女リリアーヌが言う。若干、棘の入った口調であった。
「そこのドラゴンさんを助けたいんじゃ……ないの? どうして何もしないの?」
「……わ、私は……」
口ごもるサネルマ。そんな彼女に、リリアーヌは一気に思いをぶちまけた。
「お姉ちゃん、エルフなんでしょ? エルフはすぐに諦めちゃうの!? ……あたしはそんなのイヤ! 最後まで諦めない。後悔なんかしたくないっ! お姉ちゃんもそうするべきよ!」
一旦、言葉が途切れる。サネルマは圧倒されて、何も言えなかった。
「……お姉ちゃんはあの神様みたいに力を取られてないでしょ? 二人でやれば、きっと何とか……」
言いかけたところで、リリアーヌがばっと背後を振り返った。複数の足音を耳に拾ったからだ。敵に囲まれたか。そう思った少女の目に映ったのは。
「……二人だけではないですよ。淫魔とエルフのお嬢さん方。我々全員で、そこの竜の方を救いましょう」
魔物の襲撃に耐え、生き延びていたバチェの悪魔族たちだった。顔ぶれは老若男女様々である。誰もが傷を負い、服も顔も汚れていたが、一人として悲嘆にくれている者はいなかった。
皺の目立つ老いた紳士の悪魔が代表して、前に進み出る。彼は今は亡きリュドヴィクに仕えていた貴族である。柔和な笑顔を浮かべて、彼はサネルマに語りかけた。
「悲しいのは分かります。けれど、ここで引き下がったら、負けと一緒です。立ち上がって、最後まで足掻いてみませんか?」
男が、女が、子供が、老人が頷く。悪魔族たちは多くを奪われた。それでも、彼らは立っている。地に座る者は誰もいない。強いんだな、と、サネルマは素直に羨ましくなった。
顔を上げたサネルマに向かって、リリアーヌが手を差し出していた。少し恥ずかしそうに、頬を赤らめていた。
「やろうよ、エルフのお姉ちゃん。皆が力を合わせれば、ドラゴンさんも助けられるし、魔王だって倒せるよ!」
根拠の無い、子供の言葉だ。なのに、サネルマの硬くなっていた心はほぐされていく。彼女はようやく口元に笑みを見せ、涙を拭うと。
「……あぁ、その通りだな。最後まで抗ってやろうか」
立ち上がり、傷ついた炎竜に手を触れた。
◇◇◇◇◇
白銀に煌めく巨体が木々の間を蠢く。森に住む動物たちは誰もが道を空ける。蛇の神が怒っている。皆、そのことを知っているのだ。鳥の群れは激しく鳴き、森全体がざわめいた。
幾つもの下草を踏み潰し、多くの生き物を恐怖におののかせた後、ミズガルズは遂に深緑の森から抜け出した。眼前にはなだらかな草原が広がっていた。青々とした草花の上を吹く風は血の臭いを運んで来る。伸びる道の向こうに見えるティルサからは火の手が上がっていた。
城下町の上空に居座った不気味な城を睨み付けていたミズガルズだったが、ふと別のものに意識を持って行かれた。街道を走りながらこちらへ向かって来る人間たちが見えたのだ。彼らは必死な形相をしていて、何者かから逃げようとしているように見えた。
生憎、その予想は正しかったらしい。街道を駆ける人々の背後から、魔物とおぼしき者共が現れた。容姿は多種多様である。三つ目の黒い巨人、槍や剣を構えた白骨の兵士、目の無い怪鳥、それに羽の生えた巨大な百足の化物……。
凶暴で醜悪な魔物の群れが人間を追いかけ回し、楽しみながら襲っていた。ミズガルズが唖然とする前で、若い女がドクロの兵隊に斬殺された。怪鳥が吐いた火に包まれて、足の遅い老人が断末魔を奏でた。家族を連れていた父親も、子供と妻をかばって魔の手の犠牲になった。
(……何なんだよ、これは……)
怒りなのか、悲しみなのか、それとも戸惑いなのか。胸の内に渦巻く息苦しい感情がミズガルズを縛った。森から半身を覗かせたまま固まった彼に、魔物の一団が気付いたようだ。仲間だと思ったのか、人間を踏み潰しながら近付いてきた。
『ようお前、見ねえツラだけどよ。一緒に参加しねぇの? めちゃめちゃスッキリするぜぇ』
三つ目の黒い巨人が人間をひょいと掴み、拳で握り潰してみせた。だくだくと暗赤色の血が流れ落ちた。返事をせず身体を震わせるミズガルズを見て、魔物どもは笑い声を立てた。『臆病者』だとか『喋れねぇのか?』などと、嘲りの言葉が聞こえた。ミズガルズと魔物の一団に挟まれた人間たちは諦めた様子で地面に崩れ落ちた。その場で自殺を図ろうとする者までいる始末だった。
そんな人間たちを軽く一瞥した後、ミズガルズは三つ目の巨人を正面から睨み付けた。血の色をした瞳が放つ眼光は鋭い。そして、少し気圧された巨人が身を一歩引いた時。街道脇の森から飛び出した白蛇の尾が、彼の身体を弾き飛ばした。
しなる尾の一撃を受けて、巨人は草原の向こうの方まで吹き飛んだ。地面を抉り、何回か転がってから、ようやく止まる。鼻と口からは大量の鮮血が流れ、生死は定かではない。彼と一緒になって人間を追いかけ回していた魔物たちは思わず硬直した。皆、一様にぽかーんとしており、一体何が起こったのか理解出来ていない様子だった。
『……お前らと一緒にするな。反吐が出る』
静かに呟かれた侮蔑の一言を合図に、怒り狂った魔物たちが蛇の神に襲いかかった。だが、それは戦いにすらならなかった。ミズガルズは深く息を吸い込み、迫り来る敵の集団に向けて、思い切り吐き出した。絶対零度の氷の吐息が魔物の身体の自由を奪い、同時に命も刈り取っていく。街道にへたり込んでいた人間たちは、あっという間に絶命した魔物たちを見上げて呆然としていた。
まさに一瞬の出来事。蓋を開ければ、数秒での決着であった。ミズガルズは魔物たちには目もくれず、長い身体を滑らせる。向かう先はティルサ。ミズガルズにとっては大切な場所だ。どこよりも壊されたくない、そう思える程に。
(好き勝手、やりやがって)
青々と繁った草の上を白銀の大蛇は駆け抜ける。手足の無いことを考えれば、その速度は信じられないぐらい速いものであった。器用に身体全体を動かし、彼は着実に街へと近づいていく。
(……何が魔王だ。ふざけんな!)
ティルサの街並みはもう目の前だった。
◇◇◇◇◇
「姫様! 急ぎましょう!」
群青色のローブに身を包み、少女を先導する青年がいた。宮廷に仕える魔術師、ダミアン・バティスタだ。薄茶色の長髪と中性的な顔が印象に残る青年である。
彼の後に続くのは、このバルタニア王国の第二王女、エルシリア。目映い金髪とエメラルドのような瞳が美しい、正統派の美少女だ。華々しい姿とは裏腹に強気な性格で、武術や剣術にも優れた活発な王女だ。実はそんなところにダミアンは憧れにも似た恋心を抱いているのだが……今は止しておこう。そんな恋慕の情を感じている暇はないのだから。
「ダミアン! 一体どこに逃げると言うのだ! 父や姉上たちともはぐれてしまったと言うのに!」
よく通る声でエルシリアが叫ぶ。彼女も焦っているのだろう。言葉の端々から切羽詰まった様子が感じられる。だが、焦っているのはダミアンも同じなのだ。
いつもと変わらぬ平和な一日。今日もそうなる筈だった。けれど、あまりにも突然にそれは叶わなくなったのだ。全く感知出来なかった魔物の急襲。雲一つ無い青空に現れた禍々しい浮遊城。見ているだけで不安になるその城から、次々に大量の魔物たちが溢れだし、ティルサ全域を襲ったのだ。醜悪な魔物どもは人々を殺し、街に火を点け、全てを奪おうとしていた。
(国王は無事だろうか……!)
仕える君主の安否をダミアンが思っていた時だった。後方で甲高い悲鳴が上がる。ダミアンはすぐに立ち止まり、後ろを振り向いた。そこで倒れていたのは、エルシリアと共に逃げていた若い侍女だった。うつ伏せになり、全く動かない。背中には無数のナイフが突き刺さっており、白い服を真っ赤に染めていた。
足を止めてはいけない。そう分かっていたのに、ダミアンとエルシリアは動くことが出来なかった。あたかも、その場に縫い付けられてしまったかのように。
「へぇ……。結構な美人じゃないか」
廊下の向こうから近付いてくる、軽薄な声。城の者ではない。嫌な予感しかしなかった。
「俺の女になれよ。世界の全てが手に入るぜ?」
黒刀を携えた魔王はどこまでも悠々としていて。
「世界は俺のものになるからな」
さも当然のように、言ってのけるのだった。




